第3話 勝敗と誤算

 妹のお見合い相手に無理難題を吹っ掛けて、破談に追い込み続けること三十五回。度が過ぎるシスコンぶりを発揮するジェニーが、自分にどんな難題を課すのか気になる。

 ……そんな理由で、十年来の友人であったナシャとの婚約に踏み切ったルイリーは、この日、ついに念願のジェニーとの対決を迎えていた。


 彼が言い出した内容は、敗北した途端婚約話を取り下げる、という条件下での二十番勝負。

 うまくいけばジェニーの馬鹿面を二十回も拝める状況に、ルイリーは嬉々として勝負を受け、二人は第一戦目として、怪我をさせないことを前提とした真剣での決闘を開始していた。

 王都の剣術大会で優勝経験もあるジェニーは、絶対的な自信を胸にルイリーを迎え撃った、の、だが……?


「なんだ、意外と大したことないじゃん。俺の勝ちだね、ジェニー」

「うぐぐ……っ」

 勝負は結果としてルイリーの勝利に終わった。

 自分にも他人にも興味を示さない、好奇心だけが原動力の変人貴公子は、本気さえ出せば、いろいろと有能だったのだ。それを本人が自覚しているかどうかは分からないが、剣を鞘に納めたルイリーは無様に地面に尻をつくジェニーを見つめると、楽しそうに言った。

「まずは一勝目。次はもうちょっと手応えのあるものがいいかな」

「フン……!」

「フフ。あ、そうだ。ナシャ、こっちにおいで」

 怒りというよりは、悔しさでへそを曲げるジェニーを一通りからかったルイリーは、近くのベンチに座って勝負を見守っていたナシャに声を掛けた。

 そして、ドレープのかかった綺麗な空色のドレスを揺らして傍に寄ってくる彼女に所望する。


「じゃあ、ご褒美をもらおうかな? ジェニーの怒る様……もっと見たいし」

「……!」

 最後の一言だけ耳元でぼそっと付け加えつつ、勝負の前に話に出た、勝ったら頬に口づけをもらうという一方的な要望の実現を望むルイリーに、ナシャは少し困った顔で沈黙した。

 先日あれだけ動揺したんだから分かっていると思うが、あのときまで口づけなんて、されたこともなければ、もちろん、自分からしたことだって一度もない。なのにそれを、今ここで、しかも兄の前で実行しろというのか……!


「……」

 悪戯めいた顔で笑うルイリーを見上げたまま、ナシャはさらに数秒沈黙した。

 自分から口づけるなんて死ぬほど恥ずかしいが、おそらく彼は、自分が実行するまで引いてはくれないだろう。だとしたら、自分に残された選択肢なんて、もう……。


 しばらくの逡巡ののち、覚悟を決めた彼女は「いいわ」と言い置くと、おもむろに手を伸ばした。そして、ルイリーの濃紺色のジャケットの襟を引っ張って、そのまま彼の頬、ではなく、唇に口づける。

