第2話 婚約者ルイリー

 ルイリーの美しい素顔は、瞬く間にご令嬢方の間で話題となった。

 あの日、アドフォード家のパーティに現れた彼は、鮮やかに煌めく整えられた長い金髪に、釣り目がちのエメラルドグリーンの瞳、すらりと通った鼻筋。穏やかな笑みが浮かぶ口元まで美しくて、まるで、お伽噺の王子様のような絶世の美しさを誇っていた。

 会場に居合わせたご令嬢方は、思い返しただけでため息が出るような彼の美貌にとりつかれ、それまで変人貴公子と散々遠巻きにしていたことすら忘れた様子だ。


 そんなアドフォード家の夜会からしばらくが経った今日は、王都に建つとある公爵家の屋敷で、お茶会が催されていた。

 自然豊かな風土が影響してか、ルクストリア王国では凝った庭園造りが盛んに行われ、貴族たちはバラのアーチに迷路花壇、噴水に東屋あずまやに彫刻などを用いた成形せいけい庭園と、曲線を生かした風景式庭園の両方を取り入れた個性豊かな庭園を作成し、お茶会を催しては自慢の庭を紹介し合う。そういった庭自慢を日常的に行っている。

 そのため、招かれる客も多岐にわたり、今日も若い世代を中心とした貴族が集められ、お茶やお菓子とともに庭園の風景を楽しんでいるようだ。


「あっ。ねぇ、ルイリー様がいらっしゃったわよ」

 すると、招待状に明記された時間から四十分ほど遅れて、ルイリーが解放されている室内のメイン会場にやってきた。

 今日の彼は、いつものようにぼさぼさの金髪に、半分以上ボタンを掛け違えた濃紺の三つ揃いスーツ、ぐちゃぐちゃのネクタイ姿で、あのときの美しさは微塵も見当たらない。

 だが、一度見てしまった彼の美貌が頭を離れないご令嬢方は、ルイリーの登場に気付くと、嬉しそうな笑みで我先にと声を掛け始めた。


「ごきげんよう、ルイリー様。こんなところでお会いできるなんて……!」

「よろしければあちらで、私達とお茶などいかがです?」

「このお屋敷はお庭も素晴らしいんですのよ。後ほど散策などご一緒できれば……」

「……」

 きゃあきゃあ甲高い声で必死に気を引こうと試みるご令嬢方を前にしても、ルイリーは眉一つ動かさない全くの無関心だった。それどころか、彼女たちの声が耳に入っているのかどうかすらも怪しいような雰囲気で辺りを見まわしていた彼は、不意にご令嬢方の声を遮ると、

「ナシャは?」

「……え。っと……」

「あ、いた」

「……」

 自分で問いかけておきながら、ルイリーは遠くのテーブルに見知った青髪を見つけた途端、周囲のご令嬢など意に介した様子もなく、歩き出した。

 その、歯牙しがにもかけない彼の態度に、ご令嬢方は呆気に取られた様子だ。

 確かに、今まで彼を遠巻きにするだけで、声を掛けようなんて思ったことはなかったが、こんなにも相手にされないなんて、流石に思っていなかったようだ。


「ナシャ!」

「……!」

 多くの人が集まる会場内で恥をかかされたご令嬢方が、嫉妬のような羨望のような感情を向けていることなど知る由もなく、庭が見渡せる会場の端でお菓子を食べていたナシャは、ルイリーの声に気付くと驚いた顔で目を見開いた。

 振り返ると、そこにいたのは間違いなくルイリーなのだが、彼が自宅での開催時以外、人の集まる場所に出てくるのは珍しいせいか、思わず面食らってしまう。

「あら、ルイリー。来てたのね、珍しい」

「うん。来る気はなかったんだけど、父と仲の良い公爵邸での開催ってことで、父上に泣きつかれてね……。あー帰りたい。こういう場所、すごく気持ち悪い……」

「ふふ。じゃあしょうがないわね、ご愁傷様。あ、ルイリーも食べる? ここのクッキー美味しいわよ?」

 げんなりした顔で文句を言い出すルイリーに、ナシャは小さく笑みを見せると、慰めなのか、テーブルに置かれていたカラフルなクッキーを一つ、彼に差し出した。

 クッキーの上にジャムが乗ったそれを、ルイリーは差し出されるがまま何の気なしに食べていたが、傍から見れば十分親密なやり取りに、近くにいた貴族たちがほんの少し、ざわめく。

