第6話 ナシャの意識

 ナシャとルイリーが婚約話を打ち明けてから三ヶ月が経った。


 ジェニーとルイリーによる婚約承認を賭けた二十番勝負は三戦目以降も順調に進み、二人はカードゲーム、チェス、ワイン銘柄当て、テニス…など、多種多様な種目で勝負を続けていた。

 いずれの対決も、妹の婚約を認めたくないジェニーは抜かることなく仕込み(イカサマ)を行い、絶対的な自信を持ってルイリーを迎え撃っていたのだが、天性の才能か、運か、ルイリーは勝ち続け、現在彼の十一連勝となっている。


「ナシャ、そろそろルイリーくんとの結婚式の話を先方と進めようと思うんだが……」

「え」

 そんなある日の朝食時。

 ナシャは父であるハリントン伯爵から突然、驚きの話を聞かされていた。

 丸い顔に人のよさそうな笑顔を浮かべた伯爵は、もちろん、二人の婚約がただの利害一致だということも、破談を目論んだジェニーが勝負を挑んでいることも知らない。

 だからこそ、当たり前のようにそんな話を出したのだろうが、ナシャも、ともに朝食を取っていたジェニーも、正直かなり引きつった顔で父の提案を聞いている。


「式場のこととか、ドレスのこととかいろいろあるから、すぐに、というわけにはいかないけれど、そろそろ日取りだけでも決めたいなと思ってね」

「え、あはは、そ…そうですね。お父様」

 勝手に嘘を打ち明けるわけにもいかないナシャは、父の朗らかな笑みを見つめ返すと、合わせるように苦笑を返した。

 正直、こんなに長く彼との利害の一致婚約が続くとは思っていなかったせいか、結婚式だなんて全然頭になかったのだが、そんなことを言うわけにはいかない。

(ど、どうしよう……。これは絶対にまずい展開……)

「お待ちください!」

 すると、父の話に朝食のパンを取り落として絶句していたジェニーは、妹が苦笑ながらも肯定したことで我に返ったのか、はっと目を見開くと、テーブルを叩いて立ち上がった。

 突然出た大きな音に、ナシャも伯爵も、周囲にいた使用人たちも目を丸くしたが、彼はそんなことを気にする余裕もなく、懸命に喋り出す。


「駄目ですよ、父上。僕はまだこの婚約を認めていません! 彼だって、家族に認められるまで結婚はしないと言っていましたし、ま、まだそんな話は早すぎます!」

 兄から出たのは想定通りの否定発言だった。

 相変わらず代わり映えのない姿勢に、ナシャはため息を吐くと、聞き飽きた様子でしれっと朝食を続けたが、一方のハリントン伯爵は、困惑した様子だ。

「しかしだな、ジェニー。アドフォード侯爵との話もあるし、私は早くナシャに結婚して幸せになってもらいたいのだ」

「それは…否定しませんが! ほら、その……婚約者同士という短い期間をもう少し、楽しませてあげるのも一興ではありませんか!」

 困った顔で言う当たり前の親心に押されつつ、思いついた理由をでまかせる。父の発言が至極真っ当であることは分かっていたけれど、それでもルイリーとの結婚だけは、他の相手以上にどうしても許容できなかったのだ。

「ふむ…だからジェニーは自分の婚約者と会うのを三年も引き伸ばしとるのか……?」

「エ」


 すると、息子の発言に、伯爵はふと顎を引いた後で、思案するように呟いた。

 もちろん伯爵は、彼に悪意があるなんて微塵も疑っておらず、今の言葉が取って付けたものだと言うことにも気付いていない。

 だが、父の思わぬ飛び火発言に、ジェニーは虚を突かれた顔をすると、一瞬押し黙った。しかし、すぐに父を言いくるめるいい機会だと思ったのか、彼は嫌に熱のこもった口調になると、

