第4話 仮面

(ああ、どうしよう……)

 この日、ルイリーは人生で初めて緊張していた。


 今日はナシャを誘って王宮の仮面舞踏会へ行く日なのだが、彼女への想いを自覚してしまったせいか、ナシャに会えると思うだけで変などきどきが止まらない。


 時刻は午後五時。

 もうすぐ身だしなみのなってないルイリーを手伝いに、ナシャが来てくれる時間になる。その前に、何としてでも、感情の整理をしておかないと……。

(自覚したとはいえ、今さら好意を示すなんて無理だ……。だって、あれだけたくさんお見合いしてるくせにナシャは恋愛事に関心薄いし、らしくない感情を見せたところで不審がられるのがオチだもの。だけど、俺……。はぁ、こんなことなら、普段自分がナシャの前でどんな態度だったか、メモでも取っておけばよかった……)


「――ルイリー? 入るわよ?」

「!」

 意味なく部屋中をうろついたり、愛猫たちに顔をうずめてみたり、自分なりに感情の整理を模索していたルイリーは、しばらくして部屋をノックする音とナシャの声に顔を上げた。ついに来た、と思う気持ちには高揚感と緊張が入り混じり、返事をした声が上ずっていないか不安になる。

 だが、そんなルイリーの感情とは裏腹に、扉を開けて入ってきたナシャは、彼の緊張なんて全く気付いていない様子で言った。

「ごきげんよう、ルイリー。準備はどお?」

「あぁ、一応…テールコート着てみたけど、どうなんだろうね?」

 最終的にソファに座って、やたら難解な本を読み進めていたルイリーは、覚悟を決めてナシャに目をやると、立ち上がった。

 今日の彼女は、爽やかなグリーンと白を基調としたドレスに身を包んでいて、プリーツがかかってふんわりと広がった裾は、まるで満開の花のようだ。


(ああ、かわいいな。ナシャってこんなにかわいいのか……。どうしよう、今すぐぎゅってしたいぞ……)

 そんなことを思いながら彼女の傍まで歩み寄ったルイリーは、可愛らしいナシャの姿にうっかり見惚れると、心の中でひとりごちた。

 さっきまで感情の整理を行って平常心を得たはずなのに、もうすでに瓦解がかいしそうだ。

「……」

 その一方、初めて見るルイリーのテールコート姿に、ナシャは珍しいものを見つけたような顔をしていた。

 何度言っても昼夜で服装を変えるなんて面倒なことはしないルイリーが、みんなと同じようにテールコートを着ているのは、やっぱり新鮮で、思わず、見入ってしまう。

 だが、王宮へ向かうまでそんなに時間がないことを思い出したナシャは、持参した薔薇と百合デザインの仮面を置くと言った。

「テールコート、似合うじゃない。……ただ、ボタンをすさまじく掛け違えてるわね……。直してあげるから、少しじっとしてて」

「……!」


 素直な感想とともに告げたナシャは、一歩彼の傍に寄ると、慣れた様子で超テキトーに留められたボタンを直し始めた。

 ルイリーの服装は、何をどうしたらこうなるのか分からないほど破壊的にテキトーで、ウエストコートに至っては四つしかボタンがないにもかかわらず、一つも正しく留まっていない。

 よく見知っているとはいえ、改めて見るとおかしな現状に、ナシャは思わず首をかしげると、心底不思議そうに呟いた。

「いつもながらミラクル……いっそわざとかしら?」

「……」

 頭の上に「?」を乗せたまま、ウエストコートとシャツのボタンを順序良く留め直し、変に曲がった蝶ネクタイを整える。これでとりあえず服装は完成、あとは飛び跳ねた髪を整えるだけだ。

「よし、できた。次うひあっ!」

 そんなことを思いながら、きちんと整った彼の服装を満足そうに見つめていたナシャは、傍を離れようとしたところで突然、ルイリーに抱きしめられた。

 今回は誰が傍にいたわけでもないし、今この場で婚約者を装う理由は一ミクロもない。毎度のことながら、彼はいったい何を考えているんだろう……?


