第7話 覚悟と想い

 ルイリーとの婚約を解消したい。

 そう決めて以来、ナシャは彼が兄との勝負で呼び出されるたび、その話を切り出そうと、模索の日々を送っていた。

 勝負の合間、勝負の後、今までならいくらでも話す機会が作れた。

 だから、すぐにでも話しをして、この関係を終わりにできると思っていた、のに……。


(はぁ……)


 あれから二週間。

 ナシャの覚悟は、他でもない兄によって挫かれ続けていた。

 結婚式の話が出てからというもの、ジェニーは二人の仲がこれ以上進展しないよう妨害するため、これまで以上に度を越えたシスコンへと進化していたのだ。

 その証拠に、ナシャがどこへ行こうとも兄の監視の目がつきまとい、勝負以外でルイリーとの密会を試みても、絶対に嗅ぎつけて全力で邪魔をしてくる。

 そんな兄に、ナシャははじめこそ本当のことを話してしまおうかとも思ったのだが、仮にも妹の婚約者を名乗った男の目的が、「自分の馬鹿面を見ること」だったなんて知られたら、怒りの矛先が、ルイリーだけでなくアドフォード侯爵にも向きかねない。

 そう思うと本当のことも言えず、婚約解消の話もできないまま、時間だけが過ぎていく。


(もう、この関係をやめにしたい。伝えたいのはたったそれだけなのに……)



 募る焦りと不安と申し訳なさを抱え、さらに数日。

 ナシャは今日、招待されるがままアドフォード家のお茶会に来ていた。

 今日は十一月の寒さに負けて風邪を引いた兄がいないこともあり、ルイリーと二人で話をするチャンスだ。結局、二十番勝負の十五戦目が終わってなお、話を切り出せないままの状況に耐えかねていたナシャは、今日こそ婚約者の肩書を返上すべく、会場である大広間に足を踏み入れた。

 の、だが……。


「……はぁ」

 すぐにでも彼を捕まえて、早々に決着を付けようと試みたナシャの思惑は、招待された多くのご令嬢方によって打ち砕かれてしまった。

 アドフォード侯爵の挨拶が終わった途端、ルイリーを囲むようにして集まった彼女たちは、相変わらず歯牙しがにもかけない様子の彼に構うことなく、一方的なアプローチを続けている。

「あーあ…。ルイリーったらなんで今日に限って、ご令嬢方に捕まってるのよ……」

 いつまで経っても彼へのアプローチをやめようとしないご令嬢方の折れない精神に、ある種尊敬の念を抱きつつ、ナシャはどこか恨みがましい口調で呟いた。

 先日からずっとそうだが、婚約解消の話を試みようとするたび誰かに妨害されると、まるで、見えない何かが、自分たちの婚約解消を邪魔しているような気さえしてしまう。

 もちろん、そんなわけはないのだが、妙な勘繰りを払拭できないまま紅茶を飲んでいたナシャは、しばらくして不機嫌顔のルイリーがこちらに歩いてくるのに気付いて顔を上げた。


「……何なんだろうね、彼女たちは」

 顔を合わせた途端、ルイリーは隠すことなく表情を歪め、文句のように言った。

「毎度毎度毎度、寄って集っては気持ち悪い視線と口調でぎゃあぎゃあ言ってさ。夏前まではこんなことなかったのに、なんで今さらこんな……。あの媚びた感じ、ほんとに気持ち悪い」

「……」

 お茶会開始早々一気にご令嬢方に囲まれたせいか、ルイリーは近年稀にみる超不機嫌だった。

 ぼさぼさの髪をぐしゃぐしゃに掻きあげて、険しい瞳でご令嬢方を睨みつけるルイリーを、ナシャは珍しいものを見るように見つめていたが、やがて、仕方なさげにため息を吐いた彼女は、同情したように呟いた。