 もっとも、二人にとってこの程度は日常茶飯事なので、動じた様子は一切なく、咀嚼そしゃくを終えたルイリーはここで、気になったように尋ねた。


「もぐもぐ。そう言えばジェニーは来てるのかい?」

「兄様? ええ。兄様なら主催者の公爵様へご挨拶をってあっちにいるわよ」

 彼の問いかけに、ナシャは会場の反対側を見遣ると、人垣ができている方を指差した。そこにはナシャの兄であるジェニーを含め、数名が集まって話をしているようだ。

「そうか」

 ジェニーの姿を目視したルイリーは、何かを思いついたのか、数秒黙った後でにやりと笑んだ。そして、悪戯を思いついた少年のような顔で、嬉々と話し出す。

「じゃあまず、俺も挨拶とやらへ行ってこようかな。そこで、ジェニーに俺が来てるって分からせたら、またここへ戻ってくるから。そしたら恋人演技をたっぷり見せつけて、ジェニーの怒りを増幅させよう。楽しそうだ」

「……あなたって人は……。お茶会に飽きるの早すぎじゃない?」

「フフ。じゃあ後でね、ナシャ」

「はいはい」

 名案だと言わんばかりの顔で今後の展開を説明するルイリーに、ナシャは諦め顔で頷くと、軽く手を振ってその姿を見送った。

 散々自分のお見合いの邪魔をしてきた兄に対してだから許せるが、馬鹿面を拝むためだけに嬉々として嫌がらせを仕掛けるルイリーにも困ったものだ。


「ごきげんよう、ナシャ」

「あら、ロティサにアレア! 久しぶりね!」

 そんなことを思いながら彼の姿を見送っていたナシャは、庭園に面したテラス側から現れた友人たちの声に気付くと、視線をそちらに向けて表情を改めた。

 飾りのついたかわいらしい帽子を手に、ナシャの傍まで歩み寄ってくる彼女たちは、庭園の散策に出ていたのか、ちょっとだけ暑そうに頬を紅潮させている。

「ロッテンダム家の庭園、とっても綺麗だったわよ。特に向日葵! ナシャはもう見た?」

「そうなのね。私はさっきまでベティたちとおしゃべりしてたから、お庭はまだ行けてないんだ~。後でルイリーでも連れて回ってみるわ」

 元気いっぱいの笑みで挨拶を交わしつつ、庭園を褒めるアレアに、ナシャは首を振ると、窓の外に広がる風景を見遣った。

 夏の日差しを浴びる芝生や生垣たちが織りなす庭園は、ここから見ただけでも十分美しいが、実際に外に出てみるとまた違うらしい。

 テラスから出て左手奥に広がるという向日葵畑に興味を惹かれるナシャの一方、彼女の答えにアレアは意外な顔をすると呟いた。

「まぁ、ルイリー様がいらっしゃってるの? 珍しいこともあるのね……」

「侯爵様にお願いされたんだって、文句言ってたわ」

「あらまぁ」

「……そういえばナシャ。ルイリー様とのご婚約って本当ですの?」


 すると、ルイリーの名が出たことが話すきっかけになったのか、それまでニコニコと話を聞いていたロティサがふと気になった顔で問いかけてきた。

 どうやら、あの日、聞き耳を立てていた者は意外に多かったようで、ルイリーの容姿と同じくらい、婚約のことも噂になっていたようだ。

「え。う、うん。まぁね」

 噂が広まれば広まるほど、収拾がつかなくなりそうな気がする…と内心不安を募らせつつ、ただの利害の一致だなんて言うわけもいかないナシャは、曖昧な顔で頷いた。

 たとえ親友にだって本当のことを話せないのは心苦しいが、元を辿れば兄のシスコンが原因なわけだし、伯爵家の汚点になる可能性があると思うと言い出せなかった。

「まぁ。おめでとうございます! ルイリー様が美しい姿でナシャのお父様とお話ししていたと聞き申したので、そうではないかと思っておりましたの!」

「ねぇ、ナシャはどこに惹かれたの? あの日の出来事で彼、きちんとすれば美しいのは分かったけれど、いろいろと変な噂も絶えない人だから、ちょっと不思議で……」


 すると、ナシャの返答にパッと表情を明るくした彼女たちは、一歩身を乗り出すと、楽しそうに話し出した。

 どうやら二人とも、ついに婚約を果たしたナシャの恋話が聞きたくてたまらないらしく、いつもより二割ほどテンションが高めだ。

「ひ、惹かれた?」

 だが、そんな彼女たちのキャッキャとはしゃぐ姿に、今まで恋も愛も縁遠かったナシャは、目を丸くすると、思わずおうむ返しに尋ねた。

 ナシャにとって結婚とは家同士のもので、そこに自分の意思が必要だなんて、考えたこともなかったようだ。

「あら、だって他にたくさんいたお見合い相手より、ルイリー様のほうが魅力的だから、彼をお相手として受け入れたのでしょう? きっと、他の人にはない魅力があったのよね?」