「ル、ルイリー?」

「……今日、ジェニーの前ではこうやって見せつけるつもりだから。覚悟しておいてよ」

 いつも以上に意味不明な抱擁に混乱するナシャを見つめていたルイリーは、しばらく間を開けた後で、誤魔化すような口調で説明した。

 本当は傍で触れられる状況に限界がきて、思わず抱きしめただけなのだが、そんなことを知られるわけにはいかない。

「これ、今実践する意味ある!? ……というか、合図くらいしてもらわないと、私、対応できる自信ないわよ」

 すると、彼の言葉を文字通り取ったナシャは、まさかの予行演習発言に目を丸くすると、声を荒げた。だが、続けざまに言う彼女の不安げな声音には、少し照れが混ざっている様子だ。

 これまでもずっとそうだが、いつまで経っても初々しい姿をかわいく思いながら、本心に気付かれなかったことを安堵したルイリーは、無理にからかうように言った。

「フフ、どうかな~。ナシャは素で動揺した方がかわいいから、何も言わないかも」

「……またそうやって……。ほら、離して。髪、梳かすわよ」

「もうちょっと」

「ダメ。ほら、移動!」

 自分をぎゅうぎゅう抱きしめたまま言うルイリーの態度に、これ以上の問答は無駄だと思ったのか、ナシャは諦めた顔で話を終わらせると、ぐいと彼の体を押して傍を離れた。

 そして、すぐにルイリーをドレッサー前の椅子に座らせ、今度は髪を梳かし始める。


(……まったく。いつもルイリーのペースに乗せられる。もっとしっかりしないと……)

 どうやったらここまでぼさぼさになるのか不思議なほど、めちゃくちゃに飛び跳ねた髪を、櫛を使って梳かしながら、心の中でため息を吐く。

 彼が何を考えているのか分からないことは時々あるけれど、とりあえず、王宮でジェニーを見つけても合図をしてくれるとは思えない。

 なぜなら、ルイリーの行動は演技か、自分をわざとからかうためかの二択だと分かっているのに、心の動揺を抑えきれず赤くなる自分を見て、きっと彼は楽しんでるんだもの。

(はぁ、このままじゃ、兄様との勝負に決着がつく前にルイリーを張り倒して、婚約がただの利害一致だとバレちゃいそうだわ。苦手だけど…恋人演技に耐性を付けて、振り回されないようにしないと……。演技に一人どきどきしてる私、馬鹿みたいじゃない。はぁ……。……それにしても、綺麗な金髪ね……)

 ルイリーの長い金髪を梳かしながら、ひとり思い悩んでいたナシャは、気持ちを切り替えるように視線を向けると、心の中で呟いた。

 するりと櫛通りの良い彼の髪は、梳かしてみると上品な光沢のある絹糸みたいで、正直に言えば見惚れるほど美しい。

 本当に、普段ちゃんとしないやつにはもったいないくらいだ。


「……貝殻の飾り。珍しいもの着けてるね、ナシャ」

「ん?」

 思案に耽ったまま梳かした髪を束ね、持参したリボンを付けて彼の髪を整えていたナシャは、鏡越しにこちらを見つめるルイリーの声で我に返った。

 彼の視線は今、ナシャの首に飾られたネックレスに注がれ、物珍し気な様子だ。

「ああ、これ? 海外のお友達からのプレゼントなの。アルカちゃんって言って、欧州の南西辺りにあるルリエル王国のグランディア侯爵家のお嬢様。私が海を見たことないって手紙で話したら、わざわざ送ってくれたんだ。いいでしょう~」