「あ…まぁ、そんなところです。いずれ結婚するからこそ、婚約のうちにちゃんと互いを知っておかないと。結婚してからでは取り返しがつかないですからね。だからこそ毎週律義に文通をしてるわけで……でも、一旦僕のことはいいんです。とにかく、時間は大事ですよ、父上」

「ふーむ。だが、お前とイヴァナ嬢と違い、ナシャとルイリーくんは子供のころからの友人だし、今さらそんなに時間は……」

「いえ! 友人と恋人では全然違いますよ! たぶん! ナシャにはちゃんと幸せになってほしいからこそ、もう少し、時間を設けるべきだと思います!」

「むむー、それが今どきの子たちの考えなのか……。一昔前までは、初めて顔を合わせた日に結婚なんてことも……むむ……しかし、ナシャのためなら………」


 押しまくるジェニーの言葉についに根負けしたのか、ハリントン伯爵は唸り声をあげると黙り込んだ。

 今の説明に同意しないこともないのだが、アドフォード侯爵と話の約束はもう取り付けてあるし、当事者の二人が同意しているなら(本当は同意なんて微塵もないが)もう式は挙げても問題ないのではという気もする。

 結果、答えに迷った伯爵は、しばらく間を開けた後で頷くと、こう結論を出した。

「よし、では一先ず子供達には内緒で、アドフォード侯爵と話をしてこよう。ジェニーを納得させるのはその後ということで……」

「……聞こえてますよ、父上」



「――ということがあったのよ。どうしましょう、ルイリー」

「ふーん。実は俺も、その件で話をしようときみを呼んだんだよね」

 翌日。ルイリーから『今日の十時、部屋で待ってる』と書かれただけの手紙を受け取ったナシャは、アドフォード侯爵邸に来ていた。

 だが、自分で時間を指定しておきながら、ルイリーは珍しく仕事中だったらしく、彼は今、自室で紙に囲まれたままナシャと会話を続けている。

「俺も昨日、父上から同じような話をされてね。ちょっと、勝負に時間をかけすぎたようだね」

「うん。まぁ、うちが一ヶ月くらいバタバタしてたせいもあったけど、お父様はすっかり乗り気で……というか、仕事が忙しいなら邪魔したくないし、また今度でもいいわよ?」


 ハリントン家でのやり取りをざっと説明し終えたナシャは、話を聞きながらもひっきりなしに手を動かすルイリーを見遣ると、少しだけ心配そうに言った。

 普段彼が仕事をする姿なんて滅多に見ないせいもあるが、真面目に机に向かうルイリーを見るのは、なんだか変な気分だった。

 すると、ナシャの気遣いに顔を上げた彼は、困ったように肩をすくめると、

「あー。大丈夫、もう少しで区切りつくから……。今朝になって父上がどっさり持ってきたんだよ、これ。決算だか何だか知らないけど、なんで俺が財務省の手伝いなんて……」

「だってあなた、名目上は財務省の(在宅)職員じゃない。基本お家で植物の研究ばっかりしてるあなたに社会性をっていう親心よ。じゃあ私、あっちでねこたちと遊んでるから、終わったら声掛けて」

「うー」


 ぶつぶつと文句を言いながら、すごいスピードで仕事を片付けていくルイリーに告げたナシャは、近くにいたロシアンブルーのイーリスを抱き上げると、ねこたちがくつろぐソファに向かって歩き出した。

 仮面舞踏会の日、彼にこのねこの名前を付けられたせいか、あの日以来、ナシャの中でイーリスはちょっと気にかかる存在となっているようだ。

「にゃあー」

 そんなことはさておき、ナシャがソファに近付くと、くつろいでいたねこたちが一斉に顔を上げた。

 ルイリーの飼うねこはロシアンブルーのイーリスを始め、黒猫のルミア、マンチカンのジニー、ペルシアのチコリー、ノルウェージャンフォレストキャットのネネリと種類も大きさもばらばらだった。

