第8話 ナシャの選択

(これで、よかったのよ……)


 何日もの苦悩の末、ついにルイリーとの婚約解消について、話を切り出すことができたナシャは、戸惑う彼を置き去りにしたまま、アドフォード家のお茶会を後にしていた。


 馬車に揺られて自宅へ戻ると、風に乗った霙雪みぞれゆきが空を舞い、胸に蔓延はびこる罪悪感を可視化するように、徐々に空色を悪くしていく。

まるで、天が自分の心情を体現しているかのような情景に、さらに心を沈ませたナシャは、予定よりもずっと早い娘の帰宅と、赤く腫れた目に、驚いた顔をする父にろくな理由も言えぬまま、二階にある自室へと引きこもった。

そして、何度拭っても零れてくる涙に濡れた顔で、これからのことを整理する。


(これで、いいの……。どの道、ルイリーと結婚するつもりなんてなかったし、兄様との勝負が終わる前に結論を出しただけと思えば何ともないわ……。ただ、こんな顔でお父様に報告するわけにはいかないから、明日ちゃんと話して、アドフォード侯爵にも謝罪に行かないと……)

「はぁ……」

 夕食もろくに取らぬまま、大きなふかふかのベッドに寝転んだナシャは、しばらく考え込んだ後で、大きなため息とともにまた涙を流した。

本当なら帰宅後、すぐにでも父に事情を話そうかと思っていたのだが、思った以上に心が落ち着かなくて、お茶会を中座ちゅうざしてきた理由も、結局は兄の風邪のせいにしてしまった。

だが、報告しない限り、この苦悩から解放されることはないだろうし、ケジメは必要だ。

父や侯爵を悲しませることへの罪悪感はあるけれど、それでももう、ナシャの中でこの決意が揺らぐことはない。

ルイリーとの利害の一致婚約はここまでだ。

(これで、私の時間稼ぎは終わり。またちゃんとお見合いを始めて、それで…正式な相手を決めるの……。結婚する…相手を。ルイリーは、兄様と勝負できなくなることを不満がるかもしれないけれど…もう知らないわ。どの道、これから先、どんな顔して彼に会えばいいか分からないし……)

 ベッドに半分顔をうずめたまま、ナシャは大きくため息を吐くと、また浮かんできそうになる涙を強引に拭った。

これが正しい決断だと分かっているのに、どれだけ理由を見繕っても、ナシャの気持ちは晴れてくれない。

まるで自分の行く先が真っ白な霧に覆われて、進むべき方向を見失ったように、完全に心が迷子だ。

(きっと、お父様に報告できていないことや、本当のことを知らせて、みんなを悲しませてしまうのが心苦しいだけなんだわ……。でも……)

 一向に見えない先を何とか見定めようと、無理やり原因消化のため、ひとりごちる。

ナシャの考えは決して間違いではないけれど、たぶんそれだけではないような、そんな気持ちも心のどこかであって、まだまだ進むべき道は見えそうにない。


(……ルイリー、今どうしてるかな……)