 本当は一刻も早く婚約解消の話をしたかったのだが、まずは彼を平常心に戻さないことには始まらないと思ったらしい。

「うーん。あなたはある種の潔癖だから、媚びや羨望や嫉妬みたいな人間の感情が苦手なのよね……。でもこればかりは仕方ないというか……」

 ルイリーとご令嬢方、どちらの心情も察したように言ったナシャは、一度言葉を切ると、不機嫌顔のルイリーをじーっと見上げた。

 そして、絶対に自覚していないであろう事実を、困ったように打ち明ける。


「あなたは美人なのよ、ルイリー。今まではその長い髪が覆い隠していたけれど、夏のあの日、ルイリーがちゃんとした姿を見せたことで、みんなあなたが美人だって気付いて、アピールしてるんだと思うわ。綺麗なあなたに気に入られたいって、そう思ってね」

 ナシャの言う事実に、ルイリーはさらに嫌そうな顔をすると、もう一度ご令嬢方を睨みつけた。性格も何も知らないくせに、見た目だけで判断されていたことがよほど嫌だったようだ。

「……じゃあナシャは、俺が美人だって知っていたから、ずっと傍にいたの?」

 すると、ご令嬢方の思考に心底辟易しながら不機嫌を続けていたルイリーは、しばらくしてふと気になったように尋ねた。

 出逢ってこの方、ナシャから媚びるような何かを感じたことはないが、彼女がルイリーを美人だと言ったことに、少しばかり引っ掛かりを覚えたようだ。


「え、そんなわけないじゃない」

 一方、思いがけない彼の問いかけに、ナシャは目を瞬いた後で、当たり前のように言った。

「私は、見た目なんてそこまで重要だとは思わないもの。それに、もし見た目が大事なら、あなたのそのだらしない格好、毎回口酸っぱく指摘してたと思うけど?」

「……そうか。確かに。じゃあ、ナシャはどうして傍にいてくれたんだい?」

 一切頓着した様子もなく言うナシャの答えに、少しだけ機嫌を直したルイリーは、続けざまにそう尋ねた。

 ルイリーにはナシャ以外に友人はいないし、そもそもそんなものが必要だと思ったこともない。

 誰に対しても我関せずで、ただ時折、好奇心のまま悪戯を思いついては心を満たす。

 ずっとそんな生き方をしてきた自分は、正直、友達になりたいなんて思われるような人間ではないと思う。

 それなのに、どうして彼女は十年以上も傍にいてくれたのだろうか?

「え。そ、れは……」

「それは?」

「……気になるの?」

「気になる。そう言う話は一度もしたことなかったもの。教えてよ、ナシャ」

 少しずつ機嫌を回復させて、ついには好奇心を表に出してきたルイリーの見慣れた表情に、ナシャは答えを教えるべきか迷うように視線を彷徨わせた。


 彼と友達になろうと思ったきっかけをナシャはもちろん覚えていたが、結局、彼と交流を続けたことで、彼の好奇心を満たすための婚約を受け入れることになり、今、計り知れないほどの罪悪感に苛まれているのだと思うと、出逢ったあの日がすべての元凶のような気さえしてしまう。


「……教えない」

 だが、子供のころの思い出を嫌なものにしたくないと思ったナシャは、少し間を置くと、わざとらしくそっぽを向いて言った。途端、ルイリーが残念そうに駄々をこねたが、そんなものはお構いなしだ。

「ナシャのいじわる。理由を聞くくらいいいじゃないか」

「ダメ。あなたには教えないわ。それよりルイリー、話したいことがあるの」

「……?」

 頬を膨らましてブーブー言うルイリーを見上げたナシャは、彼の調子が戻ったことを確認すると、ついにそう切り出した。

 そして、不思議顔で首をかしげる彼を連れて会場抜け出し、人気のない場所で正面から向き合う。

 やけに深刻なナシャの表情に、ルイリーは少し戸惑っているようにも見えるが、今日こそきちんと婚約解消のことを話さなくてはと、焦る彼女の目には映らない。

 そんな彼女をじっと見つめるルイリーに、ナシャは前置きもなく言った。


「ルイリー。婚約のことだけど、もう……」

「あぁ! 坊ちゃま、こんなところにいらしたのですね!」

「……!」

 募る焦りに身を任せ、紡いだナシャの言葉は、不意に遠くから聞こえてきた溌溂はつらつとした女性の声にかき消されてしまった。

 こうも話を切り出そうとするたび、ことごとく誰かに妨害されると、ほんとに見えない何かが邪魔をしているのではないかと思えて、ナシャは珍しく本気で苛立ったように振り返る。