 ただ、五匹とも飼い主にはよく懐いているようで、ルイリーがどこかへ移動するたび五匹揃ってついて回る姿はとても可愛らしい。

 ナシャにもある程度懐いてくれているようで、友好的なねこたちに笑みを見せた彼女は、イーリスをソファに降ろすと、それぞれのねこたちを撫で始めた。


「――……はー、終わったあー。よし、もうやめ!」

 しばらくして。

 机にかじりついたままバリバリと仕事をこなしていたルイリーは、最後の一枚を処理し終えると、椅子の背に大きくもたれかかったまま、盛大に息を吐いた。

 今回の仕事も相当億劫だったらしく、上を向いたまま脱力する彼の表情は険しい。

 だが、いつだって興味を持ったことしかしようとしないルイリーも、家族に頼まれたことにだけは弱いらしく、文句を言いながらも完璧に仕事を終わらせている。

 そんな姿を珍しく思いながら彼に近付いたナシャは、笑みを見せると労うように声を掛けた。

「ふふ、お疲れさま。ルイリー」

「うーん。疲れた。ねぇ、ナシャ、続きは庭に出て話そうか。今、コスモスがとても綺麗に咲いてるんだ。散歩しながらの方が楽しいし」

 すると、ナシャの言葉に頷いたルイリーは、気持ちを切り替えるように提案した。

 今日は天気もいいし、涼しげな秋風が吹く庭に出るのも悪くない。

 そう思って一度窓の外を見遣ったナシャは、いつの間にかソファを離れて扉の前でちょこんと整列するねこたちに気付くと、笑って言った。

「いいわよ。あなたのねこたちも外に出たがってるみたいだし」


 ……と、言うことで庭に出た二人は、冷たさを帯びた秋風に髪をなびかせながら、ルイリーの言うコスモス畑を目指して歩いていた。

 もちろん、傍に使用人たちの姿はなく、話を聞かれる心配はない。

 それを確認したナシャは、ぼさぼさの髪を風のせいでさらにぼさぼさにするルイリーを見上げると言った。

「……それで、どうするつもり?」

 もちろん話の内容は、結婚式の日取りを決めたいなんて言い出した親への対応だ。

「そうだね。ジェニーのことだからうまく伯爵を丸め込むだろうとは思うけど、うちの両親も多少なだめておかないと、勝負が終わる前にいろいろ決まってそうだよね、フフ」

「笑い事じゃないわよ、まったく……」

 親から結婚式の話が出た以上、悠長にしている時間はないと焦りを滲ませるナシャの一方、秘かに本気で彼女を好きになってしまったルイリーは、あまり気にした様子もない。

 その温度差に、彼がちゃんと考えていないのだろうと思ったナシャは困ったように言ったが、目の前に広がるコスモス畑に着いた途端、ルイリーの興味はそちらに移ってしまった。薄紫やピンク、白など、鮮やかに咲くコスモスを見つめ、笑顔でお披露目する。