 そんな、もやもやとした感情が心を巡る中、ふとナシャが思ったのは彼のことだった。

アドフォード家の屋敷で婚約解消の話をしたとき、ルイリーは本当に戸惑った顔をしていた。

あんな表情をする彼を見たのは初めてだし、一方的な申し出に罪悪感もあった。

だけど、今まで散々彼に振り回されてきたのだと思えば、意趣返しにはちょうどいい。

彼は誰かの言葉に心を痛めたりする人じゃないし、兄と勝負ができなくなること以外で、自分の急な申し出に不満を言ってくるとも思えない。

それに、最近の彼は昔以上に優しくて、なんだか、自分に対する婚約者っぽい発言が本心のようにさえ思えてしまって……。

演技なのはもちろん分かっているけれど、いい加減、不意打ちの演技にどきどきさせられるのも辛いし、このままじゃ――……。


だから、これでよかったんだ……。



 晴れぬ気持ちを払拭させようと、考え込むナシャが思案の旅を続けていたころ。

霙雪が舞うハリントン伯爵家の敷地に、一台の二頭立て四輪馬車がやってきた。

道に薄く積もった雪をかき分け、伯爵邸の前に停まったその馬車は、寒さに震えるように、しばらくじっとして動かない。

と、しばしの沈黙の末、不意に開いた扉から顔をのぞかせたのは、白いコートを羽織ったルイリーだ。

変わらぬぼさぼさ頭に覚悟を決めた真剣な表情を浮かべた彼は、窓辺の灯りから、ナシャが自室にいることを確認したうえでそっと玄関扉を叩く。

「ルイリーくんじゃないか。どうしたね、こんな時間に……」

「……!」

 音に気付いて扉を開けてくれた使用人に招かれ、玄関先に立った彼を出迎えたのは、偶然近くを通りかかったハリントン伯爵だった。

彼は片手に本を持ったまま、ルイリーの突然の来訪に驚きを見せている。

「こんばんは、ハリントン伯爵。実は、今日の茶会で…ナシャが体調が優れないと言って帰ってしまったのが心配で…様子を窺いに参ったのです」

 純粋に驚いた顔をする伯爵の様子から、ナシャがまだ父親に真実を打ち明けていないことを察したルイリーは、口ごもりながらも理由をでまかせた。

その理由はしくもナシャと一致しており、伯爵は彼の説明に納得したようだ。

少しばかり心配げな顔でナシャの部屋の方を見遣った彼は、ルイリーに向き直ると、彼女の様子をこう説明する。

「そうかそうか。おそらく風邪であろうな。ジェニーも先日から寝込んでおるし、ナシャもそう言って、夕食もろくに取らないまま、今は自室にいるはずだ」

「そう、ですか……。あの、伯爵…やはり彼女心配なので、少しだけナシャと話をさせていただいてもよろしいでしょうか」

 ナシャの現状に少しばかり俯いたルイリーは、一瞬間を開けた後で勢いよく申し出た。

彼女が苦しんでいるのなら、一刻も早く会って、ちゃんと説明したい、そんな気持ちがつい前面に出てしまう。

そんなルイリーの切迫した様子に、ハリントン伯爵はどこか珍しそうな雰囲気を見せていたが、彼がナシャに向ける心配を察したのか、小さく微笑んで言った。

「もちろん構わないよ。ただ、風邪がうつらないよう気を付けてな」

「ありがとうございます、伯爵」

 伯爵の許可を得たルイリーは、丁寧に礼を言うと玄関横の階段を上り始めた。

何度も遊びに来ているせいか、この屋敷の構造もナシャの部屋もルイリーは知っている。

それに、追随する使用人もいないことを確認したルイリーは、はしたないことを承知で小走りになると、すぐさま彼女のもとへ向かった。

(待っていて、ナシャ……)


