夏祭り

「私をお嫁にもらってください」

 大仕事を終えて邸に戻ったたつみを迎えたゆきの第一声である。

 朝っぱらから思い詰めた顔で何を言い出すかと思えば、まさかの嫁入り志願で巽の口はぽかんと開いた。甘い空気などどこへやら、彼女の表情は険しく、声色も切迫している。素直に喜べず伸ばしかねた両手をうろうろさせているうちに、彼女はわっと泣き出してしまった。

「ど、どうした」

「燕送りが、いなくなるって」

 ああ、と天を仰いだ。特定の状況下で生まれた小さな神は、その役目を終えると解けて天地に還るのが常だ。巽などはもう慣れっこだが、幸はそもそも人の子である。個を重んじ、命の終わりを丁重に弔うことは理解していた。かくいう巽も「幸」というたったひとりにこれだけ執着しているのだ。彼女が別れを悲しむ気持ちが、今ならわかる。

 風神の寿命と、幸の嫁入り。巽のなかでふたつの事柄が結びつく。

「あいつも、幸にまた会いたいのだな」

 俯いて唸っていた幸がぴくりと反応した。

「いなくなっても、また会える?」

「まったく同じとはいかないだろうが」

 神々の末席に引っかかっている幸を龍神が娶るとなれば、位は遥かに高くなる。その時点で人ではなくなり、寿命の概念もがらりと変わるだろう。長く生きていれば、それだけ再会の目もあるということ。

 いのちはめぐる。

 深呼吸を繰り返す幸を隣に引き寄せ、一定の調子で肩を叩いてやる。落ち着いてきたのか、こちらに預ける身体が重くなってきたところで、巽の本音がぽろりと漏れた。

「あいつを待つために、俺に嫁入りしようとはなあ」

 これを聞いた幸はばねのように跳ね起きた。

「ごめんなさい!」

「おっと」

 一体何に対して謝っているのか。理由によっては嵐を起こしてしまいそうだ。

 背を丸めてしまった巽に、幸は慌てて取り縋った。

「ちがう、ちがうの。燕送りがいるうちにとは思ったけど、遅かれ早かれというか、お社の祭神もあなただったわけだしもともとそのつもりというか、ああ違う、そういうことではなくて」

 巽はいつものように混ぜ返してはくれない。じっとこちらを窺う目が切なくて、うわべの言葉ばかり並べる己が情けなくて、それでもなんとかして彼の望む言葉を返したい。

 きっとそれが、幸自身の望みでもある。

「長くても短くても、あなたと一緒に生きていたいの。時間が過ぎるのを待つんじゃなくて、生きるための場所に連れてきてくれたのは巽、あなたでしょう」

 懇願するような幸の問いに、巽は一度目を伏せる。そうか、とひとつ頷いて、あらためて幸の双眸を覗き込んだ。

「俺とともにいたいか」

「うん」

 幸は間髪入れずに頷いた。しかし、巽の追及はここで終わらなかった。

「俺のことを好いているか」

「えっ、いま言うの」

「俺は幸のことを好いている。まだやせっぽちの子供の頃から、俺が大事にしてやりたいと思っていた。これからもだ。もし幸が里に帰って、別の者とつがいになるとなったら、里ごと沈めてしまうかもしれない」

