ナシャと36番目の婚約者
みんと@「炎帝姫」執筆中
第1話 はじまり
「あぁ…もうダメだ……。私の人生終わったかもしれない……」
生暖かい風がゆるりと頬を撫でる夏の夜。
ランタンの光を浴びて幻想的に煌めく広大な庭園に、少女の
ここは、四方を山脈に囲まれた自然豊かなヨーロッパの小国・ルクストリア王国。
その王都・ルテア郊外に建つ、アドフォード侯爵家の屋敷だ。
今日は上流階級の方々を集めた盛大なパーティが広間で行われているのだが、
「暗いなぁ、随分」
すると、東屋の中央に取り付けられた木製の円形テーブルに、ぐったりと体を預けていた彼女の頭上から、聞き覚えのある声が降りてきた。
わずかに頭をずらして視線を上げると、そこにいたのは、四方八方に跳ねたぼさぼさの長い金髪に、ボタンの掛け違えを連発しただらしない服装の青年。
――王国一の変人貴公子と名高いアドフォード家の嫡男、ルイリーだ。
「ルイリー……」
「聞いたよ、ナシャ。またお見合い相手に断られたんだって? ついに三十五連敗だねぇ」
ほとんど髪で隠された彼の顔から、わずかに覗く緑色の瞳が楽しそうに輝く。
その、明らかに小馬鹿にした口調に、ナシャは視線を戻すと、いじけた顔で唇を尖らせた。
「ほっといてよ。ただでさえショックで、パーティって気分じゃないからここにいるのに……」
「フフ、それはちょっとできない相談かな。こんな面白いものを見逃す気はないし。ちなみに、今回はどんな相手だったんだい?」
「………」
楽しそうに笑うルイリーの言葉に、ナシャは遠くを見つめると黙り込んだ。
十八歳を機に、春から始めたお見合い。だけど全然うまくいかなくて、彼女の気分は今、正直、闇より暗いどん底だった。
だからこそ、傷心を少しでも癒すためにパーティを抜け出して庭に出てきたのに、ルイリーはまるで、新しいおもちゃを見つけたような、晴れやかな笑顔だ。
「……そんなことより、会場に戻りなさいよ。一応、
昔からこういうやつだと分かっていたけれど、元気があったら張り倒していたかもしれない。なんて感情を心に忍ばせつつ、話題を打ち切る。
すると、ルイリーは思いっきり口をへの字に曲げた後で、吐き捨てるように言った。
「面倒臭いから嫌だ。人にもパーティにも興味ない」
「……だったら、私にも興味を示さずあっち行ってよ」
「それも嫌だ。だって、ナシャは人間だけどたぶん友達だし、三十五人目の相手、気になるし」
「もー、うるさいなぁ。人が落ち込んでるんだから、ほっといてよ……」
どう
「フフフ。それにしても、断られ続けるナシャもナシャだけど、お見合い相手を三十五回も連れて来られるお父上…ハリントン伯爵の人脈も相当すごいよね。よく見つかったと思うよ」
「……最終的にいろいろ妥協して、一回り上まで年齢幅広げたからね……」
「あはは、なるほど。それでも決まらないとは、ナシャは相当な不良物件…?」
「………」
人には興味がないと断言するくせに、好奇心が人一倍あるせいか、ルイリーは無邪気にずかずかとナシャの傷口に入り込んでいく。
子供のころからデリカシーのかけらもない男だったけれど、ここまで言われると、やっぱり張り倒してやろうかな、という気になる。
そんな彼女をよそに、ルイリーはぐいと顔を寄せると、睨むように顔を上げたナシャを覗き込んで言った。
「でも、なんでそんなに断られるんだろうね? 俺の目が腐ってなきゃ、きみの見た目も性格もそんなに悪くないと思うんだけれど……?」
「……腐ってるのは言動ね」
じーっとこちらを見つめたまま、好奇心と疑問を合わせた顔で首をかしげるルイリーに、思わず口をついて暴言が出る。
綺麗な空色の髪に、たれ目がちの青い瞳を持つ可愛らしい容姿の友人を前に、俺の目が腐ってなきゃ悪くない、なんて言っていれば必然かもしれないが。
