第9話 ゴドレスト家にて

 ――人気のない山道に、一台の古びた箱型馬車が止まっていた。


 剥がれかけた木板に、色褪せた装飾。

分厚いカーテンがかかった内部を窺い知ることはできないが、時折揺れる影が、人の気配を予感させる。


 すると、打ち捨てられたような古びた馬車に、しばらくして、一人の男が近付いて来た。

男は、分厚い黒のコートにハンチングを被り、辺りをはばかるような様子でゆっくりと歩いてくる。

そして、何気ない仕草で馬車に寄りかかった男は、そのまま色褪せた扉を三度、ノックした。

「……仕事を依頼したい。最終的な標的は、その男だ」

 と、それが合図だったのか、間を置かずして、若い男の声が降りてきた。

訛りのないはっきりとした口調の青年は、硬い声音でそう言うと、わずかに開けた窓から一枚の紙を落としてくる。

誰かの姿が映った…写真のようだ。

「……報酬は?」

「御者台に置いた鞄を検めてくれ。まずは前払いでそれだけ。仕事が成功したら、さらに倍支払おう」

 馬車の中にいる人物が落とした紙に目を遣りつつ尋ねると、青年は、只ならぬ雰囲気を醸し出す男に、あえて金額を言わぬまま答えた。

その、何とも勿体ぶった言い方に、男は一瞬眉をひそめたが、反論はない。

代わりに、促されるまま御者台に置かれた鞄を手に取った男は、おもむろに中身を確かめた。

「……!」

 すると、その途端、男の表情が変わった。

どうやら鞄の中には紙幣と金貨を合わせ、予想以上の報酬が入っていたようだ。

「……いいだろう。坊ちゃん。詳細を話しな」

 青年の出す報酬に満足したのか、男は再び扉の前に寄りかかると、先を促した。

交渉は成立。本題はここからだ。

「明日の夜六時から、キンディア高原に建つゴドレスト伯爵家の別荘で、貴族を集めたパーティが催される。きみたちはこの別荘に押し入ってパーティを壊してもらいたい」

「なるほど。で、ついでにこいつを殺せばいいのか?」

「ああそうだ。だが、奇襲の目的が彼だと露見したくはない。彼はあくまで、偶然犠牲になっただけ。そう見せるために…うまくやってくれよ」

 含みのある話し方。

だが、男は青年の言わんとすることを察したようににやりと笑った。

汚れ仕事を生業なりわいとする彼にとって、青年の望む仕事は容易いことだったのだ。

「……承知した。そういう仕事は得意分野だ。残りの報酬もしっかり用意しておいてくれよ」

「もちろん。期待しているよ」



「わ、これみんな招待客? 結構たくさんいるなぁ~……」

「商売仕事は人脈も大事だもの。でも、頑張って参加するんでしょう、ルイリー?」

「うん…。だけど、できるだけご令嬢方に出くわしませんように……」

 パーティに忍び寄る不穏な影など知る由もなく、今宵の舞台である、ゴドレスト伯爵家所有の高原の別荘地に到着したナシャとルイリーは、人々が集まる大広間に顔を出していた。

皆、年に一度のパーティを楽しみにしているのか、寒さを感じさせない華やかな装いに身を包み、シャンデリアが輝く大広間で思い思いのときを過ごしている。


「あ、お父様発見」

 すると、招待客が八割方集まった会場の活気に、少しばかり圧倒された様子で周囲を見回していたナシャは、会場の奥にハリントン伯爵を見つけると、思わずそう呟いた。

だが、その一方で、メモを残し消えた兄の姿は傍にないようだ。

てっきり父とは合流済みだと思っていたのだが、ここにもいないとなると、兄は一体どこに行ったのだろう?

「兄様は……」

「もしかして迷子かな?」

「……………流石にないと…願いたいわ……」

 不審に思ってもう一度辺りを見回すナシャをよそに、ルイリーはジェニーの行方には興味がないのか、冗談めいた口調で言った。

二十三歳のいい大人が、単独行動の末迷子になるとは思いたくないが、ここまで珍しい行動をされると、完全には否定できない…気もする。

そんなことを思いながら、相変わらずジェニーのことを小馬鹿にした様子で笑うルイリーの冗談に、一抹の不安を抱いたまま、ナシャはハリントン伯爵の元へ行くと、自身の到着と兄の行方を知るため、声を掛けた。