「はぁ……」

 そのころ、まだまだ晴れない気持ちのまま、ベッドの上でごろごろしていたナシャは、ようやく引いて来た涙にほっと息を吐きながら、天蓋を見るともなしに見つめていた。

いくら気持ちを整理しても心が落ち着く様子はなく、他に何もする気は起きない。

いつもなら好きな本を読んだり、裁縫したり、もっと時間を有意義に使っているはずなのに……。


「ナシャ? 入るよ」

「!」

 と、そのとき。

不意に扉の外から聞こえてきたのは、聞きなれた彼の声だった。

あまりにも唐突な出来事に、ナシャは思わず自分の耳を疑ったが、夢ではない。

その証拠に、勢いよく扉を開けて彼女の前に現れたのは、さっき別れを告げてきたはずのルイリーだ。

「ル、ルイリー…! 何しに来たの?」

「まだ話が終わったつもりはないからね。だから来たんだ」

 ルイリーにノックをする概念がないのはいつものことだからさておき、いきなり現れた彼の姿に、ナシャは飛び起きると、動揺した様子でその顔を見つめ返した。

今のナシャはいつもみたいに髪も結っていないし、正直彼と会えるような心情でもない。

だが、そんな彼女をよそに、ベッドに座るナシャの傍まで歩み寄ったルイリーは、真剣な眼差しを向けると、ずっと言いたくてしまい込んできた台詞を、ストレートに告げた。

「ナシャ、今までずっと、はぐらかすようなことばかり言って…ごめん。だけど俺、本気なんだ。本気できみが好き。だから、婚約解消はしたくない。結婚してほしい」

「……!?」

 唐突で意外過ぎる告白に、ナシャは大きく目を見開くと、目の前で片膝をつくルイリーの真剣な表情を見つめ返した。

この状況で、彼が自分を丸め込むための嘘を吐くとは思えないが、それを差し引いても信じがたい告白に、頭が真っ白になる。

「だめ、かな……?」

「……そ、そん…嘘、でしょ。だってルイリー、あなたは……」

 数十秒にも及ぶ長い沈黙ののち、ようやく声を取り戻したナシャは、震える声で呟いた。

ルイリーが誰かに好意を示すなんて、やはりありえない事態だし、この状況だからと言って彼の言葉を安易に肯定することはできない。

すると、ナシャの戸惑いを察したように彼女を見上げたルイリーは、真剣な顔のまま、今までずっと口にしてこなかった想いをさらに告げた。

「確かに最初は、ジェニーの馬鹿面を拝みたい気持ちが、きみと婚約したすべてだった。だけど、今はもう違うんだ。きみの傍にいるとどきどきして変に緊張するのに、いつだって抱きしめたくなる。俺にこんな心があったこと、俺が一番驚いてる。けど、嘘じゃない」

「……」

「俺、今はまだナシャの理想なんかじゃないって分かってる。人は苦手だし、どうしたらきみを幸せにできるか、まだ分からない。……でも、もう偽物の婚約者でいるのは嫌なんだ。きみが思い悩んでいることにさえ気付けない俺だけど、傍にいさせてほしい」

「………」

 真剣な眼差しで想いを告げるルイリーの言葉を、ナシャは苦しげな表情で聞いていた。

ルイリーという人は、昔から人間への興味が極端に希薄で、それは一生変わらない、彼の特徴のようなものだと思っていた。

そんな彼が誰かを好きになるなんて絶対にありえないし、嫡男のくせに結婚だって一生しないと思っていた。

だからナシャは彼と友達でいることを望み、ずっとそうだと思っていたのに……。

「まだ、嘘だと思ってる?」

 苦しげに顔を歪めたまま沈黙するナシャに、問いかける。

「だって……」

 すると、彼の問いかけに零れたのは、涙だ。

まるで、ルイリーの言葉を本心だなんて思ってはいけないと、心が無意識に否定するように、せっかくおさまっていたはずの涙が、溢れ出して止まらない。

そんな心情のままルイリーを見つめたナシャは、嗚咽おえつとともに声を荒げて言った。

「だってルイリー、人に興味を持ったことなんて、一度だってないじゃない……。そうやって、私を惑わせて、遊んでるんでしょう? ずっとずっと私ばっかりどきどきさせられて、今さら好きだなんて…そんなこと、信じられない……!」

「ナシャ……」

「出て行って、ルイリー……! 私たちの婚約は、もう……っ!」

「……っ」

 辛そうに涙を流すナシャの言葉に、ルイリーは思わず立ち上がると、そのままベッドに腰かける彼女をぎゅうっと抱きしめた。

途端、ナシャが驚いたように目を丸くしたのが分かったが、ルイリーはそのまま優しく髪を撫でると、彼女の気持ちを酌むように言った。

「ごめん、ナシャ。今の俺には謝ることしかできない。昔から俺を知ってるからこそ、本心じゃないんじゃないかって、そう思ってるんだよね? でも、ごめん、本気で好きなんだ」

「うぅ…っ、うっ……」

「もっと早く、ちゃんと伝えていればよかった。だけど、今さらこんな感情を見せるのは恥ずかしいって、どうせナシャは信じてくれないって…そうやってずっと誤魔化してきた俺が悪いんだ……。ごめん……」