 ルイリーの視線に気付いたナシャは、身に着けたネックレスを持ち上げると、嬉しそうに説明した。

 四方を山脈に囲まれた内陸国のルクストリアで海のものは非常に珍しく、滅多に見かけることはなかった。

 ルイリーも、実際に貝殻を見るのは初めてだったようで、ナシャの方に振り返った彼は、実に興味深げな表情で飾りを見つめてる。

「へぇ。綺麗だな。というか、そんな遠いところのお嬢様といつ知り合ったんだい?」

欧州国際連盟おうしゅうこくさいれんめいのパーティよ。ルイリー来ないから分からないでしょうけれど……」

 ネックレスに加工され、見る角度によってキラキラと違った輝きを見せる貝殻の飾りを見つめ、不思議そうに問いかけるルイリーに、ナシャは苦笑交じりに答えた。


 欧州国際連盟とはヨーロッパにある国々の大半四十一ヶ国が加盟する欧州の一大組織で、欧州全体の経済や政治、国々の調和、独立国の承認、紛争回避など、由々しき案件を討議・対応するために一一八五年に作られた由緒ある組織だった。

 貴族なら子供でも知っている組織の名前に、ルイリーは一瞬眉根に皺を寄せると、

「欧州国際……あー、あの六年に一度開催される加盟国の親睦会ね」

「そう。彼女とはそこで出会って以来お友達で、あの子のところもうちと同じように被服店とか経営してるから、お家としてはビジネスパートナーでもあるのよ」

「ふーん、ナシャの交友関係は意外と広いなぁ」

 欧州国際連盟が六年に一度、本部のある永世中立区域で開催しているパーティの話に、ルイリーはあまり興味なさげな様子で呟いた。本来、招待されること自体名誉だと言うのに、もちろんルイリーは一度も参加したことがない。

 すると、そんな彼にナシャは答えを予想しつつ、ダメもとで言った。

「再来年の欧州国際連盟親睦パーティ、ルイリーも行きましょうよ。乗り気じゃないのは分かるけど、国籍の違う人たちと話すのも楽しいわよ」

「うーん、レアな人種でもいるなら見てみたいけど、どうせ、加盟国の王族や貴族が集まったパーティでしょ。あんまり興味ないな」

 予想したまんまの回答に、「ですよね……」と思いつつ、ナシャはあの場で見た人々や光景を思い出すようにふと顎を引いた。

 確かに、あの場にいるのはルイリーの言う通り、国を代表する王族や貴族たちばかりだ。異国の文化や食べ物など、見たこともないものを見れるのは楽しいが、そんなものにルイリーが興味を持つとは思えない。

「んー、レアなんて言ったら失礼だけど、群を抜いて目を引くのは……あ、そろそろ時間ね。行きましょう」


 そんなことを思いつつ、何かを言い出そうとしたナシャは、ふと目に入った時間に気付くと、話を中断させた。

 時刻はいつのまにか五時半となり、そろそろ王宮へ向かわなければいけない時間だ。

 ドレッサーに置いておいた仮面を手に部屋を出たナシャは、「群を抜いて目を引くのは……?」と続きが気になったようについてくるルイリーとともに王宮へ向かった。



 王都の南側に位置する荘厳な佇まいの王宮に着くと、そこには招待された貴族たちが大勢顔をそろえていた。

 皆、花々や動物、鳥、幾何学模様など、華やかなデザインが施された仮面を身に着け、思い思いに楽しんでいるようだ。


「いつ見ても王宮のパーティは華やかね~。すごい人」

「ああ嫌だ…もう帰りたくなってきた……」

 受付で招待状を確認してもらい、ルイリーとともに大広間に入ったナシャは、大きなシャンデリアが輝く煌びやかな会場を見回すと、弾んだ声を上げた。

 その一方、人々のざわめきと、時折向けられる視線にルイリーは早くも嫌になった様子だ。げんなりと肩をすくめ、隣を歩くナシャに向かって文句を言おうと口を開く。

「ねぇ、ナ……いや、だめだった。なんて呼ぼうか? うーんと、じゃあきみは青い髪をしてるから、うちのロシアンブルーと同じでイーリスでいいか」

「ちょっと、なんでねこから名前取るのよ」

 文句かと思いきや、その前に会場内での呼び方に困って首をかしげたルイリーは、いかにもテキトーな様子で愛猫の名前を口にした。

 おそらく彼にとっては、ナシャも小動物と同じような扱いなのだろう。そう思うとなんかイラっとくる部分もあるのだが、仕方なさそうにため息を吐いたナシャは、素で「だめ?」なんて言い出した彼に、目には目を、と言った口調で告げた。