「あ、ほら、ここだよ、ナシャ。綺麗でしょう、コスモス」

「……ん? わ、ほんとね。とっても素敵よ。このお庭はルイリーの趣味のせいもあるけど、ほんと、年中いろんな花が咲いてるわよね」

 ルイリーにつられてコスモスが咲く花壇に目を移したナシャは、つい、彼に乗せられるように意識をそちらに向けてしまった。

 秋風にそよぐコスモスたちは今がちょうど見頃で、確かに美しい。

 すると、感嘆したナシャの感想に満足げな笑みを見せたルイリーは、ここでふと気になったように尋ねた。

「ナシャはどの季節の庭が好き?」

「えっ、そうね……。どの時期も素敵だと思うけど…夏かな。トルコギキョウとユリがとっても綺麗だし、向日葵やダリアも好きよ」

「なるほど。俺と庭師が頑張ってる甲斐あるね」

「そうね。……って、そうじゃなくて、とにかく今は結婚の話を……」


 夏に見たアドフォード家の庭を思い出すように話をしていたナシャは、ここですっかり話が別方向に進んでいることを思い出すと、慌てて軌道修正を行った。

 そして、かぶりを振って頭から庭園の風景を追い出しながら、彼の意見を聞こうと試みる。

 すると、懸命なナシャをどこかおかしく思いながら笑ったルイリーは、冗談とも本気ともとれる口調で言った。

「フフ、ごめんごめん。とりあえず、俺の方でも両親の説得を試みてみるよ。それでもしだめなら……しょうがないから結婚する?」

「! ……そういう言葉、冗談でもダメよ」

 小首をかしげながら言うルイリーの思わぬ言葉に、ナシャは目を丸くすると一瞬間を開けて彼をたしなめた。

 たとえ冗談だと分かっていても、結婚の提案だなんて心臓に悪い。

 だが、相変わらず慣れないせいで顔を赤くするナシャに気付いたルイリーは、わざとからかうように笑った。

「フフ、照れた。かわいいよ、ナシャ」

「……っ!」



「ねぇ、ナシャ。ルイリー様との結婚式はいつにするの?」

 結局、ルイリーとの話し合いはたいして進展することなく終わり、さらに数日後。

 ハリントン伯爵家で開催された夜会の席で、ナシャは友人のアレアに突然、そんな問いかけをされていた。

 傍にはロティサの姿もあり、今日は二人で夜会を楽しんでいたようだ。


「えっ、な……いきなり、どうしたの」

 結婚の話は互いの家族しか知らないはずなのに、どうしてアレアが知っているのだろうと、冷や汗を浮かべたまま聞き返す。

 すると、アレアはとっておきの話をするような、飛び切りの笑顔で答えた。

「うふふ、実は今日、お店でナシャのお父様とうちの父がウエディングドレスの話をしているのを聞いちゃって~。もう、とってもわくわくしてるのよね~」

「あら素敵ねぇ。ナシャはどんなドレスが似合うかしら。アレアはフリルたっぷりのかわいいウエディングドレスだったけれど……」

「ナシャはリボンが似合うんじゃない? いつも着けてるし。あと、レースも似合いそう!」

「そうねぇ。ルイリー様と並んだ姿を見る日が楽しみだわ」

「うん! ルイリー様もちゃんとしたお姿なら婚礼衣装も似合うでしょうし、楽しみ!」

「……」


 一気に語ったかと思えば当人を置き去りに話を展開させるアレアとロティサを見つめたまま、ナシャはなんだか申し訳なさそうな顔で二人の話を聞いていた。

 今までは親さえなだめておけば済む出来事だと思っていたけれど、よく考えればアレアの父はハリントン伯爵とともにいくつか店を経営しており、勝手に話を進めようとした伯爵の口から、娘のウエディングドレスについての話が出てしまったことが容易に想像できる。そして、その場に偶然アレアが居合わせてしまったことも……。

「ナシャ、日取りが決まったら是非教えてくださいな」

「……う、うん。そうする」

「絶対だよ! 盛大にお祝いするから!」

「あ、ありがとね、二人とも。パーティ楽しんでて。私、ちょっとお父様にご用事があるから」

 すでにお祝いムードを見せる彼女たちに精一杯の笑みを返したナシャは、思わず泣きそうになるのを我慢すると、そう言って二人の傍を離れた。

 本当は父に用事なんてなかったけれど、あのまま彼女たちの傍にいるのは辛かったのだ。


(……はぁ。アレアもロティサも、私がルイリーと本当に結婚すると思っているのよね……。あんなに嬉しそうで…嘘だって知られたらどうなっちゃうのかな……)

 あてもなく会場を歩きながら、心の中で呟く。

(今までちゃんと考えてこなかったけれど、私は、軽い気持ちでとんでもないことをしてしまったのかもしれないわ。お父様やアレア達…婚約を喜んでくれたみんなを…私は、最後に裏切ることになる。いろんな人を騙した挙句、悲しませることになるんだわ……)