「まったく。普通、落ち込んでる友達がいたら優しく慰め…………ないわね。ルイリーにそんなことされたら真夏なのに雪が降るわ」
しばらくして、彼の笑顔を睨み上げていたナシャは、諦めたように頭を振ると小さく肩をすくめた。
ルイリーに優しさがないわけではないけれど、この状況で無邪気な追及をやめて慰めてくれるなんて、絶対にありえないことくらい、十年以上友達やってるナシャにはよく分かった。
すると、彼女が諦めたことを悟ったのか、ルイリーは笑みを深くした後で楽しそうに聞いた。
「フフ、さすがナシャ。よく分かってる。それより、心当たりはないの? 例えば致命的な欠点を隠し持っているとか……」
「あなたほどひどい欠点はないと思うけれど、お見合い相手に断られるのは私のせいじゃないのよ」
「……? ナシャのお見合いなのに?」
さらっと吐かれた暴言をスルーしつつ、もう一度首をかしげる。
するとナシャは、春から続くお見合い三十五連敗の最大の原因を話し出した。
「そりゃあ、私が合わなかったっていう人もいるでしょうけど、大概の原因は兄様なのよ」
「兄様って、ジェニーに……?」
「そ。兄様は小さいころから私を無駄に溺愛してて、私が誰かのものになるのが嫌みたい。それこそ私とお見合いした相手に、秘密裏に無理難題を仕掛けて、断らせるよう仕向けるほどにね」
刺々しい口調で一気に理由を説明したナシャは、話が進むにつれ、表情を引きつらせていくルイリーをむすっとした顔で見上げた。
誰にもこの真相を話したことがなかっただけに、八つ当たりみたいな話し方になってしまったが、ルイリーは気にしないだろう。
その証拠に、心底ドン引いた表情でナシャの兄がしでかした事実を聞いていたルイリーは、苦笑したまま、絞り出すように呟いた。
「え…それは……引くほど気持ち悪いね。なにやってるんだ、あいつ……」
「ほんとよね。でも事実よ。連敗記録が十回超えたあたりで流石におかしいと思って探ってたら、兄様がお見合いした相手に、絶対成せないような無理を言ってるのを聞いたの。まるで東洋の竹取物語に出てくるお姫様が言うような無理難題だと思ったわ」
「そんなに酷いんだ……。例えば?」
「例えば…ここから北に行った山脈に住んでいるドラゴンの鱗を取って来いとか、地中海の孤島に眠る伝説の宝玉を取って来いとか……」
思い返しただけでため息が出るような、理不尽な難題を指折り数える。兄の要求は、本当に馬鹿らしいほど不合理なものばかりだ。
「……あとは、手っ取り早く真剣対素手の勝負で、ひとつも傷を負うことなく十回連続勝てたら認めるとか……って、何にやにやしてるのよ、ルイリー」
「いやぁ、フフ。ジェニーの行動があまりにも馬鹿すぎて……。相手によってお題が変わると言うことは、確実に自分が優位に立てるもので勝負を挑んでいる、ということかな」
ほんの数分前までジェニーの行為にドン引いていたはずのルイリーは、いつのまにか、愉快そうに笑っていた。
ナシャとしては笑えない話なのだが、そんなことを気に留めるやつではない。
諦めた顔で大きくため息を吐いたナシャは、楽しげに分析を始めた彼に、八つ当たり口調で答えた。
「そうみたいね。それで、流石に怒って兄様に抗議したんだけど、「すべては愛するナシャのためだ」とか言って全然聞いてくれないし。こんなことしておいて、社交界で自分が不利にならないよう周到に準備しているから相手の方も講義はしてこないし。それに、お父様は鈍感で、おまけに兄様を信用しているから、兄様のやってることに気付いてないみたいだし。このままじゃ一生結婚できないわ…………」
話しているうちに怒りより焦りが勝ったのか、不意に頭を抱えたナシャは、また東屋のテーブルに突っ伏した。
何度お見合いを繰り返したところで、最大の障害である兄を退かさないことにはどうにもならない事実が、より、彼女の焦りを掻き立てているようだ。
「そういうことなら、ナシャ。俺が、名乗りを上げてもいいかな?」