「はいはい。じゃあ、あなたは黒猫の仮面だからルミアね」

「あ、そうだね。それでいこう」

「ええ……」

 ルイリーが着けているねこの形をした仮面を見上げて言い返すと、彼は意外なほどあっさりとナシャの言葉を受け入れた。

 仮にも貴族が、ねこの名前で呼ばれるなんてどうかと思うのだが、残念ながら愛するペットの名前である以上、ルイリーに不満はないようだ。

 それを察したナシャは、彼とともに会場を進みながら、再度心の中で反省した。

(ああ…またルイリーのペースだわ……。気を付けなくちゃ……)


「………」

「ねぇ、イーリス。俺の傍を離れないでね」

 今回も振り回されそうな予感を覚えつつ、気を引き締めるように前を見つめていたナシャは、会場の中ほどまで進んだところで突然、ルイリーにそんな言葉を告げられた。

 彼の口調はいやに真剣で、普段とは少し違う感じだ。ジェニーの姿が見えたら、予告なしに恋人演技を見せつけるとは言っていたが、いきなりこれは演技だろうか?

「……え、うん。いいけど……」

「絶対にだよ。きみが離れたらご令嬢方がこっちに来る。それだけは嫌だ……」

 彼の態度を微妙に勘繰りながら頷くと、ルイリーは自分に集まる視線を感じたように怖気おぞけって言った。

 どうやら仮面を着けているとはいえ、早くもご令嬢方にルイリーだと気付かれてしまったようだ。

 彼に集まる視線と囁きに、気持ち悪そうな顔をするルイリーの本気の嫌を察したナシャは、出来るだけ平常心を保って腕を組むと、心持大きな声で言った。

「大丈夫。傍に居るわ、私の婚約者殿」

「……うん」

 こうしてなお、つきまとう彼女たちの視線が離れることはなかったが、少なくとも腕を組んで傍にいる以上、直接的な接触はないだろうと思いつつ、さらに会場を進む。

 最初は、腕を組んで参加しているなんて、悪目立ちしないか心配していたナシャだったが、婚約者同士や若い夫婦で参加している割合も高いのか、極端に目立った様子は今のところない。

 正直結構恥ずかしいので、このまま友人たちにも出くわさないといいのだが……。


「あら」

「……!」

 なんて思いつつ会場を歩いていると、こういうときに限ってなぜか見つかってしまうものなのか、ナシャは友人のロティサに声を掛けられた。

 淡いピンク色のドレスに身を包んだ彼女は、飾り羽をあしらった仮面を着けている。

「今日はお二人で一緒の参加ですのね。おそろいのリボンもとっても素敵ですわよ」

「ありがとう。それにしても一人なんて珍しいわね。お姉様たちは一緒じゃないの?」

 あえて合わせたとはいえ、同じグリーンのリボンに気付いて褒めてくるロティサの言葉に照れながら、ナシャは辺りを見回すとちょっと首を傾げた。

 伯爵家の末っ子である彼女は、どのパーティでも兄姉や友人などと一緒にいることが非常に多く、一人きりというのは珍しい。

 するとナシャの言葉にロティサは、どこか残念そうに言った。

「お兄様もお姉様もフロアで踊っていらっしゃるわ。わたくしはダンスが苦手だから、仕方なくお友達を探して会場内を歩いていたのよ」

「そうなの……。それは残念ね。向こうで一緒にお菓子食べる?」

 広間の中央に視線を向けたまま言うロティサに、ナシャは広間の奥を指差すと提案した。彼女とはよくお茶をする仲だし、今回の王宮のお菓子も気になる。

 そう思って言うと、ロティサは気遣われたと思ったのか、笑みを深くして答えた。


「うふふ、ありがとう。でも大丈夫よ。彼との時間を楽しんで」

「う、うん」

 ちらっとルイリーに視線を向けた後でナシャに笑いかけたロティサは、邪魔すると悪いから、と言ってまた友人を探しに人波に紛れていった。

(大丈夫かな…ロティサ……)