 思い悩むように顔をしかめたナシャは、夜会を楽しむ人々の姿なんて目に入った様子もなく会場の端まで移動すると、思い当たった事実に本当に泣きそうになった。

 幸い、会場の端にいる彼女を気に留める人は今のところいなかったが、ナシャは夜会の最中だなんてもうすっかり忘れた様子だ。

(どうして、もっと早く気付けなかったんだろう。婚約の話をしてからもう三ヶ月以上経つのよ。誰のほんとの気持ちなんて関係なく、世間的に婚約関係にある以上、結婚を楽しみにしてくれる人も、いるのよね……。そんな発想なかった…私の馬鹿……)


 あの日、ルイリーの好奇心の赴くまま婚約を受け入れようと思ったのは、お見合いに疲れた心を癒したい、そんな軽い気持ちからだった。

 人に興味のない彼が、自分を含め、誰かを特別に思うのはありえないし、兄との勝負さえ済めば婚約は簡単に解消できる。だからこそ、ルイリーが兄との勝負を楽しんでいるうちに心を癒やして、次に向けた準備を整えようと、あのときの自分は思っていた。

 だけど、そんな理由で婚約したと触れ回るのは、やっぱり、いけないことだったのだ……。


(……決めたわ)


 あの日の決断を今さら後悔しながら、ナシャは浮かんできた涙を強引に拭うと、しばらくして覚悟を決めた。

 そして、ジェニーに声を掛けられてどこかへ行ったルイリーを探すために、もう一度会場を歩き出す。

(これ以上、変に誰かを期待させる前に早く、この関係を解消しよう。嘘だって知られて、悲しませることになったとしても、これ以上婚約を続けることは、出来ないわ)


(……ルイリーと兄様、どこに行ったのかな……)

「こんばんは、ナシャさん」

「……!」

 新たな覚悟を胸にルイリーを探して歩いていると、ナシャは、会場の中ほどまで進んだところで、不意に一人の青年に声を掛けられた。

 明るい色の茶髪に釣り目がちの瞳をした背の高い青年は、ワイングラスを片手に、朗らかな笑みを浮かべている。

「……フィレスさん。お久しぶりです」

「一人でいるなんて珍しいね。いつも一緒にいるお友達は来ていないのかな?」

「いえ、さっきまで一緒だったんですけど、少し用事があって……。それよりフィレスさん、先日は兄が本当にご無礼を……。申し訳ありませんでした」

 彼の声掛けに、一旦考え事を打ち切ったナシャは、挨拶の後で申し訳なさそうに謝罪した。

 実を言うと、彼――フィレスは伯爵家の次男で、ナシャの十八番目のお見合い相手だったのだ。


「いや、いいんだ。どんな形であれ負けてしまった僕が悪いから」

「すいません……」

 兄との理不尽な対決以来の再会に、彼女はなんとなく気まずそうな顔のまま何度も謝った。お見合いだけでなく、わざわざ時間を取って理不尽な対決まで受けてくれた彼に対する申し訳なさは大きいようだ。

 そんなナシャに、フィレスは屈託のない笑みを見せると、何でもないことのように言った。

「謝らないで、ナシャさんが悪いわけじゃないもの」

「はい……」

「ところで、聞いたところによると、今、アドフォード家のルイリー殿がきみの婚約者なんだってね。……つまりジェニーくんと例のあれ、進行中ってことかな?」


 すると、謝り続けていたナシャが顔を上げたところで、フィレスは少しだけ声を潜めると、続けざまにそう切り出してきた。

 正直、今婚約の話題をされるのはとても心苦しかったけれど、一先ず話を合わせることにしたナシャは、素直に頷くと言った。

「ええ一応…まだ決着がついてないので、そう言うことになってますね」

「……きみは、彼が相手で本当によかったのかい?」

「えっ?」

 少しだけ低めのトーンで話す彼女の答えをどうとったのか、フィレスは何かを確かめるように問いかけた。そして、驚いて目を丸くする彼女に、なおも続ける。

「確かに、ナシャさんとルイリー殿が一緒にいるところは昔からよく見かけていたけれど、どちらかと言えばきみが一方的に世話を焼いてるって印象だったから。少し、不思議に思って」