「う、うーんと……」

(……そっかあああぁ。あっさり決まった家同士の婚約ならともかく、たくさんいた中でルイリーと婚約した私は、彼に特別な想いがあったからそういう結論に至ったって解釈されるのかああ。それ以前に私、過去お見合いした三十五人に好みとか伝えたことないわ。そもそも、私、どんな人が好みなんだろう? い、今まで考えたことなかった)

 当たり前のように言うアレアとロティサを前に、ナシャは黙り込むと、困り顔で内心頭を抱えた。

(結婚相手が決まらないのは間違いなくほぼ兄様のせいだけど、私ももっと積極的に、相手の素敵なところとか、自分の好みとかを把握して伝えていれば、こんなことにはならなかったかも……!?)


「ナシャ?」

 何と答えるべきか以前に、自分にそういう発想がなかったことを後悔していたナシャは、不思議顔で首をかしげるアレアの声で我に返った。

 二人ともあまりにも難しい顔をするナシャを、どうしたのだろうと言わんばかりの顔で見つめている。

「あ、えっと……こ、言葉にするのは少し…恥ずかしいのだけれど……」

 彼女たちの表情から自分が長らく沈黙したままだったことに気付いたナシャは、これ以上変に思われないよう、言葉を選びながら言った。

「その、彼はとても好奇心旺盛で、楽しいことにいつもわくわくしてて、私も、彼の傍にいると、自然と笑顔になれるのよ。確かに、ルイリーはちょっと変なところもあるけれど、人に合わせるのが苦手なだけで、優しいところもあるし……」

 思いつくまま言葉を紡ぐナシャは、次第に頬を赤らめると、声を先細らせた。

 ここにルイリー本人がいるわけでも、嘘ではないが好意というわけでもないはずの言葉なのに、どうしようもなく恥ずかしくなる。

「と、とにかく、一緒にいてもいいなって、思える人、だったからかな………」

「まぁ素敵……」

 こういう話苦手だな、としみじみ思いながら一度言葉を切ったナシャは、それ以上詳細に語るのを諦めると、二人を交互に見つめ、無理に話を終わらせた。

 彼女の一生懸命な説明に、アレアとロティサは納得したように微笑んでいたが、二人が話し出そうとした途端、今度はいきなり後ろから横やりが入った。


「それって、ただのお友達じゃなくって?」

「な、何かしら、いきなり……」

 突然の物言いに驚いて振り返ると、そこにいたのは、先程ルイリーにあしらわれたご令嬢方だった。

 今の話を聞いていたらしい彼女たちは、自分たちがルイリーの気を引こうとしていたなんて知る由もないナシャの困惑顔を睨みつけたまま、居丈高に話し出す。

「あなたとルイリー様のご様子をしばらく窺っておりましたけれどね、あなたたちの仕草や表情は、どうにも婚約した恋人同士に見えないと思いますの。何か裏があるんじゃなくって?」

「そんなことは……」

「特にナシャ様は、ご婚約のお話が出るほんの少し前まで、たくさんの殿方とお見合いなさって、すべて断られたと聞いておりますわ。それなのにそのすぐ後にルイリー様とご婚約だなんて、無理を言ったようにしか見えませんことよ」

「ち、違います。私たちは……!」

 お見合いの連敗を馬鹿にしたように言うご令嬢方の猛攻に、ナシャはこの場をうまく収拾するための最適解を導こうと頭を悩ませた。

 普通なら、ほぼ面識のない彼女たちの言い様に怒りを見せてもよさそうなものだが、ある意味裏がないわけでもないせいか、この状況の打破にしか、気が回っていないようだ。


(どうしよう……。兄様の馬鹿面を見たいルイリーのために婚約を受け入れた、なんて言えない…! どうすれば彼女たちを納得させられるかしら……?)