「いないな、ジェニー。早く出てくればいいのに……」

「……!」

 なんとなく心もとない友人の後ろ姿を心配そうに見送っていたナシャは、いつのまにかジェニーの姿を探していたらしいルイリーの、つまらなそうな呟きに顔を上げた。

 正直、この大勢人がいる会場で、仮面を着けたジェニーを探すのは骨だろう。

 だが、ルイリーが嫌々参加したのはこのためにあるんだった、と小さく肩をすくめたナシャは、彼を見上げると、とりあえず分かっていることを説明した。

「兄様は蔓薔薇つるばらをあしらった青い仮面を着けてるわ。お父様と一緒か、ご友人方をちゃんと見つけてお話してるかは分からないけれど……」

「いっそ見分けつかなくて、ひとり会場を彷徨ってたら面白いのに」

「……確かに、その可能性も捨てきれないわね……」


 ナシャの話に、ルイリーは青い仮面を探しながら馬鹿にした口調でうそぶいた。

 ジェニーが仮面を着けた途端、友人でさえ見分けがつかなくなる、という話をちゃんと覚えていたようだ。

「んー……。あっ。あそこにきみの友達がいるよ」

「え?」

 せっかくの仮面舞踏会なのに、一人会場を彷徨ってうろうろしてる兄を見つけてしまったらルイリーは喜ぶだろうが、妹としてはちょっと微妙な気分だな……。

 なんて思いながら二人してきょろきょろ辺りを見回していると、ルイリーが発見したのはナシャの友人、アレアだった。彼女は四つ年上の婚約者・グリーテール侯爵と仲睦まじい雰囲気でダンスを踊っている。

「あの子、いよいよ来月、侯爵様と式を挙げるのよね。いいなぁ、幸せそうで。とっても素敵だわ……」

 二人の姿を見つめ、どこか羨むような口調で呟くナシャに、ルイリーは意外な顔をすると、彼女を見遣った。

 ナシャとは十年来の仲だが、彼女が恋愛事に興味を示すところなんて見たことがない。

 だからこそ、自覚した彼女への想いをひた隠しにして、彼女の前では演技という名目でしか恋人らしいことをしてこなかったのだが……?


「……きみも、ああいうのに憧れるの?」

 意外とナシャも積極的にアプローチされた方が嬉しいんだろうか、と思いつつ尋ねる。

 すると彼女は、アレアと侯爵のいちゃいちゃを見遣りながら、悩んだように言った。

「うーん。私は恋人っぽいやり取りはあんまり得意じゃない……。けれど、誰かに想ってもらえるっていうのは、素敵なことだと思うの」

「……!」

「まぁ、私たちは例外だけど、普通婚約するってことは、いずれ結婚して、その人と一生、人生を歩んでいくってことでしょう? もちろん、家の意思が優先される結婚に愛は不要なんだけど、それでも少しずつ互いを知って、ここは好き、ここは嫌いって言いながら互いを慈しみ合えるようになったらいいなって思う」

「……」

「だって、せっかく出逢って、一生夫婦やっていくんだもの。彼らみたいに想い合える関係は素敵よ」


 二人の姿を見つめたまま語るナシャの本音に、ルイリーは思わず目を見開くと押し黙った。

 もちろん、彼女の恋人や夫婦に対する価値観を聞いたのは初めてだし、利害一致とはいえ、婚約者でなければ一生、こんな話を聞くことはなかっただろう。

 だけど、普段自分が知ろうとしなかっただけで、ナシャだって女の子としての理想を持っていて、だぶん、そういう相手と生きていくことを望んでいる。それを察したルイリーは、彼女を見つめたまま、つい考え込んだ。