 ナシャにしては珍しい表情に、ルイリーは驚いて目を瞬いたが、同じように声の方に目をやった彼は、意外な人物の登場にさらに驚くと、目を丸くして言った。

「ミネルダじゃないか。どうしたんだ? 母上に何か……?」

 小走りで二人の傍までやってきたのは、ルイリーの母親の侍女をしている女性だった。

 母の傍に常に控えている侍女が自分を探しに来るなんて、何かあったのだろうか。そんな不安をかすかな抱きながら尋ねると、深い皺の刻まれた顔に優し気な雰囲気を浮かべた侍女は、静かに首を振りながら言った。


「いえ、奥様がお二人にお会いしたいとのことで、探しに参りました。お部屋にお越し頂けますでしょうか」

「母上が?」

「はい。今日は調子が良いのでぜひお話ししたいと」

 笑顔で告げる侍女の言葉に、ルイリーは一瞬迷ったようにナシャを盗み見た。

 先程、何かを切り出そうとしたナシャの表情はとても深刻で、そこから察するに、きっとなにか大事な話があるのだろうとは思った。けれど、身体が弱く、普段寝たきりでいることも多い母の願いを無下にもしたくない。

 どうするのが正解か迷ったように沈黙した後で、ルイリーはナシャを気遣いながら言った。

「……分かった。ナシャ、話は後ででもいいかな? ちゃんと聞くから」

「ええ……」



 結局、またしても婚約解消の話をできないまま、屋敷の二階の角にある部屋へと案内されたナシャは、嫌な予感を覚えながら、ルイリーとともに室内へと足を踏み入れた。

 すると、そこにはルイリーと同じ金の髪に薄いブラウンの瞳をした大人しやかな女性がいて、二人に向かって優し気な笑みを浮かべている。


「いらっしゃい、ルイリー。ナシャちゃん。わたくしのお願いを聞いてくれて嬉しいわ」

「四日ぶりですね、母上。お体の方はよろしいのですか」

 よく温まった暖炉の傍で、安楽椅子に腰かけて穏やかに微笑む母に近付いたルイリーは、彼女の言葉に頷くと、少しだけ心配そうに声を掛けた。

 ルイリーの母・マリスは生まれつき体が弱く、社交界に出てくることも滅多にないような女性だった。

 ルイリー自身も、母親の顔を見るのは数日ぶりだったらしく、元気な姿に対する安堵とかすかな不安が混ざったような表情をしている。

「ええ。今日は大分ね。だからどうしても二人に会いたくなってしまって。無理を言ってごめんなさいね」

「いえ、俺は別に……」

「ナシャちゃんと会うのは子供のころ以来かしら。すっかりかわいいお姉さんになっちゃって」

 大事な息子の気遣いに笑みを深くしたマリスは、ここで隣にいたナシャに声を掛けた。

 親子の会話に割って入るわけにもいかず黙り込んでいたナシャは、彼女の声掛けにそっと頭を下げると、今さらと思いつつ挨拶を述べる。


「ご無沙汰しております、マリス様。お元気そうで何よりです」

「ありがとう。あなたたちのおかげよ。あなたたちが幸せでいてくれるから、わたくしも嬉しくて、なんだか元気になれたの。これからもうちの子をよろしくね」

「え、ええ……」

 マリスの言葉は決して直接的ではなかったけれど、遠回しに婚約のことを言われているのだと察したナシャは、つい、ぎこちない調子で言葉を返してしまった。

 すると、彼女の微妙な表情をどうとったのか、マリスはそっと微笑んだ後で二人を見つめると、続けざまに自分の考えを正直に告げた。

「安心して、ナシャちゃん。わたくしは主人と違って結婚を焦るつもりはないの。二人の気持ちがきちんと合って、結婚を決意できるときがきたら、また教えて頂戴ね」

「あれ。そうなんですか、母上?」

 式場を決めたいだの日程を確定したいだのと焦る父とは違い、呑気に微笑む母に、意外な顔を見せたルイリーは、首をかしげると思わずナシャと顔を見合わせた。