「黙ってないで、何とかおっしゃったらいかがですの?」

「それとも、事実のあまり、言い返す言葉すら見つからないのかしら?」

「いえ、…その……」

「どうしたの?」

 困り果てたナシャが、たどたどしくも反論を試みようとした、そのとき。

 ジェニーの元へ顔見せに行っていたルイリーが、タイミングよく(悪く?)戻って来た。ナシャのほぼ真後ろに立った彼は、居丈高なご令嬢方に囲まれて困るナシャを、心底不思議そうに見つめている。


「ルイリー! いや、その……」

「ルイリー様、ハッキリ申し上げますわ。ナシャ様に何か弱みを握られて、婚約を迫られたんじゃありませんの? あなたたちのご様子はとても婚約した恋人同士には見えませんもの」

「……。……あー、なるほど」

 きりりと吊り上がった目で自分を見つめてくるご令嬢の言葉に、ルイリーは一瞬押し黙った後ですべての状況を察したようだ。

 そして、心底面倒に思いながら、ナシャに代わって弁解を始める。

「もちろん、皆様の前でもっといちゃいちゃしても良いと言うなら、遠慮なくしますよ。ですが、ほら…ナシャはこういうの恥ずかしいみたいで、すぐに赤くなってしまうんです」

「……っ!」

 そう言ってルイリーは、不意にナシャの肩を抱くと、ぎゅうっと自分の方に抱き寄せた。

 首をかしげてナシャに頭を預ける彼の密着ぶりに、ご令嬢方はざわめき、ナシャは頬を赤くしたまま固まっている。

 どうやらナシャは、ルイリーの言葉も仕草もすべて演技だと分かっていながら、恋愛事に耐性がないせいか、照れる感情を抑えきれないようだ。

「かわいいでしょう。こんなかわいい姿を他の方に見られたくないなって、つい、欲が出てしまって。……しかし、皆様がそうおっしゃるなら……」

 そんなナシャの感情を見透かしつつ、愛しむような声音で笑みを見せたルイリーは、不意に言葉を切ると、真正面から彼女を見つめた。

 そして、ご令嬢方やナシャの友人たちが見ている目の前で、彼女の頬にちゅっと口づける。


「……!」


「このくらいは見せつけてもいいでしょうかね?」

 フフフと悪戯っぽい笑みを浮かべてご令嬢方を見遣るルイリーの一方、突然の口づけ(頬)にナシャは言葉も出ない様子でさらに頬を朱に染めた。

 だが、彼にだけ演技をさせ続けるのは申し訳ないと思ったのか、心の中で何度か深呼吸をしたナシャは、困ったように微笑むと、頑張って言った。

「も、もう……。こういうのは二人きりのときだけにしようねって、約束したのに~」

「だって、みんなが見たいって言うから…ね」

「そういうルイリーのイジワル、嫌いじゃないけど、あなたの魅力的なところ、他の女の子たちに見られるのは嫌だもん。だからほら、あっちで、二人きりでお話ししましょう?」

 分からないなりに仲の良い恋人同士を演じようと、ナシャはルイリーの腕を取りつつ、眼前に広がる美しい庭園を仰ぎ見た。果たしてこれが正解なのかは分からないが、少なくとも、「二人きりになりたい」という感情は、婚約した恋人同士にあっても変ではないだろうと思ったのだ。


「そうだね、行こうか」

 すると、ナシャのちょっと拙いながらも一生懸命な演技に、ルイリーは少し笑みを深くした後で、ゆっくりと頷いた。そして、最後に絶句したまま動かないご令嬢方を見遣った彼は、冗談めいた口調で言った。

「では我々はこれで失礼。しかし…もし俺たちの甘いいちゃいちゃを見たいと仰るなら、このままついて来ていただいても構いませんよ。フフ」

「ごめんね、ロティサ、アレア。またね」

「……」

 そんなことを言われたところで、ついて行く度胸があるやつなんているわけもなく、目を瞬いたご令嬢方は、黙って二人を見送った。



 開け放たれた窓からテラスに出て、そのまま小石の敷かれた道を歩き出した二人は、万に一つも人に出くわさないようしばらく歩くと、巨大な迷路花壇の傍でようやく足を止めた。

 周りにはウサギやねこといった動物たちの形に刈り取られた低木が点在し、庭園のかわいらしさを演出している。


「……いきなりなんてことするのよ。びっくりしたじゃない……」

 だが、そんなものに気を止めている余裕もないナシャは、周りに誰もいないことを確認した後で、小さく囁いた。頬への口づけがよほど衝撃的だったのか、ナシャの顔はまだ赤いままだ。