「ひっく…、ぐす……っ」

「ねぇ、ナシャ……。もう少しだけ、俺に時間をくれないかな。すぐに信じてもらうのは難しいって分かったから。ジェニーとの残り五戦、その間に俺が本気だって分かってもらえるように努力する。だから、もう少し、婚約者のままでいさせて?」

 離せともやめろとも言わず、ルイリーに抱かれたまま涙を流すナシャに、彼は今自分が伝えられる全部の想いを余すことなく告げた。

これでもし、ナシャが受け入れてくれないのなら、無理強いはしたくないし、諦めるしか、ないのかもしれない。

でも、どうか、どうかもう少しだけ時間をもらえたら……。


「………」

 泣き続けるナシャを抱く腕に少し力を込めながら、祈るように髪を撫でる。

「……嘘、だったら……」

 すると、しばらくしてようやく涙をこらえた彼女は、真っ赤に腫れた瞳でルイリーを見上げると、絞り出すように呟いた。


「嘘だったら、、一生口利かない……」


 それが、彼女の精一杯の答えだった。

「うん」

 震え声で告げるナシャの言葉を受け止めたルイリーは、そっと彼女を離すと、安堵と喜びを混ぜた表情で真正面からナシャを見つめた。

そして、真っ赤な顔で自分を見上げるナシャの頬に触れ、そのまま優しく口づける。

涙で体温の上がった彼女の唇は、とても熱くて、やわらかかった。

そう思うと、初めてじゃないはずなのに、忘れがたいほど、心がざわめく。

その感触に頬を赤らめたルイリーは、心から彼女を想った。


 ――ああ、やっぱり、自分は本気で彼女を愛してしまっている。

これまですれ違いもいろいろあったけれど、本心を告げたことは間違いじゃない。

自分たちの婚約は、ある意味ここがはじまりで、もう変に気持ちを誤魔化す必要なんてない。

ここからは本当に、本物の婚約者として、きみを幸せに……。



(――な、何が起こっているんだ)

 ようやく本心を見せ合った二人のいる、部屋の外。

寝間着姿で枕を抱え、扉に耳を密着させるようにして盗み聞ぎしている者がいた。

柔和な顔つきに、今は憤怒と戸惑いを混ぜた表情で、中の様子を窺っているのは、風邪で寝込んでいるはずの、ジェニーだ。

彼は、明らかに調子が悪そうな青白い顔のまま、室内の様子に混乱している。

(一体、今の会話は…どういう……。意味が分からないぞ……)

「ゴホ、ゴホ…ッ……うう……」

(落ち着け…とにかく、考えるんだ……。頭痛くて回らないけれど、そ、それどころじゃない……。これはおそらく…一大事だ……)

 わずかに漏れ聞こえた二人の会話に混乱したまま、ふらふらと足元をおぼつかせたジェニーは、熱に犯された重だるい身体を引きずるように、そっと部屋の前を離れた。

そして、視界も危うい状況で近くにある自室に辿り着き、即座にベッドに倒れ込む。

どうやら数日前から寝込んでいるというジェニーの風邪は相当重いらしく、正直、息も絶え絶えと言った様子だ。

「うぅ…ルイリーめ……。ナシャを泣かせるなんて、何事かと思えば…案の定、婚約に…裏が…ゴホゴホ…ッ、あったんだな……」

 だが、そんな自分の状態なんて意に介した様子もなく呟いたジェニーは、全集中力を思案に注ぐとひとりごちた。

ナシャがアドフォード家の茶会を中座し、泣いたように腫れた目で帰って来たというのは、夕食を持ってきた従者から聞き及んでいた。

それだけでもジェニーにとっては大事件だったが、このタイミングでルイリーが来訪したと聞き、いてもたってもいられなくなった。

連日の高熱で、正直、歩くのさえやっとの状態だったが、やつが妹に何かしたなら、怒鳴り込んで、即、婚約を解消させようとさえ思っていた。

だが、そこで聞こえてきたのは、婚約した当初の目的が、自分をからかうためであったこと、時を経た今のルイリーが本気でナシャを想っていること、そして、泣いていたはずのナシャが、ルイリーの想いを…う、受け入れた、こと……。