(ナシャの理想……。今の俺は、きみの理想に合うような男ではないんだろうな。だけど、いつか俺が、きみにとってそういう存在になれたら……)

「……なんて、綺麗事かしらね」

 柄にもなく真面目に考え込むルイリーの表情をどう解釈したのか、少し間を開けたナシャは肩をすくめると、自嘲したように呟いた。そして、もう一つ、思っている本音を口にする。

「私は、物心つく前に母を亡くしているから、実際夫婦ってよく分からない。でも、お父様がお母様を今でもとても大切に想っているのは、屋敷の至るところに残る思い出を見てよく分かる。たとえ身が滅んでも心が繋がっている限り夫婦なんだなって。そういう関係を築くのはとても大変なんだろうけど、憧れではあるわよね……」


 家族を見て感じる思いを語ったナシャは、どこか寂しそうに笑った。

 分からないけれど、憧れで、でもそれが手に入るとは到底思えない、そんなうれいと憧憬どうけいを含んだ声音に、ルイリーは何と言うべきか迷うようにただ彼女を見つめていた。

 ルイリーには兄弟こそいないが、自分を大事にしてくれる両親がいて、不自由なんてない。そんな自分が何を言ったところで、意味はないような気がしてしまったのだ。

「……」

「ふふ、ごめんなさい。あなたにこんな話をしても分からないわよね。さ、兄様を探しに行きましょう。どこにいるかな~」

 すると、沈黙するルイリーを見上げたナシャは、しばらく黙った後で気持ちを切り替えるように笑うと、また彼の腕を引いて歩き出そうとした。

 ルイリーはナシャにとって本音だってちゃんと話せる相手だけど、人に興味がない人に恋だの愛だの話したって、驚くか困るだけで、たぶん意味なんてないと自分の中で解釈してしまったようだ。


「……待って」

「?」

「それがきみの憧れなら、言葉だけでもあげる」

 そんなナシャの姿を見つめたルイリーは、立ち止まったまま、振り返った彼女の手を取った。

 人の感情が苦手な自分に、彼女の言葉の全部をきちんと理解するのは難しいことだったけれど、自分の気持ちは分かってる。なら、今自分が婚約者としてできることは、このくらいだ。


「……きみを大事にする。これから先もずっと」

「えっ、ちょ……いいって。得意じゃないって言ったでしょう?」

 彼の想いなんて知る由もないナシャは、突然本物の婚約者みたいな台詞を囁きだしたルイリーの言葉に顔を赤らめると、困ったように視線を彷徨わせた。

 彼がいつどこでどんなタイミングでこういうことを言い出すか分からない以上、彼のペースに呑まれないよう、気をしっかり持っていなきゃと思っていたはずなのに、思わず語った本音が、自分をからかう口実となってしまったのだろうか?

 そんなことを考えながら、どきどきと胸を高鳴らせるナシャに、じっと真剣な眼差しを向けたルイリーは、さらに彼女を引き寄せると、耳元で囁いた。

「好きだよ。子猫みたいにかわいい俺の婚約者」

「……や、ほんとに……恥ずかしいから……」

「ナ……」

「あああもうダメ! お願いだから…それ以上はダメ……」

「フフ…それは残念だな。じゃあ踊ろうか? せっかく舞踏会に来たのに、俺たちまだ何もしてないしね」

 不意打ちだったせいで早くも限界に達したらしいナシャの、蚊の鳴くような声に笑みを見せたルイリーは、スッと身を引くと、今度はナシャの手を握って歩き出した。

 そして、何組もの貴族たちが音楽に合わせて踊る、広間の中央へ向かう。


(……あ、危ないわ……。これ以上続いてたら、ルイリーを張り倒していたかも……)

(フフ…照れるナシャかわいいな。想い合える関係って何が正解かよく分からないけれど、危うく口づけしたくなるところだった)

(やっぱり演技前の合図考えないと……。いろいろと身が持たないわ……)

(少しは伝わるといいんだけど、本音を伝えるのって難しいな)