「……っ?」

「先日のイジワルのお返しよ、ルイリー」

 自分の行為に頬を染め、唇を離したナシャは、勝ち誇った笑みを浮かべていた。どうやら今のは、先日の件含め、幾度も振り回されてきたことへの意趣返し、ということらしい。

「あなただって少し…わっ!」

 だが、驚いたでしょう、と続けつつ、彼を見上げようとしたナシャは、突然、頭を抑え込むように伸びてきた手によって、視界が地面に限定された。

 せっかく、覚悟を決めて唇に口づけたのに、なんのつもりか、彼の手が邪魔をして、驚いているかもしれないルイリーの顔を見ることができない。


「な、何するのよ、ルイリー。せっかく結った髪が崩れる……!」

「……」

 不満そうに抵抗するナシャの一方、答えないルイリーは、もう片方の手を自分の口元にあてたまま、明後日のほうを見ていた。

 ぼさぼさの金髪の隙間から覗くその顔には、珍しく、動揺と照れが浮かんでいる。

「……ねぇ、ルイリー?」

 しかし、そんなことを知る由もないナシャは、ぎゅうぎゅう自分の頭を抑えつけたまま、一向に反応を見せないルイリーを少しだけ不審に思うと、もう一度声を掛けた。

 ルイリーが口づけで怒るとは思えないが、逆にこんなにノーリアクションだと、それ以上、どうしたらいいか分からなくなる。

「満足したから今日は帰るよ。ジェニー、次の勝負も楽しみにしているからね」

「……?」

 すると、ナシャの声でようやく我に返ったのか、ルイリーは小さく咳払いをすると、彼女の髪をくしゃっと撫でた。

 そして、ろくな反応も見せないままそれだけ言って、二人に顔を見せることなく、歩き出す。


「なん、だったのかしら……?」

 そのまま本当に帰ってしまったルイリーのらしくない様子に、ナシャは心底不思議顔で首をかしげると呟いた。あれだけジェニーの怒る様を見たいとわくわくしていたはずなのに、彼の反応はあまりにもさっぱりとしていたような気がする。


「……………………………………………………」

「あ」

 そんなことを思いながら、待機していたアドフォード家の馬車が走り去っていく姿を遠くに見ていたナシャは、ここで、もう一名、全く反応がない人物がいたことを思い出した。

 くるりと後ろに振り返ってみると、地面に尻をついたまま二人のやり取りを見ていたジェニーは、勝負に負けた上に、大事な妹がルイリーに口づける様を見せられて、相当ショックを受けた顔をしている。

「……兄様、生きてる?」

 あんぐりと口を開けたまま、目を点にして石像と化す兄に、ナシャは恐る恐る声を掛けた。ある程度予想はしていたものの、ジェニーは本当に、魂が抜けたのではないかと疑いたくなるほど、ピクリとも動かず沈黙している。


「………………………………………………」

「ちょっとしっかりしてよ、兄様。この後商談でしょう? お父様ももうすぐ先方の方を連れて別邸にお見えになるんだから、生き返って!」

 普段ならナシャに声を掛けられて即反応する彼の沈黙に、相当まずい事態だと思ったのか、ナシャはジェニーの腕をつかむと、心配そうに言った。

 商談の前に勝負を仕掛けようと思ったあたりにも、彼の自信が覗えるというものだが、そのすべてが打ち砕かれた今、商談なんて気分じゃないだろう。

 だが、貿易業をしながら宝飾店や被服店を営むハリントン家の商談に、ジェニーは欠かせない。

 自分もそれを自覚しているのか、妹の言葉にうっすら我に返ったジェニーは、ふらふらと歩き出すと、心ここに非ずな調子で呟いた。

「………………商談…しょ、うだ……。応接室~資料~準備……しなきゃ……ふふふ……」

「………」



 そんな調子で抜け殻と化したジェニーが、父とともに商談に臨んでいたころ。

 勝負を終え、自宅に帰ったルイリーは、理解できない自分の感情と格闘していた。

(何なんだ、これは……)

 ナシャに口づけされ、自分でもびっくりするくらい動揺している。最初に自分から口づけたときは、ワイングラスに口を付けるのと変わらないくらいの感覚だったのに……。

 なのに、今はもう、ナシャのことを考えただけで、心がざわついて落ち着かなくなる。

 人間に、ましてや女の子に心を動かしたことなど一度もない。人間はとにかく複雑で、厄介で、面倒。だからこそ興味を持たないことで、今までずっとやり過ごしてきたのに。

 ナシャのことだって、「人間に興味のない自分を知ってなお、なぜか声を掛けてくる変な人間」、「たぶん友達」、程度の相手だったのに。

 この胸に芽生えた、ざわざわと蔓延るような感覚は一体何だろうか。


(……嫌な、感覚ではないかな。何処か弾むような、でもとても気恥ずかしいような……、うーん、今まで一度だって体験したことのない感覚だ……)