「あぁ…ぐ、ぐるじい……。また熱が上がって……。だ、だが…そんな場合じゃない。早ぐ…なんとが………じないと……」

 うつ伏せに倒れ込んだまま、痛む頭をフル回転させたジェニーは、動く元気すらないのか、その状態で何とか考えをまとめようと試みた。

彼にとってこの展開は、非常にまずい展開だった。

妹が誰かと結婚してしまうのは、一億歩譲って最終的には仕方ないことだとしても、ナシャが愛し、生涯をかけて幸せにしてくれるような男じゃなきゃ、認めたくはない。

これまでは、ナシャがお見合い相手に心を動かさなかったからこそ、無理難題と弱みで破談させてきたが、もし彼女が本当にルイリーを好きになってしまったら、ある意味自分の中での条件は満たされる。

でも、だからと言って、あんなだらしなくて悪意的な好奇心しか持たない変人に、大事な妹をやれるか言ったら、絶対にそれだけは許容できないし、絶対に嫌だ。

(……こ、こうなったらナシャが、あいつを本気で好きになる前に…早く、決着を……)

 少し考えただけで朦朧もうろうとしてくる頭を何とかしつつ、自分の中での認識を確かめる。

(……いや、いっそ殺してしまおうか)

 だが、数秒の沈黙ののち、ふと思い直した彼は、熱が原因か、いつもより数段よどんだ青い瞳で、もっと確実性のある結論を出した。

(僕との勝負に負けた程度じゃ…あいつは、食い下がらないだろう。ならいっそ……。ふふ、そ、そうしよう……。ふふふ……)



 それから二十日が経った。

暗い決意が、ジェニーの中で固まったことなど知る由もなく、一週間の療養を経てようやく風邪から回復した彼との勝負を再開したルイリーは、難なく勝ち数を伸ばしながら、ナシャに本気を分かってもらおうと、模索の日々を送っていた。

自分の言葉が演技でないと伝えて以来、ナシャは、傍にいるだけで前以上に照れてくれているような気もするけれど、本当にこの気持ちは伝わっているのだろうか。

今までの反省点を踏まえつつ、二十番勝負の十九戦目であるスケートでのスピード対決に挑んでいたルイリーは、相変わらず小狡い手を使ってくるジェニーを押しのけて勝利すると、抜け殻になった彼を置き去りに、ナシャの傍に戻ってきていた。

「ナシャ、また勝ったよ。ついに王手だ」

「おめでとう、ルイリー。兄様もあなたも寒いのによくやるわね」

 湖畔のベンチに座って勝負を見守っていたナシャに声を掛けると、彼女は笑顔を返しながらも、どこか喜びと呆れを含んだ表情で言った。

季節はさらに廻って、いつのまにか十二月となり、ルクストリア王国全土は連日、氷点下の雪模様が続いている。

「ナシャこそ、こんな寒い中わざわざ外で見てなくてもよかったのに。風邪引くよ?」

 そんな彼女の曖昧な笑みを見下ろしたルイリーは、あの日以来、ちゃんとナシャを気遣うよう心掛けているのか、少しだけ心配そうに言った。

今日の彼女は、ドレスの上に防寒用のコートやスカーフ・帽子を身に付け、いつもより断然もこもことしたかわいい印象だが、正直、時折雪のちらつくこの天候では心もとない気もする。