「え?」
すると、項垂れたまま黙り込むナシャに、突然、ルイリーがそんな提案をしてきた。
聞き間違いかと思うような台詞に目を瞬いて顔を上げると、彼は、悪戯を思い付いた少年みたいな無邪気な笑顔でナシャを見つめ、言葉を続ける。
「ジェニーの馬鹿が、俺にどんな馬鹿げた勝負を仕掛けてくるか、気になるんだ」
「……」
わくわくした顔で告げるルイリーを、ナシャはしばらく唖然とした表情で見つめていた。
人に興味のない彼が、ナシャの結婚相手に名乗りを上げたいなんて、どうせよく分からない裏があるのだろうとは思っていた。思っていた、が……。
「……そんな理由で結婚申し込んでくるやつ、初めて見たわ」
「構わないでしょう? どうせ相手いないんだから」
「はぁ…。はいはい。言い出したら聞かないあなたを止める無駄さは、嫌ってほど理解してるから止めないわ……」
グサッと心に刺さるルイリーの一言を受け流しつつ、ナシャは諦めると、適当な調子で了承した。
こんな理由で婚約を了承するなんて普通ありえないが、兄との勝負さえ済めば彼が満足してこの話を終わらせてくれることは目に見えているし、ナシャとしても傷心を癒やすいい時間稼ぎになると思ったのだ。
すると、彼女の返事に機嫌を良くしたルイリーは、勢いよくナシャの手を取ると言った。
「よし、そうと決まれば、今すぐハリントン伯爵のところに行こうか!」
「え、今から?」
「うん。今から。きっとジェニーも一緒にいるだろうから運が良ければ、ついでに馬鹿面を拝めるかもしれないよ!」
「……」
金髪の隙間から覗く緑色の瞳を、キラキラ輝かせて急かすルイリーをよそに、ナシャは唐突な話に目を丸くしたまま、しばらく逡巡していた。
というのも、三十五人目のお見合い相手に断られた数時間後に別の男と婚約するなんて、正直どうなんだろう、と思ってしまったのだ。
だが、わくわくしている彼の申し出に水を差すのもどうかと思ったのか、ナシャは仕方なさげに頷くと、続けざまに指摘した。
「まぁ、いいけど。だったらせめてその身だしなみ、何とかしなさいよ」
「ん? なぜ?」
「なぜって……普段だらしない格好をしているのは勝手だけど、肝心なときまでそんなんじゃ、冷やかしだと思われて終わりよ? 兄様が認めないのは間違いないけれど、少なくともお父様の了承を得なきゃ、無理難題を拝む機会すら貰えないじゃない」
呆れ声で言う彼女の指摘に、ルイリーはふと自分の服装に目をやった。
確かに、ネクタイはぐちゃぐちゃでウエストコートから飛び出しているし、シャツのボタンも半分以上掛け違えている。
長いぼさぼさの髪を面倒そうに掻きながら、そう結論付けたルイリーは、一つ頷くと言った。
「……なるほど。キメるときはキメる。それが大事ってことだね」
「そういうこと。お部屋にドレッサーと櫛くらいあるでしょう? 手伝ってあげるからまずは整えましょ」
アドフォード家の庭園でナシャとルイリーが利害の一致婚約を企てていたころ。
大きなシャンデリアが輝く一階の大広間では、美しいドレスやテールコートに身を包んだ貴族たちが思い思いにパーティを楽しんでいた。
あちこちで談笑の声が上がり、演奏家たちの奏でる音楽が優雅な空間を際立たせる。
そんな素晴らしい一時を満喫する貴族たちの元へ、しばらくして一組の男女がやってきた。
ひとりはペールアクアの生地に翡翠色のリボンが映える、爽やかなカラーのドレスに身を包んだハリントン伯爵家の長女・ナシャ。
そして彼女の横には、長いさらさらの金髪をナシャと同じ翡翠色のリボンでまとめた、美貌の青年。
ネイビーブルーのジャケットに、金糸の刺繍が施された繊細な柄のウエストコート、アスコットタイを身に着けた姿はすらりと美しく、長い
まるで、お伽噺の王子様のような美貌を持つ青年の登場に、彼の姿を目にした人々は驚いた顔で何度も目を瞬いた。あの美しい青年は誰だろう、そんなざわめきが静かに広がっていく。