「……。……だめだ、どうにも落ち着かない。これは病気なんだろうか……?」

 立派な天蓋てんがいがついた大きなベッドに寝ころんだまま、あれこれ考えを巡らせていたルイリーは、不意に体を起こすと頭をぐしゃぐしゃに掻きあげた。

 まとまらない思考と心模様を表すように、彼の長い金髪はいつも以上に跳ね飛び、普段髪の隙間から見えていた表情も、完全に窺うことができない。


「…………医学書」

 すると、そんな状態のまましばらく俯いていたルイリーは、不意にそれだけ呟くと、ベッドを降りて近くの本棚に手を伸ばした。

 壁一面を覆うような大きな本棚には、動植物に関するものを中心に、様々なジャンルの本が名称別に、意外なほどきちんと収められている。

「えーっと、ざわざわするのは心臓……」

 その中から、やたら分厚い医学書を手に取ったルイリーは、もう一度ベッドに寝転ぶと、自分に当てはまる病名を探すべく、ページをめくり始めた。そして、心臓に関する病気を見つけては、注意深く読んでいく。

「うーん、心筋に異常…? 精神的な……? ………」

 それからしばらくの間、室内には、パラパラとページをめくる音と、かすかな衣擦れの音だけが響くようになった。

 髪の隙間からほんのわずかに覗く瞳は真剣そのもので、いつの間にか、屋敷内で飼っているねこたちがすり寄ってくるのにさえ、今のルイリーは気に留めていない様子だ。


「うーん……」

 だが、しばらくして最後のページまで読み終えたルイリーは、本を閉じると、両脇を固めるようにして自分に寄りかかっているねこたちを撫でながら、唸り声をあげた。

 どうやら解決策を見出せなかったらしく、眉間に皺を寄せた表情は珍しいほど険しい。

「なんだか、どれも当てはまるとは思えない感じがするな。第一、何も考えていないときは何ともないし……。ただ、ナシャを………」

 と、そこまで呟いて、ルイリーはまた苦しくなったように息を詰まらせた。

 こんなに苦しい気持ちになるのに、医学書に当てはまるような病名は載っていない。ならこれは、一体何だと言うのだ……?

「……そうだ、もういっそ全然興味のないジャンルの本でも読んでみようかな。一旦落ち着けば、何事もないかもしれないし。うん、そうしよう」

 堂々巡りのまま答えの出ない問いに疲れたのか、ルイリーはねこたちに苦戦しながら起き上がると、もう一度本棚の前に立った。

 そして、少し悩んだ後で、子供のころ母にもらったはいいが一度も読んだことのない、可愛らしい表紙のお伽噺を取り出す。


「これがいいかな。一六〇年ほど前に発刊され、欧州でベストセラーになったっていう伝説的な…恋愛御伽噺。なんで母上は俺にこんなものを……。確か、この登場人物は実在してて、今も、その血を引く家が隣国にあるって話を聞いたけど、それにしても興味をそそらない話だ」

 なんてぶつぶつ言いながら三度ベッドに戻ったルイリーは、寄りかかってくるねこたちを定期的に撫でながら、気重そうに本を開いた。

 お伽噺の内容は、魔王に捕らわれた高貴な血を引くお姫様が、美しい容姿の王子様に助けられ、魔王の魔の手を掻い潜りながら共に対峙し、最後には幸せを掴む、という趣旨の、ロマンティックな恋愛エピソードがふんだんに盛り込まれたものだった。

 実際は、十七世紀末に王国の乗っ取り戦争を引き起こさんとしたある貴族と、その貴族を父に持つ娘が、恋人の貴公子とともに父親と対峙して戦争の阻止に貢献した…というものだったそうだが、二人の恋物語をベースとして書かれたこのお伽噺は、一七一九年の発刊以来、一六〇年以上も欧州で根強い人気を誇っている。


「……」

 そんなことはさておき、普段なら三秒で嫌になる恋物語を、ルイリーは嫌々そうに読み進めた。だが、話が進んでいくうちに心境の変化があったのか、徐々に表情が真剣みを帯びてくる。

 そして三十分ほどで最後まで読み終えたルイリーは、しばらく黙った後で、動揺したようにひとりごちた。

(……どうしよう。すごく、共感できる……。え、おかしいな…普段ならこんな物語、一番遠ざけてしかるべきなのに、え、本当にどうしたんだろう、俺……?)