 手をつないだまま、無言で中央に出た二人の感情は、見事なほど噛み合っていなかった。

 やはり、演技以外でルイリーがあんな台詞を言うと思っていないナシャに何を言っても、本気だとは伝わらなかったようだ。

(……それにしても、ルイリーったら無駄に真剣な口調だったわね。なんでいきなり……)

 仮面越しに彼を見上げ、感情の差異なんて知る由もなくルイリーと手を取り合ったナシャは、演奏家たちが奏でる音色に合わせてゆっくりと踊り出した。

 自分を見つめる彼の瞳は、仮面越しでも分かるほど真剣で、目を合わせているのも恥ずかしくなる。

 変に本音を話してしまったことが原因かは分からないが、今日のルイリーはなんとなくいつもと違う、そんな気がするのは気のせいなんだろうか?


(あ)

 いつもなら何とも思わない彼とのダンスに、嫌にどきどきしながらあれこれ考えていたナシャは、ここで初めて、自分たちの背後に髪を逆立てる兄がいたことに気付いた。

 蔓薔薇装飾の青い仮面を着けたジェニーは、ちょうどナシャとルイリーが広間中央に出てきた通り道の辺りにいて、凶悪な目つきでルイリーを睨みつけている。

(に、兄様……! え、もしかして、ルイリーは兄様が傍にいたことに気付いて、あんな台詞を!? ほんとに恥ずかしかったのに……! もう! うっかり思い悩んでいた私、ほんとに馬鹿みたいじゃない……)


「どうかした?」

「……あなたのお望み通り、兄様が怒ってるわ。すごい表情」

 自分のちょっとばかり挙動不審な様子に気付いて首をかしげるルイリーに、ナシャは溢れそうになる文句をしまい込むと、兄に視線を向けたまま、拗ねた口調で呟いた。

 彼の演技にほんとにどきどきさせられた、なんて気付かれたくはないのだが、いつもと変わらない調子のルイリーを見ていると、割に合わないような気さえしてくる。

 一方、そんなナシャの様子を気にしながらジェニーに目を向けたルイリーは、今にも爆発しそうな彼の怒りに、笑みを見せて言った。

「フフ……そうだね。だけど、あんまり見てると声を上げて笑っちゃって、俺の目論見が露見しそうだ。フフ、視界の隅程度に抑えておきたいけれど、フフフ…つい……。やっぱりあいつの馬鹿面は最高に面白いね……! どうやったらあんなに表情を歪められるんだろう。いっそ仮面外して見たいな~」

「……はいはい。仮面は外しちゃダメだけど、演技頑張った甲斐があったわね」

 嬉しそうにステップを踏む彼に合わせてダンスを続けながら、ナシャはうきうきした様子のルイリーにやっつけ気味に答えた。

 彼の好奇心が満たされるのは結構なことだけれど、その代償があのどきどきだなんて、やっぱり割に合わない気がする。


「フフフ…ん? ……あー、そうだね。演技ね」

 すると、それまで満面の笑みを見せていたルイリーは、さっきまでのやり取りをナシャが演技だと思っていることに気付いて少しだけトーンを落とした。

 ナシャが照れるのは演技でも本気でも変わらないとは思っていたが、やっぱり突然好意的な言葉を言ったところで、本気にするわけではないようだ。

(……やっぱりもっと、順序立てて言葉にしないとだめなんだな。うーん、ナシャかわいかったし、いろいろと本音も聞けたから今日はとりあえず満足だけど……)

「? どうかしたの?」

「いや、何でもないよ。さて、じゃあダンスはこのくらいにしてお菓子でも食べに行こうか?」

「うん……?」


(でも、いつかちゃんと分かってもらわないと辛くなりそうだ……)


(急にどうしたのかしら、ルイリー。私、何か変なこと言った……?)


 こうして、互いの感情を計り知れないまま、婚約者の仮面を被った二人の、いろいろとすれ違いに終わった仮面舞踏会は幕を閉じた……。

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