第5話「お姉さんと自己紹介」


 しょうもない会話を繰り返した俺たちはとりあえず、リビングへ移動した。


「……っ」


 先ほど急いで掃除したなんちゃって綺麗な部屋がご対面。

 一応換気はしたので変な匂いもしないとは思うが……と少し不安になりながら彼女の手を引く。


 実際、彼女の方はというと少し驚いたように口を開けて黙っていた。


 まぁ、何よりも俺の住む家は狭い。リビングとは名ばかりの7畳1ルームである。もちろん、家賃は3万円台とそれなりに都市に近い街では破格ではあるので文句はないがあまり女の子に自慢できるモノではない。


 シナリオを書いているとは言っても生活に余裕なんてないからな、俺は。


「やっぱり、狭かったですかね?」

「え、いえっ……そんなことはっ」

「そうですかね……驚いた顔していたので」

「あぁ、それはその……お恥ずかしい話、男性の部屋にはお邪魔したことなくて……えと、緊張したといいますか……」

「え、そ、そうなんですか?」

「まぁ……普通、おかしいですよね」


 にはは……と苦笑する彼女。こんな美女なのに男の部屋に入ったことはないのかと驚いた。


 経験はなくとも、誰かの家くらいには入ったことはあると思っていた。男なら誰もがお持ち帰りしたかっただろうに。大学時代なんてさぞ光り輝いていたと偏見を持っていたので、かなり意外だった。


 まあ年がら年中引きこもっている俺が言えた話ではないのだがな。


「いや、そんなことないですよ。俺もないですし」

「そうなんですか? 私はてっきり付き合ったことはあるのかと」

「まさかっ。全くモテてなかったので……」


 そう、俺だってモテてたのなら実家を離れて辺境の地で一人暮らしなんかしていない。


 だいたい、学生時代に童貞を卒業するっていう将来の夢を叶えられなかったわけだし、今ではその願いをエロゲのシナリオに向かわせているくらいだ。


 モテるモノならもうやっている。


「あ、それなら私と一緒ですねっ」

「いや、お姉さん、モテてたでしょ」

「そんなことありませんよ。私、昔は結構陰キャでしたので」

「陰キャ……想像できないですね」

「あはは……よく言われます。親にも化けたわねって言われるくらいなので」


 ニコニコと微笑ましそうに髪を耳にかける仕草をする。

 そんな姿にさらにドキッとした。


「って、立ち話もなんですし……その、ソファーに座りましょうか」

「はいっ。お構いなく」




 とりあえず座ってもらい、俺もその隣に腰掛けた。


「腰痛くないですか?」

「えぇ、大丈夫です」


 丁寧に返してくれる。その微笑みに右胸をズキュンと撃ち抜かれる。

 彼女との距離は実に30cmほど。

 近い距離に胸を高鳴らせながらも、しかし俺はというとピンチを迎えていた。


 実際のところ、何をしたら良いかわからなかったからだ。

 経験がない俺に、リードするもない。会話を続けるということにも不安しかないっていうのに、それ以上何をすれば良いのか。


 ここにきて退職後の引きこもり生活が足を引っ張り始めていた。


 よそよそしく伸びをしてから、額の汗を拭う。

 汗は冷たかった。俺は焦っているようだ。


「……」


 時間はもうすぐ23時。

 家に上がってもらってからかれこれ30分以上経っていた。


 真面目に何を話そう。いっそのことを大ボケをかましてみるとか? いや、ここで下手なことをしてしまえば関係が終わってしまう可能性もある。


 俺は文字で語る人間なので、あまり話が上手くない。

 ここまでか。


 彼女に言えることなんて……。


 ん。

 あれ?


 そこで、一つ気がついたことがあった。

 俺たちはまだお互いの名前を知らないということだ。俺は「柊」という苗字をネームプレートで知っているが彼女は違うはず。


 まずはやっぱり自己紹介から始めよう!


「あ、あのっ! お聞きしたいことがあるんですけど良いでしょうか⁉︎」

「は、はい……?」

「俺、そのお姉さんの名前聞いたことがなかったので……教えていただきたいです!」

「な、名前……そういえば言ってなかったですね」

「はいっ!」


 すると、少しこちらに姿勢を向けて、ささっと髪を整える彼女。

 その姿に俺も返すように髪を少し整えると、それを見て少しクスッと笑った。


「真似しなくて良いですよっ」

「あ、いや……その、礼儀かなって」

「……っ可愛いですね」

「で、すかね?」


 いきなりの褒め言葉にドキドキが頂点に上がると、さらに追い打ちをかけるように彼女は俺の手を握って見つめてきたのだ。


「私は柊琴音ひいらぎことねです。君は?」

「お、俺は……神木政宗かみきまさむねです……」


 そうして、23時02分。

 俺たちの恋愛が幕を開けたのだった。

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