 ジェニーの悪意はともかく、今まで結婚を急かそうとする相手にしか会ってこなかったせいか、母の考えがちょっと不思議に思えてしまう。

 そんな二人に、マリスは笑顔のまま頷くと念押しするように言った。


「そうよ。わたくしも主人と結婚するとき、とっても悩んだもの。だから、二人も無理に焦る必要はないわ」

「へぇ。そういう話は初めて聞きますね。そんなに父上はだめでしたか?」

 初めて聞く当時の話に、ルイリーは目を瞬くと、しれっと父親をだめ呼ばわりした。

 明らかに悩んだ原因を父のせいにする息子に、マリスは声に出して笑うと、

「ふふ、まぁルイリーったら。違うわ。その逆よ」

「逆?」

「ええ。わたくしも、主人とは幼馴染みで、あなたたちのようによく一緒にいる間柄だったわ。だけど、わたくしは生まれつき体が弱かったから、いつも彼に迷惑ばかり……。だから、結婚の申し出があったときも、わたくしなんかが侯爵夫人として務まるのか不安で、とっても悩んだのよ……」

 そう語るマリスは、どこか遠くを見つめると、懐かしそうに目を細めた。

 彼女の脳裏には今、二十年ほど前の侯爵との思い出が浮かんでいるのかもしれない。そんなことを思いながら彼女の様子を窺っていると、マリスはしばらくして、静かに続きを語りだした。


「だけど、彼はそんなものは関係ないって言って、わたくしを選んでくれた。そしてあなたが生まれて大きくなって、今こうして大切な人とともにいる。そういう姿を見ていると、これまでの選択は間違いじゃなかったんだって、とても幸せなのよ」

「母上……」

「だからね、二人とも無理に焦らず、じっくり自分の心を見つめみて。そうすれば、おのずとタイミングは見えてくるものよ。いつかあなたたちにも、そういうときが訪れるのを楽しみにしているわ」

 今すぐにじゃなくていい、でもいつか二人が結婚することを望んでいる。

 そう言って優し気に微笑んだマリスは、ルイリーとナシャを交互に見つめると、これ以上お茶会の邪魔をするといけないから、と言って二人の退出を許してくれた。

 そんな母にルイリーは笑顔で応えたが、その一方で、ずっと黙り込んだままのナシャは、泣きそうになるのを我慢するのが精一杯だった。

 本当はルイリーと結婚する気なんて全然ないのに、彼のご両親を変に舞い上がらせて、結局婚約はなかったことにするなんて、なんて酷いことをしてしまったのだろう。

 すべてはルイリーの好奇心を満たすため、そして自分の傷心を癒すための利害一致だったとはいえ、軽い気持ちで長い間、多くの人を巻き込んでしまったことを、今さらながらに後悔するばかりだ。


「……」

「ナシャ? さっきから黙り込んでるけれど、どうかしたの?」

 マリスのいた部屋を出て、誰もいない廊下を歩き出したルイリーは、黙り込んだまま隣を歩くナシャの複雑な顔を見つめると、不思議そうに声を掛けた。

 普段のナシャはいつだって明るい女の子だったから、変に塞ぎ込んでいる姿はらしくないし、なんだか不安になる。

 すると、そんな彼の声に顔を上げたナシャは、ふと立ち止まった後で静かに言った。


「……ルイリー。もうやめにしましょう」

「え?」

 囁くように発せられた言葉に驚いて振り返ると、ナシャは大粒の涙を浮かべたまま、ルイリーを見つめていた。

「私…もう限界だわ。これ以上、周りの人を騙して婚約してるなんて言えない……」

「そ、何で、いきなり……」

 思いもよらないナシャの言葉に、大きく目を見開いたルイリーは、ナシャを正面から見つめると動揺したように呟いた。

 マリスに会う直前、何かを伝えようとしていたナシャの表情は確かに深刻で、その様子から、何か大事な話があるのだろうとは思っていた。だけど、それがまさか、自分との婚約をやめたいと言う話だったなんて……。