「そんなに」

 箍がはずれたのか、ぼろぼろとこぼれる新事実に幸はじゃっかん戦慄した。

「それは困るわ」

「ああ、俺もやりたくない」

 しかし、心が荒ぶれば止められないのだ。力を持つとはそういうこと。だから鎮守が必要なのだ。

 いまだ晴れぬ横顔を、いとしい、と思う。

「あなたが私を大事にしてくれるように、私もあなたを大事にしたい。それが好きということなら、私はもうずいぶん前から好きだったんだと思うわ」

「というと」

 巽の目がきらりと光る。どうやらはっきり言って欲しいらしい。幸も恥ずかしがるのはやめた。

 この気持ちに名前をつける決心がついたのだ。

「あなたが好き」

 風が起こり、雫が舞った。強い陽射しに、夏がきらきらと光る。しかし幸の目には映らない。訪れたのは、優しくてすこしひんやりした、闇。

「宴は盛大にやろう」

 弾む声が、幸を包む暗がりに響く。

「そのほうがあいつも喜ぶ」

「それは」

「気にするなと言っても気になるだろう。急いだほうがいいな、間に合わなくては元も子もない」

 巽は幸の望みを第一に考えてくれる。嬉しくて、幸の腕にも力がこもった。

「それに」

「なに」

「善は急げとも言うしな。幸の気が変わらないうちに」

「失礼ね、変わらないわよ」

 憤慨する幸に巽が眉を下げて笑う。その声に、澄んだ明るさが戻っていた。


 *


 宴は人里の祭りを模したものとなった。よく里に降りる者たちが手本になって、出みせの仮小屋や踊りの櫓が組まれ、ほおずきやほたるぶくろ、おだまきのぼんぼりが灯された。なにかを商うより好きに飾り立てた小屋で悦に入るだけの者も多いなか、酒肴や季節の実りを供する見世があり、獣に化けられる面や青い炎の提灯とあやしげなものも並んだ。素性の知れぬものも数多あり、これには巽の眷属たちがつねに目を光らせる。

 まだ仄明るい夏の宵。これだけの喧騒のなかにあって、主役は間違いなく巽と幸であった。

 白粉をはたき紅をさし、茜色の被衣をかぶった幸。身にまとうのはすべて、燕送りの差配で仕立てたものだ。すこし面白くない巽だったが、なるほどいまの幸によく似合っているので良しとした。蕾のさきから花の色がにじむように、生のうつくしさを引き出している。

 巽の装いは幸との揃い。白縹の着物に若葉の袴で、これがなんとも気恥ずかしい。緩む口元を努めて引き締め、ふたり並んで言祝ぎを受ける。

 夜が深まり、宴もたけなわとなった頃、ぴゅうと弓なりの風が二人をかすめた。

「間に合った」

 目の前に、あちこちに木の葉をつけたままの燕送りがいた。幸の目にどっと涙が溢れる。

「あー、泣くな泣くな。せっかくきれいにしたのに」

「そんなのどうでも」

「よくない」

 ほら、と彼は花束を差し出した。ササユリにギボウシ、豆の花。渡された幸は、野山を抱いているような心持ちがした。何より嬉しかったのは、ふよんと揺れるやわらかな草の穂。

「それ、好きなんだろ」

「ありがとう」

「邸の庭にも種を撒いといたぞ。そのうち山ほど生えてくるぜ」

「勝手なことをする」

 言葉の上では咎めつつ、巽のまなざしはやさしい。幸が天上に馴染めるよう、巽の行き届かないところまでいちばん気遣ってくれたのはやはりこの燕送りなのだ。

「じゃあ、幸せにな」

 燕送りが去ろうとすると、その袖を幸の手がむんずとつかんだ。

「ここにいて」

「いいのかよ、ここ祝言の場だろう」

 抵抗を試みるが、幸はてこでも離そうとしない。存在自体の格も上がっているから引き剥がすことも叶わない。思わず巽に助けを求めた燕送りだが、その相手はゆるゆると首を振るばかりだ。

「ちぇっ、しょうがねえな」

 それから後は、飲めや歌えやの大盛り上がり、さまざまな神や精霊の類が入り混じり、舞も乱入だらけの無礼講。これに地上ではおかしな風が吹き荒れたという。

 宴の最後は火の神が務めた。小屋も櫓もひとところに集め、大きな篝火として焚き上げる。散らす火の粉が童となって舞い踊り、その姿を見たと思うと夜空に消える。儚くも美しい祝福であった。

 不意に、幸の隣から気配が消えた。心臓をつかまれたような心地でそうっと振り向くと、幸が繕ったあの団扇だけがぱたりと落ちていた。

 喉の奥で小さく悲鳴をあげる。

「行ってしまったな」

 大きな手を背に添えられて、幸は耐えきれずに涙をこぼした。もっと一緒にいたかった、これからもきっとこうした別れは続くだろう。先立たれるつらさを知って、幸の心に不安が兆す。

 幸が静かに耐えている間、巽はただ背を撫で続けた。祭りの火はまだ燃えている。いつか消えてしまう命の灯火の、痛みも熱さも喜びも、ともに分かち合っていきたい。夜が戻って二人きりになったら、そういう話をしたいと、そう思っている。

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贄の娘、龍神と天上に暮らすこと 草群 鶏 @emily0420

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