「平気よ」

 しかし、彼の心配をよそに、寒さで鼻の頭を赤くしたナシャは、けろりとした様子で言った。

「防寒対策はしているし、兄様が変な不正をしないよう見守るのは、私の仕事だもん」

「そんなこと言って…ほら手、冷たいじゃないか」

「……!」

 気にした様子もなく答えるナシャに、ルイリーはため息を吐くと、おもむろに彼女の細い手を握りしめた。

繊細で折れそうなほど細いナシャの手は、氷みたいに冷たい。

「さ、屋敷に戻ろう。あったかい紅茶が飲みたいな」

「ええ……」

 突然のことにぴくりと肩を震わせたナシャは、ほんの少し顔を赤らめたまま、頷いた。

だが、そこには、今までのような否定や反論の雰囲気はなく、むしろ、赤らめたまま笑みを見せる彼女は、どこか嬉しそうだ。

「戻ったらすぐお茶にしようね」

「うん」


 仲の良い恋人みたいに手をつなぎ合って、他愛もない会話を楽しむ。


 あの日以来、これが二人の距離感だった。

だけど、それがなんだかとても幸せな気がして、二人は屋敷に着くまで、途切れることなく会話を続けた。


「おかえりなさいませ。ナシャお嬢様、ルイリー様」

 二人して手をつないだままハリントン家の別邸に戻ると、使用人たちが安堵の表情で出迎えてくれた。

どうやら、ウィンタースポーツをたしなむためとはいえ、雪のちらつく冬場に、ご令嬢方が長時間外出している、ということを心配していたようだ。

そんな彼らの心情を何となく察しつつ、よく温まった談話室に入ったナシャとルイリーは、さっそく用意してもらった紅茶とお菓子に手をつけると、冷えた体を温めた。

外ではまた、はらはらと軽い雪が空を舞い、銀色の世界を濃く染めていく。

「……そういえば、明日行くパーティだけど、どこまで行くって言ったっけ?」

 すると、外の景色を視界に入れつつ、お茶とお菓子と会話を楽しむナシャに、ルイリーはふと明日のことについて、そう切り出した。

普段なら、パーティの話なんて滅多にしないどころか、父のお願いでしか他家に出向かなかったルイリーも、近頃はナシャとの時間を多く作るため、彼女とともに様々なパーティに参加するようになっていたのだ。

「ゴドレスト伯爵家の別荘よ。空気の澄んだ綺麗な場所で、たぶん今は一面の雪景色。素敵な銀世界が広がっていると思うわ」

 そんなルイリーの質問に、クッキーを頬張る手を止めたナシャは、以前行った会場の様子を思い出しながら答えた。

明日二人が参加するパーティの会場となる別荘は、縦に細長いルクストリア王国北部の都市・キンディアにある、閑静な街を見下ろす高原にあった。

王都の喧騒を離れ、のびのびと景色やパーティを楽しんでもらいたいとの思いで、ゴドレスト伯爵が年に一度、パーティを開催するために使われるその別荘には、上流階級の人々が多く集まり、宿泊する者も多い。

 尤も、ここ数十年ほどは、蒸気機関車が王都から北部まで王国を貫くように運行しているおかげもあって、交通の上での不便はあまり感じられなかったが、それでも滅多に行くことのないような遠出に、ルイリーはなんだか楽しそうだ。

「俺、もう二年以上蒸気機関車には乗っていないから、どんな風景か楽しみだ。きっと、前とは違う景色もたくさんあるんだろうな」

「ふふ、そうね。ちなみに、前回はどこまで行ってきたの?」

 そう言って、いつのまにか、パーティより蒸気機関車の方に興味を移したルイリーに、笑みを向けながら尋ねる。

すると彼は、当時を思い出すように視線を斜め上にして言った。

「終点のクイリーズさ。北の山脈があるあの辺りはうちの領地だからね。面倒だったけど、父の命で領地視察に行ったのが最後かな……」

「へぇ~。私、クイリーズは行ったことないのよね。どんなところ?」

「雪は深いけど綺麗な温泉地だよ。いろいろ落ち着いたら連れて行ってあげようか」

 いかにも嫡男らしいエピソードに納得するナシャに、ルイリーは笑うと、身を乗り出すようにして提案した。

どうやら今の彼にとって、ナシャとのお出かけが何よりも楽しいらしく、エメラルドグリーンの瞳が子供みたいにキラキラと輝いている。

「いいわね、楽しみ。あ、それで、明日のパーティだけど、夜の六時開始だから、それに合わせて、ここを出る予定よ。今いるプリシュムの中心街にある駅から列車に乗って…キンディアまで二~三時間くらいかしら? 問題ある?」