「ナシャ、どうして? きみだって……」

「最初は、ルイリーが楽しんでいれば、それでいいと思ったの。私の傷心を癒す絶好の機会にもなるし、お見合いに疲れていたのも事実……。だけど、今はもう、誰かに婚約の話をされるたび、心が痛いのよ……。私たちは、利害一致の時間稼ぎをしていただけで、本当に結婚するつもりなんてない……。なのに、変に周りを喜ばせて…騙してるんだって…だから………」

 そこまで懸命に言葉を絞り出したナシャは、涙を零すと苦しげな表情でルイリーを見つめた。

 今までずっと我慢して来たけれど、耐えられないほどの罪悪感が、言葉とともに涙となって零れ落ち、止まらない。そんな彼女の思い詰めた様子に、ルイリーは何と声を掛けるべきか迷うように何度か口を開いたが、結局、何も言えないまま、ただじっとナシャを見つめ返すばかりだ。

 すると、曖昧な顔をするルイリーに、ナシャはしゃくりあげながら、なおも言葉を続けた。

「だから…もう、やめにしましょう、ルイリー。こんなこと、は、初めからするべきじゃなかったのよ……」

「ナシャ……」

 後悔と自責の念に苛まれるナシャの苦しげな顔を見つめていたルイリーは、思わず彼女の名を呟くと、一歩、彼女の傍に歩み寄った。

 どうしてあげるのがナシャにとって正解なのかは分からなかったけれど、一先ず、彼女を慰めて、きちんと話をすべきなのだろうと、なんとなく思ったのだ。


「だけど、勝負もまだ途中で、俺……」

「ごめんなさい。一方的だって分かってる。けど、もう、付き合えないわ」

「……!」

 だが、話し出そうとしたルイリーの言葉を、ナシャは受け入れようとはしなかった。

 最後にそう告げた彼女は、涙を流しながらルイリーに背を向けると、そのまま歩き出し、もう戻っては来なかった。



「ナシャ……」

 廊下に一人取り残されたルイリーは、彼女が去って行った薄暗い廊下の先を見つめると、もう一度彼女の名を囁いた。

 これは、今までルイリーが本気であることを伝えてこなかった代償だ。彼女への想いを自覚したとき、ルイリーは今さら好意を示すなんて恥ずかしいから隠しておきたい、そんな風に思って、ナシャへの甘い言葉はすべて演技だと思い込ませてきた。

 だけどあのとき、恥ずかしくても本気で好きになったんだと伝えていれば、ナシャが利害一致を理由に思い悩むことも、こんな風に突然別れを告げられることも、なかったかもしれない。


(俺はこの先、どうするのが正解なんだろう……)

 そう思うと、これまでの選択がすべて裏目であったことを悟ったルイリーは、ふと視線を落とすと、これから先のことを考えた。

(ナシャの気持ちを優先させるなら、このまま婚約を解消するのが彼女のため……? でもそんなことをしたら、俺はもうナシャの婚約者でいられなくなる。……だけど、ナシャは俺と結婚するのが嫌だから、婚約を続けたくないって、泣いてたんだろうな……)

 ぼさぼさに跳ねた髪をぐしゃぐしゃと掻きあげながら、ルイリーは、隠しきれないショックを抱えたまま思案を続けた。


 ナシャを本気で好きだと自覚してから、ルイリーはできる限り彼女の傍にいて、彼女の心を気にかけようとは思っていた。

 家族以外の誰かを思いやるなんて、今までは考えたこともなかったけれど、好きだからこそ、出来るだけ心を分かってあげたいと、思っていたはずなのに。

 結局自分は、別れを切り出されるその瞬間まで、ナシャの辛さに気付いてあげられなかった。婚約者として、失格なのは分かっている。

 でも……。

(でも、好きなんだ…ナシャ……)