 興味のない本を読んで心を落ち着けよう作戦だったはずなのに、予想外に心を揺さぶられてしまったルイリーは口元に手を当てると、原因究明のため、思考を巡らせた。

(共感できる、ということは俺にもその感情が理解できる、ということ……。つまり俺は、この物語の王子様が、お姫様を想う気持ちを理解して、同じように感じている…と、いうこと……? ん……? じゃあこのざわざわの原因は物語から導くに、恋愛感情だというのか? それをナシャに対して抱くということは、つまり………)

「……え、と………」


 ひとつひとつ自分の中で感情の整理を行っていたルイリーは、そこまで思い至ると、少し顔を赤らめた。思い当たった事実が意外過ぎて、流石に動揺してしまう。

 だが、言葉として出し切ってしまった方が楽になると思ったのか、彼はひとつ間を置いた後で、思い切って言った。

「つまり、俺にとってナシャは、たぶん友達ではなくて、特別な感情を抱く相手……? 少なくともあの口づけ以降感じてるこれは、ただの友達に対してではなさそう、だな……」

 思い当たった事実を声にすると、この感情は自分にとって意外なはずなのに、なぜか心に違和感なく収まった。

 たぶんそれはもう、そういうことなのだろう。

「次にナシャに会ったら、この仮説は証明されるかな。そしたら、俺は……――」



「兄様、一時半からの商談の準備は大丈夫?」

「大丈夫だよ。ナシャは心配性だなぁ、全くぅ~」

「お願いだから、頑張って交渉してよ。できるだけ優位に立って、数パーセントでもいいから安く仕入れる手筈を……」

 ルイリーとジェニーによる婚約承認を賭けた二十番勝負の第一戦目以降、ハリントン伯爵家はバタバタとした日々を送っていた。

 というのも、あの日、ジェニーが心ここに非ずな状態で臨んだ商談はやや失敗に終わり、普段より二割ほど高値で仕入れざるを得なくなったハリントン家は、その損失を埋めるために、いろいろと動いていたのだ。

 貿易業をしながら宝飾店や被服店を営む伯爵家では、取締役こそハリントン伯爵が担っているものの、超がつくほどドお人好しな伯爵は、抜群の経営センスと引き換えに交渉力が著しく底辺で、商談などの話し合いには必ずジェニーが同席することによって、騙されたり、不当な価格で取引されるのを防いでいたのだ、が……。

「大丈夫。もうあんなミスは絶対にしないから。ナシャが用意してくれた資料もあるし、父上も、この平均取引価格から高くならないよう注視するって言ってるし。ねっ」

「ほんとにほんとよ~。また言い値で買わされたりしたら怒るからね~」


 もっとも、こうなってなおジェニーのシスコンぶりは健在なようで、心配そうに目を細めるナシャを満面の笑みで見遣った彼は、小さな子供をあやすような口調で告げた。そして、手にした資料の最終チェックをした後で鞄に詰め込み、二人して父伯爵の待つエントランスに出る。

「お父様も兄様もくれぐれも気を付けて。いってらっしゃい」

「あぁ、ありがとう、ナシャ。いい知らせを待ってて」

「……うん」

 商談の場に向かう二人を乗せた馬車が遠ざかっていくのを見送ったナシャは、屋敷内に戻ると、二階にある自室に向かいながら、思わず心配そうに息を吐いた。

 普段なら兄の交渉力は認めているので、口うるさく言ったりしない。だが、あの日の出来事は、自分に絶対非がないとは言えないせいもあって、気にしているようだ。

 おかげでここ一ヶ月ほどはろくに友人たちにも会えず、極力パーティやお茶会を欠席しては、二人のバックアップのためにと動いて来たが、さて今回の商談はうまくいくだろうか。