 しかし、一方でルイリーはけろりとした顔をすると、何とも思っていない様子で言った。

「ん? ああ。でも、あのくらいしないと、彼女たちは引き下がらなかったと思うよ」

「でも…でも……ほんとに、私………」

 向き合っているにもかかわらず、俯いたままの彼女の表情は分からない。

 だが、耳まで真っ赤にして小さくなっている姿は、予想以上にかわいい。そう思うと、なんだかもっと悪戯してやりたい気分になったルイリーは、不意に彼女の手を取ると、ぐっと自分の方に抱き寄せた。

 そして、驚く彼女に構わず、今度は唇にそっと口づける。


「……っ」

 唐突で意味の分からない口づけに、ナシャは青い瞳を命一杯見開いた。今の話の流れで、なんで口づけされたのか、全く理解ができない。


「な、なっ、ななななんてことを……!」

「フフ、なんか、そこまで照れられると、もっとイジワルしたくなって、つい」

 顔を真っ赤にしたまま、動揺した声で囁くナシャに、ルイリーはにやりと笑うと、一切悪びれた様子なく言った。

 こんなことをしてなお、動揺のそぶりも見せないところを見るに、彼にとってはちょっと実験してみた、くらいの感覚なのだろう。

 だが、その一方で、とんでもない事態にナシャは彼を見上げると、思わず声を荒げた。

「つい!? 出来心でやって良いことだとでも思ってるの? 張り倒すわよ!」

「フフ」

「…………っ、もういい。あなたにお小言は無駄ね。ルイリーってほんとイジワル。あなたの未来の奥様に心底同情するわ」

 ナシャの動揺すら楽しむように笑うルイリーに、彼女は諦めた顔で息を吐いた。

 彼にお説教は暖簾のれんに腕押し。ぬかに釘。意味がないことくらいよく分かってる。

 すると、ナシャの呆れ声に、ルイリーはなぜか胸を張って言った。

「流石、よく分かってるね、ナシャ。でも案ずることないよ。そんな相手、一生現れる予定はないからね」

「嫡男のくせに。……もうっ、にやにやしないの!」

「フフフ、照れるナシャ、かわいい」

「やめなさい」


 こうして、婚約した恋人同士…からは程遠い二人を照らす夏の太陽は、次第に傾き、いろんな意味で波乱に満ちたお茶会は、何とか幕を閉じた。



 ……そして、数日後。


 ルイリーはついにナシャの兄・ジェニーに呼び出され、王都郊外にあるハリントン家の別邸に来ていた。

 彼を誘うために書かれた手紙には親睦を深めたいとの記載だったが、ジェニーにそんな気があるわけもなく、開けた庭でルイリーと向き合った彼は、突然脅すように言った。


「貴様に二十番勝負を申し込む、ルイリー・アドフォード! 僕の許可なくナシャのほっぺにちゅーなんてしやがった愚か者め! 先に言っておくが、貴様に拒否権などなーい! 断れば財務省の悪事を国中にばらしてやるからな!」

 丁寧に撫でつけた黒髪を逆立て、極悪人じみた目つきで一気に宣言するジェニーに、場が一瞬、シン…と静まり返った。

 相手の弱みを握ったうえで、無理難題を吹っかけるのが彼のいつものやり方なのだろう。

 だが、それにしてもよく分からない脅しに、ルイリーは思わず首をかしげると呟いた。

「……財務省?」

「そーだ! 変人伝説に事欠かさんお前の変人話を暴露したところで意味はない。かといってアドフォード侯爵は潔癖なお方で調べても調べても悪いところが出てこないし…仕方ないから、侯爵がお勤めの財務省の弱みを握ったんだ! これを世間に知られたら侯爵は困るだろうな! はっはっはー分かったら勝負を大人しく受けろ、ルイリー・アドフォード!」

「……………」


 明らかに苦肉の策でありながら自信満々に言うジェニーに、ルイリーも、近くで話を聞いていたナシャも、呆れたように目を瞬いた。

 このルイリーが、いくら父の勤め先だからといって、身内でもない財務省の弱みに動じるわけがないことくらい、分かりそうなものだが、ジェニーとしては完全に首根っこを捕まえたような表情だ。

 すると、あまりにもアホらしい勝負の吹っかけ方に、ルイリーは小さく笑うと、

「まぁ…俺としては別に、財務省の悪事が世間に広まろうがどーでもいいかな。だけど、そんな大ネタを暴露したのがきみだって知れたら、きみの方こそまずい立場に立たされるんじゃないの?」