 この気持ちが偽りではないことを心の中で再確認したルイリーは、俯いたまま、考えもなしに今すぐ彼女を追いかけたい衝動を抑え込むと、大きく頭を振った。

 傍にいたくてたまらないのは事実だけれど、今の彼女は、ルイリーが傍にいることを望んではいない……。

 だとしたら、まずは自分の中でどうすべきか、その答えを出すのが先だ。


(……俺はどうしたらいいんだ。自分の気持ちとナシャの気持ちはたぶん今正反対で、何をしたって彼女を困らせるだけのような気がする。彼女の心を溶かして、婚約を続けるなんて、そんな都合のいいことが叶うとは、到底思えない……)

「……っ」

(だけど、今すぐ何か答えを見つけないと、ナシャは本当に離れて行ってしまう。それだけは、嫌なんだ……!)

 髪の隙間から覗く表情に苦悩を滲ませ、窓辺に手をついたルイリーは、自分なりの最適解を導こうと必死に頭を回転させた。

 窓の外ではいつの間にかみぞれ雑じりの雨が降り注ぎ、彼らの心模様を表すように王都は今、分厚い雲に覆われている。



(……俺は、どうしたいんだ……)

 視界に映る悪天候を見るともなしに見つめながら、ついには窓ガラスに頭をこすりつけて思案を続けていたルイリーは、出ない答えに焦る心を落ち着かせようと大きく息を吐いた。

 途端、白く曇った窓ガラスが、もやのかかる自分の心を映すように、ガラスに反射する自分の姿を隠して、見えなくなる。


(……俺は)

 人に対しての興味が極端に希薄だったせいか、ルイリーはこれまでの人生で誰かに心を痛めたことも、悩んだこともなかった。だからこそ、出るはずの答えが思い浮かばず、結局彼は、辺りが薄闇に包まれるまでずっと苦悩し続けた。


 今のルイリーは、ナシャの気持ちを優先したい自分と、婚約を続けたいと自分の二つの気持ちを抱えている。

 もちろん、本心を言えば婚約解消なんて嫌だし、ナシャの傍にこれから先もずっと居たい。だけど、ナシャがそれを望まないのに、自我を通すなんて許されるのだろうか。

(普通なら、許されないかも、しれない……)

 でも、だからと言ってこのまま婚約を解消するのが、最適解とも思えない。

 彼女に本気も何も伝えないまま終わりにして、それで本当に後悔しないだろうかと、心のどこかで思う自分がいるからだ。

 これから先、ルイリーが誰かを好きになることはきっとないし、たとえ婚約を解消することになっても、ナシャを想う気持ちは変わらないだろう。

 そんな気持ちのまま、また彼女の友人として隣にいられるとは思えないし、ナシャが別の誰かと結婚することになろうものなら自分はきっと耐えられない。

 ならば、今、自分が取るべき行動は……。


(……――本心を、伝えよう)

 やがて、目をつむったまま苦悩していたルイリーはすっと目を開けると、窓ガラスに映る自分のエメラルドグリーンの瞳を睨みながら、覚悟を決めた。

(自分の気持ちも伝えていないのに、諦めるなんてやっぱり嫌だ。ナシャが今さら、俺を受け入れてくれるかどうかは分からない…けれど、仮面舞踏会のときみたいに、いつか気持ちを分かってもらいたいじゃ、もうだめなんだ。ちゃんと好きだって伝えて、婚約者のままでいたいって、伝えよう。後から後悔したって、どうにもならないんだから……)


 長い長い苦悩の末、そう結論を出したルイリーは、彼女を追うように廊下を歩き出した。

 行先はもちろん彼女の元へ。

 本心を、伝えに。


(ナシャ……)

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