「……うまくいくといいな」

 待つことしかできない自分を残念に思いながら、自室の窓辺に寄ったナシャは、澄み切った晴れ空を見遣った。

 もう幾分と照りつけるような暑さは和らいできたものの、すっきりとした空には夏の名残が漂っている。


「――ナシャお嬢様。お手紙が届いております」

「……!」

 それからしばらくの間、空を見つめて思案を繰り返していたナシャは、部屋をノックする軽い音と、メイドの声で我に返った。

 返事をして入室を許可すると、ナシャと同い年くらいのメイドが入ってきて、一通の手紙を差し出してくる。

「お嬢様へ、アドフォード家の坊ちゃまからお手紙だそうですよ」

「……ルイリーから? 珍しいわね。ありがとう」

 手紙を差し出してくるメイドの、人のよさそうな笑みを見上げたナシャは、驚いたように目を見開くと、受け取った手紙を開封した。

 いつもなら、「思い立った」なんて理由で、アポもなく急に家を訪ねてくるようなルイリーが、わざわざ手紙を寄越すなんて、一体何事だろう?

 そんなことを思いつつ封筒を開けると、中には透かし模様の入った綺麗な便箋が一枚入っていて、彼のものと分かる細い字で、こう書かれていた。


『今日の三時、お茶の準備をして待ってる』


 流麗な字で書かれていたのは、たったそれだけの文章だった。ルイリーらしいと言えばそうなのだが、あまりにも短い手紙にナシャは息を吐くと、

「……手紙の体裁がまったくなってないわね。これじゃメモ同然……というか、ちょっと待って。今日の三時!? あと二時間しかないじゃない!」

 思わず二度の末、思いっきり手紙に食いついたナシャは、柱時計を見遣ると、焦ったようにもう一度 手紙メモを見つめた。

 そして、びっくりした表情のまま顔を上げ、手紙を持ってきたメイドに尋ねる。

「ねぇ、キャシー。この手紙、いつ届いたものなの?」

 するとメイドは、笑顔を崩さないまま、元気よく言った。

「はい。つい先程、アドフォード家の使いの方がいらっしゃってお預かりしました」

「……そう。まったく急な人ね……。まあいいわ。ルイリーのところへ行くから、準備を手伝ってくれる?」

「かしこまりました、お嬢様」



 ――二時間後。

 ルイリーに呼び出されるがまま着替えと支度を整えたナシャは、アドフォード侯爵邸にやってきていた。

 急な来訪にもかかわらず、使用人たちにはナシャの来訪を告げてあったのか、彼らに動揺のそぶりはない。それを何となく察しつつ、ルイリーがいると言う彼専用の温室に案内されたナシャは、ガラス張りの温室内に彼の姿を見つけると、入り口に向かって声を掛けた。


「ルイリー?」

「……!」

「時間通りに来たわよ? 入ってもいいかしら?」

「ナシャ! 手紙を受け取ってくれたんだね」

 すると、ナシャの声掛けに気付いたのか、間を置かずして扉を開けたルイリーは、珍しく満面の笑みで彼女を出迎えた。よほどナシャに会いたかった…とは思えないが、なんとなくいつもより嬉しそうだ。

「ええ。でも、一体どうし……」

「逢いたかった」

「……!」

 そんな彼の珍しい様子に思わず首をかしげるナシャをよそに、声を弾ませたルイリーは手を伸ばすと、いきなりぎゅっと彼女を抱きしめてきた。

 傍にはナシャを案内してくれたメイドたちしかいないものの、一体何のつもりだろう。


「きみたち。ティーセットは庭園の東屋あずまやに用意しておいてくれ。三十分ほどで向かう」

「か、かしこまりました、坊ちゃま」

 急すぎる抱擁ほうようにどきどきしつつ、どうしようかと黙り込むナシャをよそに、メイドたちを仰ぎ見たルイリーは、一転無表情のまま言った。

 そんな彼の命に、メイドたちは一斉に頭を下げたが、様子はどこかぎこちない。それに加え、屋敷に戻りながらも小声で何かを囁き合っている姿をみるに、珍しい光景に驚いているのか、もしくは単純に見せつけられて動揺しているのか、ともかく侯爵邸内で噂になりそうなことを話している気がする。