「そう…ですよね……」

「もちろん、きみがそれでいいなら全然構わないんだけれど、もし…もし彼との婚約に納得しきれてないなら、僕から一つ、提案してもいいかな?」

「提案、ですか?」


 彼の的確な印象に、さらにトーンを落として言うナシャを正面から見つめたフィレスは、どこか覚悟を決めた顔で話し出した。

「うん。きみにその気があるなら、来年僕の海外移住についてくる?」

「え」

「実は僕、今展開しているブランドを海外進出させるため、来年の春先にでも海外へ引っ越そうと考えているんだ。だから、きみへの提案はつまり、駆け落ちってやつ。海外に行ってしまえば、いくらジェニーくんでも手出しはできないだろうし、僕はきみを振り回して困らせるようなことはしないよ?」

 フィレスの思わぬ提案に、ナシャは驚いた顔で目を見開いていた。

 確かに彼は、お見合いした三十五人の中じゃかなり好意的で、兄との理不尽な対決も積極的に受けてくれていた印象がある。また、対決に負けて断らざるを得なくなったときも、本当にしぶしぶと言った様子は確かにあった。が……。

 まさかそこまで想われていたなんて……。


「……ありがとうございます、フィレスさん」

 予想外ではあるが好意的な彼の提案に、ナシャは笑みを見せると礼を告げた。

 誰かに想われているというのはやっぱり嬉しくて、同時に照れる思いだ。でも。

「でも、私…兄様はともかく、お父様まで困らせることはできません。だから……」

「ふふ、そうだよね。まぁ、何かの保険だとでも思っておいてよ。じゃあ僕はこれで」

「はい…ありがとうございます」

 冗談なのか本気なのか、食い下がるようにそんな提案をした彼は、笑みを見せるとナシャの傍を離れていった。


(……いい人だな、フィレスさんは)

 人に紛れて見えなくなっていく彼を見送ったナシャは、そのまましばらく立ち止まると、心の中でひとりごちた。

(ああいう人が本当の婚約者だったなら、こんな風に思い悩むことも、なかったんだろうな……)

「誰、今の」

「ひゃあ!」

 うっかりそんなことを思いながら、遠くを見つめていたナシャは、突然背後から聞こえてきた声に目を見開いて飛び上がった。

 慌てて振り返ると、そこにはいつの間にか、兄とどこかへ行っていたはずのルイリーがいて、彼はちょっとばかり不機嫌そうな顔でナシャを見下ろしている。

「ル、ルイリー! 脅かさないでよ、もう……」

「ねぇ、誰? 今のやつ」

「え、あー、えっと、私の知り合いで、バーロン伯爵家のフィレスさんよ。ついでに私の、んーっと十七…ん? 十八、番目のお見合い相手」


 自分のほぼ真後ろに立って、同じようにフィレスが去って行った方を見遣るルイリーに、ナシャは隠すことなく、そう説明した。

 すると、彼女の回答に、さらに不機嫌そうな顔を見せたルイリーは、

「じゃあ、ジェニーと勝負して負けたやつってことでしょう? なんでいるの?」

「なんでって…。まぁ、お見合いの件はともかく、お仕事の方で付き合いのある方だから、お父様がご招待したんじゃないかしら。私も彼と会うのは、彼が兄様と理不尽な勝負をした日以来だったけれど……」

「ふぅん」

「彼、自分のブランドをいくつか持っていて、来年の春には海外進出するんですって。私と二つしか違わないのにとっても進歩的で……」

「ナシャ、きみは俺の婚約者だ。他の男と話したり、褒めたりするのはよしてほしいな」

「え」

 話していくうちにフィレスを褒めるような口調になっていくナシャに、ルイリーは眉根に皺を寄せると、まるで嫉妬したように告げた。

 初めて聞く彼の声音に、ナシャは思わず耳を疑ったが、不機嫌そうな顔のまま彼女を見下ろすルイリーの瞳は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。