だが、よくよく見てみると、彼は男性貴族が身に着ける夜会用のテールコートではなく、平時と変わらない格好をしていた。
しかも、彼の格好には見覚えが、あるような……気がするのだ。
「ねぇ、あれってルイリー様……?」
そう言って、人々の脳裏に
彼女は、自信なさげに隣にいた友人たちに声を掛け、ナシャとともに会場の奥へと進んでいく彼の姿を、不思議なものを見るような眼差しで見つめている。
「うーん、そう、ねぇ……。おそらくそうだと思うわ。さっき会場にいらしたときと格好が同じだし、パーティで夜会服じゃない男の子なんて彼くらいだもの。でも、私、ちゃんとお顔を拝見したの、初めてかもしれないわ」
「私も。ルイリー様って、あんな綺麗なお顔をされていたのね……!」
「ビックリ。でも、見惚れちゃうほど美しいわね……」
「……シャンデリアの煌めきがまぶしいなぁ」
ご令嬢を中心に黄色いざわめきが広がっていることなどつゆ知らず、ナシャの手で別人のようにきちんと整えられたルイリーは、彼女の父であるハリントン伯爵を捜すために辺りを見回しながら、ふと、そんなことを呟いた。
彼の頭上には
「ねぇ、ナシャ。まぶしいと思わない?」
「そうかしら? いつも通りだと思うけど、あなた、普段髪の毛のベールでちゃんと前が見えてないからから、そんな気がするのよ」
「うー……」
耐えかねた顔で目を細めるルイリーの一方、同じように父を捜していたナシャは、ちょっとだけ呆れた声を上げると、彼の表情を見遣った。
自分で整えておいてなんだが、普段ぼさぼさの髪の隙間からしか窺えない彼の表情がしっかり見えるのは、少し変な感じがする。
「あ、あそこにお父様がいるわ」
秘かにそんなことを思いつつ、ルイリーから視線を外したナシャは、しばらくして、広間の奥にいた父の姿を見つけた。傍には兄の姿もあり、ちょうどルイリーの望む状況が整っているようだ。
「ジェニーも一緒だね。やった、馬鹿面が拝める」
「ちょうど話し相手もいないみたいだし、行きましょうか」
「そうだね。楽しみだ」
仮にも婚約の許可を願い出る状況だというのに、「兄の馬鹿面」しか頭にない彼の、完璧なまでに美しい笑みを見上げたナシャは、ある種芯の通ったリアクションに小さく息を吐いた。
お見合いのときは少なからず緊張を覚えたものだが、相手がこうだとそんな気すら起きない。
むしろ、さっさと終わらせて甘いものでも食べたいな、なんて思いながら家族の元まで歩み寄ったナシャは、父に声を掛けるルイリーの言葉に耳をやった。
「ハリントン伯爵」
「……? その声は…ルイリーくんか? いや、なんというか見違えたな……」
「お話よろしいですか? ナシャを嫁にほしいです」
「……!」
挨拶ついでのような申し出に、二人は唖然とした顔で、あんぐりと口を開けた。
ルイリーの申し出はあまりにもナチュラルで、一瞬、何を言われたのか分からないほど、軽い。
だが、意味を理解した途端、顎を外して目を見開く姿から、彼らの衝撃の大きさを悟ったナシャは、慌てて間に入ると、そっくりな仕草で沈黙する父と兄を見遣った。
「ちょっと、ルイリー。唐突過ぎよ、もう少し順を追って……。あのね、お父様……」
「ほ、本気かね、ルイリーくん……?」
普段の穏やかで優し気な父はどこに行ったのか、
パーティの最中に、こんな冗談をわざわざ言ってくるとは思えないが、それにしても冗談としか思えない発言に、思考の整理が上手くいっていないようだ。
「もちろん本気です。だからこそ、こうして身だしなみを整えて参ったのです」
「そ、そうか……」
なぜか自慢げに胸を張ってきちんと整えられた服装を強調するルイリーに、ハリントン伯爵は何度も目を瞬くと、働かない頭をフル回転させて状況を飲み込もうとした。