 そんなルイリーのうきうきした様子に頷いたナシャは、一旦話を戻すと、念のため予定を確認した。

どうやら、蒸気機関車を使うとはいえ、王都から直接会場に向かうのは遠いと判断したらしく、ナシャもルイリーも、勝負のついでに今日はこの別邸に泊まるらしい。

「問題ないよ。じゃあ今日はゆっくり過ごすとして、ジェニーに無駄にチェス勝負でもけしかけてみようかな。……というか、ジェニー帰って来た?」

 すると、ここで一度辺りを見回したルイリーは、ふと気付いたように首を傾げた。

自分たちが別邸に戻ってきてから大分経つが、いまだにルイリーと勝負をしていたジェニーの姿はない。

いつもなら、ナシャがルイリーと二人きりでいる場所を絶対に嗅ぎ付けて、全力で同席するか、徹底的に邪魔をしてくるのに……。

「そういえば見かけないわね。こんな天気なのに、ショックからまだ立ち直れないのかしら?」

「フフ、実は湖で凍っていたりして」

「従者が一緒だったから、流石にそれはないと思うけれど……」

 ルイリーの問いかけに、いつの間にか吹雪いて来た窓の外をちらりと見遣ったナシャは、かすかな不安を抱くと、困ったように呟いた。

その一方でルイリーは、ジェニーが一人じゃないことを思い出した途端、彼への興味を失ったようだ。

その証拠に、徐に立ち上がったルイリーは、部屋の隅に向かいながら呑気に言った。

「じゃあ、いいか。ナシャ、暇だし一緒にチェスしよう」

「えー、私じゃ勝負にならないの分かってるくせに……」

「手加減してあげるから」

「えー」



 そんな感じで夜は更け、翌日。

ナシャとルイリーは、ハリントン家の別邸がある街の、中心に建てられた駅から蒸気機関車に乗り込むと、会場に向かって北上していた。

今朝方まで降っていた雪はいつの間にかなりを潜め、空には珍しく太陽が顔をのぞかせている。

「いい天気でよかったね、ナシャ。雪がキラキラしていて綺麗だ」

「そうね。これなら列車が遅れることはないし、予定通り会場に着けると思うわ」

「ゴドレスト家の別荘には、ハリントン伯爵が先に行っているんだってね。……ジェニーはそのために早く出て行ったのかな?」

 積もった雪に反射する太陽光をまぶしそうに見つめ、景色を楽しんでいたルイリーは、しばらくして向かいに座るナシャに目をやると、ふと思い出したように言った。

実は、昨日なかなか帰ってこなかったジェニーのことを、二人ともあれ以来見かけておらず、今朝になってリビングに「先に行っている」と書かれたメモを発見し、彼が先にゴドレスト家へ向かったことを知ったのだ。

「うーん、私にも分からないわ。ゴドレスト家は同業者だから、お父様みたいに前乗りしてご挨拶かもって思ったけど…なら、最初からお父様と一緒に行くはずだし、ルイリーが私の傍にいるのを承知で先に行くなんて……なんか変よね……」

 普段なら、是が非でも妹と一緒にいたがる兄の珍しすぎる単独行動に、ナシャはいっそ不審感を抱くと、首をかしげたまま呟いた。

もちろん思いつく理由がないわけでもないけれど、どれもしっくりこないし、普段あれだけしつこくシスコンな兄が不意に離れて行くなんて、別にいいけれど変な気分だ。

「ついに俺とナシャの婚約を認める気になって、気をまわしたとか?」

 すると、眉根に皺を寄せたまま唸りだしたナシャに、ルイリーは深く考えるのをやめたのか、冗談めいた口調で言った。

確かに、結婚に前向きな、気の利く兄なら、その可能性はなくもない。

だが……。

「……あの兄様に限ってそれはないんじゃない?」

「だよね。俺も自分で言って、ないと思った」

「ふふ。まぁ、会場に着けば真相は分かるでしょうし、今は旅を楽しみましょ」


 ――なんてあれこれ言いながら、数時間。

蒸気機関車と馬車を乗り継いだ二人は、ついにゴドレスト家の別荘に到着した。

時刻は午後五時十五分。


まもなく、パーティが始まる。

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