 だが、本気なら本気でなんと言葉を返すべきか困ったように沈黙したナシャは、しばらくして彼を見上げたまま呟いた。


「……な、なんかルイリー、ムキになってる? あなたがそんな表情するなんて、珍しいというか……」

「……!」

 ナシャの戸惑った顔にふと目を瞬いたルイリーは、内心「しまった」と思いながら、慌てて本音を誤魔化す理由を考えた。心の中では自分の本音を知らない彼女に何言ってるんだ、と秘かな焦りが滲んでいたが、そんなことを知られるわけにはいかない。

「……いや。だって、あれだよ、ほら! 俺たちが親密にしてないと、ジェニーの怒りが増幅しないからさ。あいつをからかうためには常日頃からの姿勢が大事というか……」

「……」

「だから、そう、言っただけ」

 そう言ってルイリーは、無理に弾んだ声音で失言を取り繕った。

 いつものように、ジェニーをダシにして理由を誤魔化せば、ナシャは呆れながらも納得して、笑ってくれると思ったのだ。

 だが、彼の答えにナシャは小さく肩を落とすと、不意にルイリーから視線を逸らした。そして、沈んだ顔のまま悲しげに呟く。

「そう、ね……。そうやって、あなたの頭には兄様をからかうことしかないのね……」

「……?」


「ねぇ、ルイリー。話があるの」

 分かってはいたつもりだったけれど、彼がナシャとの婚約を続ける理由が兄をからかうことであると改めて認識したナシャは、ルイリーの不思議顔を見つめると、そう切り出した。

 やっぱりこれ以上、この関係を続けるのはやめにしたかった。


 ……しかし。

「あっ。ナシャ~、ルイリー様とご一緒だったのね」

 話を切り出そうと移動を始めた途端、声を掛けてきたのは、さっきまで一緒だったアレアとロティサだ。

 二人はハリントン伯爵に用事があると言って離れて行ったっきり、なかなか戻ってこないナシャを探していたらしく、駆け足でこちらに歩み寄ってくる。

「……! アレア、ロティサ……」

「ここにいたのね。もう、ナシャが戻ってくるまでお菓子食べるの我慢してたのに、全然戻ってこないんだもん~」

「お父様へのご用事は済みまして? ナシャ」

「う、うん。まぁね」

 屈託のない彼女たちの笑みを見返したナシャは、曖昧な顔をすると頷いた。本当はこれから本題に入るところなのだが、そんなことを言い出せる雰囲気にはない。

 すると、彼女の答えにパッと笑みを見せたアレアは、ナシャの手を引きながら言った。


「じゃあ、行きましょう? 向こうのケーキ、とっても美味しそうだったの!」

「う、ん……」

「ルイリー様も一緒にいかがです? 二人のお話し、ぜひお聞きしたいですわ」

 ナシャの手をグイグイ引きながら、お菓子の置かれたテーブルに移動し始めるアレアとナシャを微笑ましそうに見ていたロティサは、黙ったまま彼女たちを見送るルイリーに気付くと、遠慮がちに切り出した。

 彼女だけは、婚約者同士の会話に割って入ったことを申し訳なく思っているのかもしれない。


「あー、いいですよ。ナシャのご友人方にならお話ししましょう」

 そんなロティサの提案に、ルイリーは深刻な顔で何かを言い出そうとしたナシャを見遣ると、少しだけ心配そうに頷いた。彼女が何を言いたかったのかは分からないが、今は、傍にいることを優先したい。なんとなく、そう思ったのだ。

「ルイリー様も一緒だって。ほら、早く行きましょう。ナシャ」

「う、うん……」


 ――結局、この日、ナシャは婚約解消の話を切り出せないまま終わり、二人の名目上の婚約は続く……。

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