家同士の付き合いがあったこともあり、ルイリーのことは幼いころから知っているが、確かに彼は、どんな重要な場面でも身だしなみを整えようとはしなかった。
結婚を申し込むために、わざわざ整えてきたのだろう(テールコートではないが)。
そう思うと、彼の本気にも納得がいく気がして、二・三度頷いた伯爵は、今度は深い茶の瞳をナシャに向けると、彼女の意見を確かめるように尋ねた。
「……そうか。ナシャは納得しているのかな?」
「は、はい。お父様」
父の問いかけに、ナシャは出来るだけ本気を装って頷いた。
「その…これまで様々な方とお会いしてきましたが、彼は…その、とても気の置けない存在で、素の自分を受け入れてくれる人です。その…お話を頂いたときは私も驚きましたが、気の置けない彼とこれからの人生を歩んで行くのも悪くはないかと、思いまして……」
言葉につっかえながら、ナシャは彼との婚約を受け入れようと思った理由をでまかせた。
ここまでの道中、ある程度想定される質問として考えていたとはいえ、実際に口に出すのは思った以上に恥ずかしくて、なんだか、ルイリーに告白しているような気分になる。
だが、その照れが逆に幸いしたのか、娘の照れ顔に伯爵はようやく納得すると、ルイリーに向き直った。
「うむ。私としては娘の幸せが一番だ。ナシャが良いと言うならば……」
「ちょ、ちょっとお待ちください、父上!」
「……?」
了承の寸前、慌てたように横やりを入れてきたのは、それまでずっと沈黙していたジェニーだった。どうやら彼は、衝撃の大きさに今までずっとフリーズしていたらしく、妹とルイリーの婚約が成立しそうになっている事態に気付いて、ようやく立ち直ったらしい。
ハリントン伯爵によく似た柔和な顔を大慌てで憤怒の形相に変え、仇敵を見るような目でルイリーを睨みつけた後で、父を説得すべく、声を荒げる。
「駄目ですよ。今はともかく、普段、あれだけ奇行が目立つこんな男に、妹をやるなんて冗談じゃありません! どうかお考え直し下さい。ナシャに結婚だなんてまだまだまだまだまだまだまだまだ早すぎます!」
「む? だが……」
「……」
やたら「まだ」を繰り返す兄の、嫌に熱のこもった説得に、ナシャは冷めた表情で大きくため息を吐いた。
もう何十回も体験しているものの、彼の婚約を認める気〇%の姿勢に、改めて嫌になる。
だが、ルイリーとしては、これが見たくていきなり結婚を申し込んだようなものなので、百面相を見せるジェニーの馬鹿面に満足したようだ。なんとかして爆笑を我慢しつつ、この場を切り上げようと二人を交互に見つめ、ジェニーの心情を察した風を装って告げる。
「フ。本日は
「……っ」
「さ、行こうかナシャ。二人きりになりたいな」
「そうね……」
耳元で甘く囁くルイリーの、意外に高い演技力に図らずもどきどきしながら同意したナシャは、染まった頬を隠すように少し俯いた。ただの演技でしかない言葉だと分かっているが、どうにもこういうやり取りは慣れなくて困る。
だが、そんな彼女の心情に気付くわけもないルイリーは、もう一度ハリントン伯爵に向き直ると丁寧に挨拶を述べた。
「では、失礼しました、伯爵。またいずれ、よいご報告ができれば幸いです」
「む。この件は心に留めておこうルイリーくん」
「はい、失礼致します」
好青年を装うような美しい笑みを浮かべ、一礼したルイリーはナシャを連れてその場を離れた。もちろん、彼の視界には無言の敵意を投げつけてくるジェニーの怒りに満ちた顔も映っていたが、そんなのは全くのお構いなしだ。
ついでにざわめくご令嬢たちの黄色い視線も完全無視で、大広間を出たルイリーは、人気のない通路まで急ぎ足で移動すると、途端、盛大に噴き出した。
「フフ…あはははは…っ! 見たかい、あのジェニーの馬鹿面を! フフ…最高! 行って良かったよ、フフフ……!」
「はいはい。よかったわね」