「……なんのつもりよ。いきなり……」

 メイドたちの様子を気にしながら、彼女たちが完全に見えなくなったところでようやく離してくれたルイリーに、ナシャは頬を赤らめたまま尋ねた。

 その声音は、突然すぎて怒っているようにも聞こえるが、気のせいかもしれない。

「ん? いや、使用人とはいえ、一応婚約者装わないと不審かと思って。問題あった?」

「……」

 すると、彼女の問いかけに、顔を逸らしたルイリーは、温室に戻りながら当たり前のように言った。飄々ひょうひょうとした声音から察するに、悪気どころか何とも思っていないのだろうと分かる。


「……そ。別にいいわ、問題ないもの……」

 分かっていたつもりだったが、あまりにもあっさりとした彼の態度に、どこか拗ねた口調で言葉を返したナシャは、ルイリーについて温室に入ると、少しだけ黙り込んだ。

 演技とはいえ、仮にも女の子に抱き付いて何とも思ってないルイリーにも、演技だと分かっていていちいち動揺してしまう自分にも、なんとなく、嫌になる。

 だが、一先ひとまずその感情をしまい込むことにしたナシャは、温室の中ほどまでくると、本題を切り出した。


「それで、今日はどうしたの? ルイリーが手紙を寄越すなんて驚いたわ」

「あー……」

 温室の中は、色とりどりの花やハーブといった植物が何十種類も植えられていた。

 すべてルイリーが趣味で世界中から集めたものらしいのだが、来るたびに変な植物が増えるせいで、一瞬、気移りしてしまいそうになる。それを何とか我慢しつつ問いかけると、ルイリーはなぜか、答えに迷ったような声を上げた。

 まさか、特に用事はない、なんていうつもりでは……?

「……そう、あれ。ジェニーとの勝負の件。一回目が終わってからしばらく経つけれど、あれきり音沙汰ないからさ。早くまたジェニーの馬鹿面を拝みたいし、現状を聞こうかと」

「ふーん。なるほどね」

 疑いを含んだナシャの視線に気付いたのか、ルイリーは急いで口を開くと、取って付けたように一気に語りだした。

 その口調はどうにも不自然だった気もするが、確かに、一回目の勝負からひと月も音沙汰なければ、気になるのかもしれない。

「まぁ、それどころじゃないいろいろがあったのよ……」

 少し勘繰りはしたものの、最終的に納得する気になったのか、ナシャは頷くと、困ったように言った。そして寝転がるねこたちや、温室で飼っているウサギ、フクロウといったルイリーのペットたちをなでなでしながら、現状を語りだす。


「――……というわけで、商談での失敗をカバーするために、私も資料作りに明け暮れていたわけ。おかげで友達にも会えなかったし、ほんと、まいっちゃうわよね」

「そうだったのか。それはご愁傷様だね」

 ナシャが語ったハリントン家の現状を、ルイリーは意外そうに聞いていた。

 もちろん、勝負の後に商談を控えていたなんて知らなかったこともさることながら、商売の大変さを知り、純粋に驚いていたのだ。

 だが、子供のころから父の商売のサポートをしてきたナシャは、このくらい当たり前だと思っているのか、ルイリーの驚きには気付かないまま話を続けた。

「兄様は私がいきなり口づけたことに相当堪えたみたいね……。まぁ、あれは、その……きゅ、急だったし、驚くのも当然、だったかもしれないけど………」

「確かに、ジェニーならショック死してもおかしくない状況だったろうね。大事な妹が……」

「……あああ、とにかく! 仕事の方も落ち着いてきたから、今日の商談さえうまくいけば、勝負も再開されるんじゃないかしら。四日後の仮面舞踏会、行くって言ったもの」

 説明として必要だったとはいえ、ルイリーとの口づけを思い出したように、耳まで真っ赤にしたナシャは、言葉に詰まりながら、なんとか説明を完結させた。

 あのときのことはさらりと流して言うつもりだったのに、やっぱり本人が目の前にいると恥ずかしくて、もう、ねこに夢中なフリをして俯くほかに、やり過ごす方法が思いつかない。