「……う」

「でも、勝負しなきゃナシャとの仲を認めてくれないって言うなら、受けても構わないよ、二十番勝負。……どんなことをするのかな?」

 ニコニコと笑顔のまま話すルイリーに、ジェニーは一瞬、締め付けられたような声を上げた。

 だが、すぐに頭を振って気を取り直した彼は、強気の姿勢のまま、

「文字通り、二十種類の勝負をするんだ! そして、貴様が一度でも負けた場合は、婚約の件はなかったことにしろ! この僕に一回でも負けるやつなど、ナシャの相手に相応しくない! 断ったら即時財務省の……」

「だから財務省はいいって」

「と、とにかくだ! 勝負を受けて二十番勝負に二十連勝しない限り認めーん!」


 せっかく何日もかけて調べ上げたネタをぞんざいに扱うルイリーに、さらに怒りを爆発させながら、ジェニーは息も荒々しく言い切った。

 すぐに婚約や、お見合い話を取り下げてくれそうなやつなら、「ドラゴンを捕獲してこい」のような無茶苦茶な難題で済むのだが、しつこそうなやつや気に食わない相手は、直接自分の手で叩き潰さないと腹の虫がおさまらない。

 今回の件にしても、絶対に絶対に絶対に、なんとしてでもなかったことにしてやる……!


「ちょっと兄様! いい加減にしてよ、そんな理不尽な要求ばっかりして……!」

 いつもより数段怒っているとはいえ、こんな調子で何度もお見合い話をなかったことにされたナシャは、ルイリーを指差したまま爆発する兄に、イラっとした顔で言った。

 その表情からは、マジでシスコンも大概にしろよ馬鹿兄貴、とでも言いたげな感情が伝わってくるのだが、妹への愛が目を曇らせているのか、答えるジェニーは満面の笑みだ。

「すべては、大大大~好きなナシャのためだよ~。絶対こんな変人から守ってあげるからね! 覚悟しろよ、ルイリー・アドフォード!!」

「あのねぇ……」

「いや、いいよ。ナシャ。つまり、俺はきみが二十回負け続ける様を見ればいいってことでしょう? 楽しそうだ。ぜひ、乗ろうじゃないか、ジェニー」

 ナシャを見るときと、ルイリーを見るときで百八十度違うジェニーの態度をおかしく思いながら、勝負に同意したルイリーは、挑発するように言った。

 完全に火に油どころか爆弾を注ぐ行為だが、これこそルイリーの狙い通りの展開である以上、彼が挑発をやめるわけがない。

 顔を真っ赤にしてさらに怒りを爆発させるジェニーと、それをせせら笑うルイリーを交互に見つめたナシャは、肩をすくめると、諦めた表情で近くのベンチに腰を下ろした。

 そして、もう勝手にやればいい…と思いつつ、一回目の勝負内容を荒々しく告げる兄の声を何となく、聞き流す。


「――…へぇ、すごい凝った装飾の剣だなぁ」

 ジェニーが説明した一回目の勝負内容は、真剣を使用しての決闘だった。

 ただし、この件はあくまで内密なので、怪我は御法度。相手の手から剣を落とすことができれば勝利、ということらしい。

 予め用意しておいた真剣をルイリーにも渡しつつ、二メートルほど離れた場所で剣を構えたジェニーは、勝負ではなく剣の装飾に興味を示しだした彼に牙をむくと、

「そんなところに感心してないでさっさと構えろ、ルイリー」

「はいはい。せっかちだな、全く」

「待ってろ、ナシャ。兄ちゃんがこんな変人す~ぐ蹴散らしてやるからね! だから、兄ちゃんが勝ったらご褒美にほっぺにちゅーしてちょうだいね」

「………」


 寸前まで怒っていたかと思えば、満面の笑みで気持ち悪いことを言い出したジェニーに、ナシャは何度も経験しているにもかかわらず、ちょっと怖気った。

 我が兄ながら、本当にどこまでも際限なく妹への愛に満ちていると思うと、もう引くしかない。

「フ…ではそのちゅーは、勝って俺が貰いましょう。きみの目の前で、ね」

「……!」

 だが、そういう瞬間こそ好機と見定めたルイリーは、楽しそうに笑って言った。

 途端、お約束のようにジェニーが凶悪な顔を見せたが、彼が百面相をすればするほど、ルイリーの好奇心は満たされる。

 勿論、彼の目論見を知る由もないジェニーは、猛犬のような調子でしばらくルイリーを睨みつけていたが、やがて、一つ咳払いをした彼は、勝負の開始を宣言した。


「ではこれより、時間無制限の決闘を始める! 覚悟しろコノヤロー!」

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