「フフ、それにしても滑稽だったね! 人の顔ってあんなに変形するものなんだね。もう…思い返しただけで…あははは…おなか痛い……っ」
「………」
丁寧に撫でつけられた黒髪が逆立つほど怒るジェニーの憤怒や、外れたのではと思うほどあんぐり口を開けて沈黙する姿を思い出したように、ルイリーはしばらく愉快そうに声をあげて笑っていた。
どう考えても婚約を申し込みに行った男の態度ではないが、心から楽しそうに笑う悪気のない笑顔を見ていると、不思議とまぁいいか、という気になる。
代わりにちょっとだけ心配げな顔を見せたナシャは、これから先のことを荷重そうに言った。
「けど、これで間違いなく、兄様はあなたに何かを仕掛けてくると思うわ。どんな内容か計り知れないけれど、どうせ、理不尽極まりない内容だと思うわ……」
「そうだね。楽しみだ♪」
「ルイリー!」
すると、そんなやり取りをする彼らの元へ、一人の足音が近づいて来た。
聞き知った声に振り返ると、廊下の向こうからこちらに向かってくるのは、立派な口髭を蓄えた細面の紳士――ルイリーの父であるアドフォード侯爵だ。
カツカツと靴を鳴らして歩く侯爵は、なにか衝撃的なことでもあったのか、かなり焦った表情で息子の名を呼んでいる。
「おや、これは父上。どうしました?」
「おお、お嬢さんも一緒か。いや、今しがたハリントン伯爵に話を聞いてな。驚いて飛んできたんだ」
二人の前で立ち止まった侯爵は、不思議顔をするルイリーの問いかけに、若干しどろもどろに答えた。どうやら息子の婚約話を聞かされた侯爵は、衝撃のあまり、自ら主催した夜会を抜け出してまで彼を探しに来たようだ。
「そうでしたか。父上に何もご相談申し上げず、すいません」
「いや、いいんだ。お前がそう言う気になってくれただけで十分! 嬉しいよ。ルイリーは女性にも全く興味がないと思っていたんでな。だが、そうか。お前にそんな心があるとは……」
「ええ、彼女とは十年来の友人でしたし、俺にとっては唯一、傍に居てもいいと思える女性です。少々急とは思いましたが、こういった決断をするのも悪くないかと」
父の驚きを察したルイリーは、念のため侯爵の了承を得ておくべきだと思ったのか、ナシャと同じようにでまかせた。
ナシャと違い、彼の表情には照れも何もないが、それでも侯爵は納得したようだ。息子の決断を心底嬉しがるように、弾んだ声で何度も頷く。
「そうかそうか。何よりだよ。ナシャさんも、まさかこんなうちの息子を選んでくれるとは、感謝しかないよ。どうか、これからもルイリーをよろしくお願いしたい」
「は、はい」
「うむ! では二人の邪魔はしたくないので、私は戻るとするよ」
侯爵を前に少しばかり緊張した面持ちで答えるナシャに笑みを見せた彼は、背を向けると今にも小躍りしそうな雰囲気で去っていった。
これまで変人伝説に事欠かさず、女性も全く寄り付こうとしなかった息子の婚約話が相当嬉しいようだ。
「……ねぇ、これ、収拾つかなくなったらどうするの?」
嬉しさ全開の後ろ姿から侯爵の喜びの大きさを悟ったナシャは、同じように父の姿を見送っていたルイリーに、困り顔で囁いた。
彼の好奇心の赴くままにここまで話が進んでしまったが、互いに本気で結婚する気なんて一ミリもない。これは、ルイリーの好奇心とナシャの傷心を埋めるための、ただの利害の一致婚約だ。
だけど……。
(ルイリーのお父様があんなに喜んで下さるなんて想定外だわ。うちの兄様がいるから当分は良いとしても、収拾がつかなくなる前に何か手を打った方がいいかも……)
「収拾? なんの?」
「……。……何でもないわ……」
こうして、兄の馬鹿面を拝みたいと張り切るルイリーとの婚約を果たしたナシャは、日々のお見合いという荷重から解かれる代わりに、小さな不安を持つのだった。
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