「そうか」

 すると、早く顔の熱が引くことを願いつつ黙りこむナシャをしり目に、話を聞いたルイリーは、無理に弾むような口調で言った。

「それなら安心だな。次はどんな内容で、どんな馬鹿面が拝めるか、楽しみだ♪」

「……うん」

「よし、じゃあ問題解決。そろそろ三十分経つし、お茶しに行……く前に、ちょっと俺、ラナ(フクロウ)に餌あげてくるから待ってて」

「うん」

 いつものようにわくわくした調子で告げたルイリーは、懐中時計を取り出すと、どこかせわしない様子で奥にある鳥かごの方へ歩いて行った。

 顔を赤くしたまま俯くナシャを気遣った…わけではないのだろうが、なんにせよ落ち着くチャンスだ。

 ごろごろとのどを鳴らすねこを懸命に撫でながら、深呼吸を繰り返したナシャは、ルイリーが数分帰ってこないことを祈った。


(……だめだ)

 同じころ、鳥かごの前に移動したルイリーは、フクロウに餌をやりながら心の中で呟いた。

 木々や植物のおかげで座るナシャの姿が見えないからいいものの、気付くと彼の顔は、ナシャと同じくらい赤い。

(あぁ、だめだ。ナシャがかわいいぞ。思わずぎゅーってして、そのまま口づけたいとか思ってしまった。どうしよう、こ、こここれが恋愛感情というものなのか……!)

 溢れ出た感情をついに抑えられなくなったように、口元に手を当てたルイリーは心の中で絶叫した。どうやら、ナシャの前ではうまく装っていただけで、本当はずっと傍に居るだけでどきどきして仕方なかったらしい。

 だが、今さらこんな感情を晒したところでナシャが信じるわけもないし、それ以前に好意を示すなんて、死ぬほど恥ずかしすぎる。絶対に絶対に、この感情は秘密にしておかないと……。

(ナシャも俯いてたから大丈夫だと思うけれど、変に思われてないだろうか……。ああナシャかわいいな。俺、もうどうしたらいいんだろう……)


「……はぁ」

 油断すると溢れそうになる想いを抑えつつ、なんとか顔の熱を引かせたルイリーは、五分ほどしてナシャの元へ戻った。

 そのころにはナシャの方も平常心を取り戻したらしく、無邪気にねこたちを撫でて遊んでいる。

 その姿も愛おしく思いながら声を掛けたルイリーは、ナシャとともにティーセットが準備されている東屋に向かった。



「……そういえば、ナシャ。仮面舞踏会は商談でジェニーが馬鹿しなきゃ行けるんだよね?」

 温室を出て一番近くにある東屋に着くと、そこにはすでに焼きたてのスコーンやクッキーなど、お茶の準備が整っていた。紅茶もちょうどいい温度でポットに準備されているところを見るに、使用人たちがタイミングをしっかり見計らっていたようだ。

 使用人が傍に居ると落ち着かないルイリーの性格を知る彼らの姿はすでにないが、流石、長年この家に仕えているだけはある。

 そんなことを思いながら、お茶とお菓子を堪能していたナシャは、向かいに座って紅茶を飲んでいたルイリーの声に顔を上げた。頬杖をついてこちらを見つめるルイリーは、なんだかいつもより真剣な顔をしているような、気がしなくもない。

「ええ。せっかく王室からご招待頂いたんだし、一応そのつもりよ」

「そうか。……よし」

 微妙な違和を感じながら答えると、ルイリーは何かを思いついたようにニッと笑った。そして、首をかしげたままクッキーに手を伸ばすナシャに宣言する。


「じゃあ、その日は一緒に行こう」

「えっ」

「この前のお茶会のときは、ご令嬢方が絡んできたせいで、ジェニーに俺たちの仲を見せつけられなかっただろう? だから今回こそ、見せつけてジェニーの怒る様を見たい! それとついでにご令嬢方にも見せつけて、また絡まれるのを阻止作戦。ね?」

「うーん。まぁ、ご令嬢方の件は一理あるような……。というか、ルイリーも参加するの?」

 意外な宣言に、思わずクッキーを取り落としそうになったナシャは、慌てて拾い上げると、少し考えた後で気になったように尋ねた。

 前にも言った気もするが、自宅での開催時以外、ルイリーが人の集まる場所に出てくるのは、珍しい……。また、アドフォード侯爵に頼まれでもしたのだろうか?

「あぁ…乗り気は全っっっ然しないんだけど、王室もしくは公爵家から招待されたときは、なるべく参加してほしいってこの間父上に言われてさ……。はぁ……。だから、行こうと思うんだけど、せめて楽しくなるようなことを何かしないと、身が持たない……」

「それで、私たちの婚約者ぶりを見せつけて、ご令嬢方をかわしつつ怒る兄様を見たい、と。仮面舞踏会なのに兄様気付くかし……あ、ルイリーのことはすぐ気付くわよね。その格好じゃ、仮面着けたところでバレバレだもの」

 げんなりした様子で言うルイリーの心情を察したような苦笑を見せたナシャは、彼の目論見を整理した後で、少し悩むそぶりを見せた。


 文字通り仮面舞踏会で仮面は必須。基本的に相手を本名で呼ぶこともしないし、見せつけたところで気付くだろうか、と思ってしまったのだ。

 だが、仮面なんて着けようが着けまいが、ぼさぼさの長い髪にだらしない格好のルイリーでは、すぐに気付かれるだろうとの結論に至ったナシャは、納得したように頷いた。

 すると、その一方で彼女の言葉に引っ掛かりを覚えたルイリーは首をかしげると、

「え? 仮面なんて着けてても顔見れば大体誰だか分かるだろう? それともジェニーは、目元が隠れただけで誰か分からなくなるのか……?」

「うーん。私もそんなに見破るのは得意じゃない方だけど、兄様はそういうの全然ダメなのよね。よく一緒にいるご友人でさえ、仮面付けた途端、誰か分からなくなって混乱してたもの」

 ルイリーの問いかけに、ナシャは少し間を開けた後で、困ったように言った。仮面舞踏会には何度も参加したことがあるものの、その度に旧知の人間ですら誰だか分からなくなって悩む兄のポンコツぶりを思い出したようだ。

 すると、ナシャの呆れを含んだ回答に、ルイリーは実に楽しげに笑った。


「フ…あはははっ。そうなのか……! フフ…よし、いいこと思いついたぞ」

「……」

「ナシャ。当日は俺もテールコートで行く。そして髪も梳かす。そうすればジェニーは俺だって気付かないかもしれないってことでしょう? その状況でジェニーをからかうのも楽しいかもしれない……!」

 悪戯を思いついた顔でにやにや笑うルイリーに、嫌な予感を募らせていたナシャは、彼の説明を聞くと小さく肩をすくめた。そして、よくそんなこと思いつくわね…と、いっそ感心しつつ口を開く。

「はいはい。じゃあ当日は整えるの手伝ってあげるから、仮面とかちゃんと用意しておいてよ」

「うん。これで少しは楽しめるね」

 そう言ってルイリーは、今からジェニーの反応を楽しみにしたように笑みを深くした。

 本当にこの人は、好奇心の使い方を間違っているんじゃないだろうか、なんて思わなくもないが、今さら指摘をする気なんてないナシャは、いつものように受け流すと、紅茶のカップを手にした。そして、髪の隙間からわくわく輝く彼のエメラルドグリーンの瞳を見つめ、ひとりごちる。


(ルイリーが整えて行ったら、またご令嬢方がきゃあきゃあ言うわね。ルイリーはそういうの苦手だから嫌がりそうだけど、今さら水を差すのもどうかと思うし、黙っておこ……)


 仮面舞踏会に一抹の不安を抱えつつ目を伏せたナシャは、お茶とお菓子の堪能に戻った。

 もちろんこれが、純粋にナシャと一緒に仮面舞踏会に行きたいルイリーの、ジェニーをダシにしたお誘い作戦だったなんて知る由もなく……。

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