「お父様、ただいま到着しました」

「おぉ、ナシャにルイリーくん。無事に到着したようだな。何よりだよ。……ところでジェニーは一緒じゃないのか?」

「え」

 娘の声に振り返ったハリントン伯爵は、ワイングラスを片手に笑みを見せると、安堵の後でそう言って辺りを見回した。

これはもしかしなくても、ジェニーの行方を知らなさそうな雰囲気だ。

「お父様…もしかして、兄様が今どこにいるのか、ご存じないのですか……?」

「……? ナシャと一緒に来る予定ではなかったか?」

「いえ、実は……」

 娘の質問に首をかしげる伯爵のきょとん顔に、ナシャはルイリーと顔を見合わせると、若干表情を引きつらせながら、状況を説明した。

兄のことは昨日の午後以降姿を見ていないこと。今朝になってリビングに、先に行くと記載されたメモが置いてあったこと。だからてっきり、父と合流しているのだと思ったこと……。

そうやって話していくうちに、ナシャはなんだか不安になって、思わずルイリーを見遣った。

自分たちも父も兄の行方を知らないとなると、これはもしかして、本当に…ま、迷……。

「父上! こちらにおられたのですね」

 認めたくはないが、迷子説濃厚かと思われた、そのとき。

「お、迷子ジェニーだ」

 人混みをかき分けるようにして、ようやく夜会服に身を包んだジェニーが姿を現した。

彼は急いで会場に駆け込んできたのか、若干息が上がっているような雰囲気だ。

「は? 誰が迷子だ。……それより遅くなりました、父上。キンディアに住む知人との会話が思った以上に弾んでしまい、このような時間になってしまいました。申し訳ありません」

 軽口を叩くルイリーを睨みつつ、父に向かって弁明を始めたジェニーは、開始ギリギリになって現れた理由をそう説明した。

そんな兄の話に、父の隣に立って聞いていたナシャは首をかしげると、

「それなら、ちゃんと言ってくれればいいのに。ルイリーじゃないんだから、あんなメモじゃ伝わらないわよ。まったく」

「ん~、心配してくれたのか、ナシャ~。ごめんよぉ、知人に呼び出されていたのをコイツのせいですっかり忘れててさぁ~。あれしか書けなかったんだよ~」

「そ…そう……」

 しれっと原因をルイリーと勝負していたせいにしつつ、ナシャに声を掛けられた途端、シスコン度を全開にするジェニーに、ナシャはさっきとは違う意味で表情を引きつらせると、一歩後ろに下がった。

不思議な行動とは違い、目の前にいる兄は完全にいつも通りのシスコンで、せっかく心配してかなり損した気分だ。


「――お集まりの皆様。今宵はようこそおいでくださいました……――」

 なんて思いながら、満面の笑みをこちらに向ける兄の様子にドン引いていると、前方の舞台に恰幅の良い紳士――ゴドレスト伯爵が立ち、彼の挨拶が始まった。

時刻はちょうど午後六時となり、年に一度のパーティが幕を開ける。


「……流石、年に一度のパーティ。ゴドレスト伯爵の気合が手に取るように分かる豪勢な料理と、いいワインだ」

 伯爵の挨拶が終わると、会場には演奏家たちの奏でる優雅な音楽が流れ、会場の雰囲気を演出し始めた。

それと同時に、次々と豪勢な料理や酒が用意され、招待された人々はダンスを楽しんだり、料理や酒に舌鼓を打ったりと思い思いにパーティを楽しんでいる。

そんな中、ハリントン伯爵とジェニーの傍を離れたルイリーは、グラスに注いだワインを含むと、感心したような声を上げた。

意外とお酒に強いルイリーは、開始早々何種類かのワインを飲み比べしているようだ。

「そんな苦いものよく飲めるわね、ルイリー。料理がおいしいのは同意だけど…ワインだなんて私は絶対に飲めないわ」

 すると、そんなルイリーを見上げたナシャは、感心とも呆れともとれる曖昧な口調で言うと、苦々しげな表情でワイングラスを一瞥した。

ルイリーと違い、お酒が苦手なナシャにとって、あの味は理解不能のようだ。

「ナシャもアルコールに強ければ、楽しめたかもしれないのに。残念だな~。一口くらい飲む?」

「……前にその手に引っ掛かって酔い潰れたから嫌よ」

「フフ、それは残念」

 本気とも冗談ともとれる口調でグラスを差し出すルイリーを突っぱねたナシャは、テーブルに置いてあったオレンジジュースを持ち上げると、「私はこれで十分」と言ってお酒嫌いをアピールした。

しかし、もともと可愛らしい容姿をしたナシャがジュースを手にしている姿は、なんだか子供みたいで、ルイリーは思わず笑みを見せると、

「フフ、なんか似合うね。オレンジジュース」

「なにそれ。酔ってる? 馬鹿にしてる?」

「褒めてる♪」

「全然そんな風に聞こえないわよ……」

 満面の笑みで楽しそうに言うルイリーに、ナシャはため息を吐くと、拗ねたようにジュースを口にした。お酒が飲めないのは事実だけれど、子供扱いはちょっと、悲しかった。


「……ふふ、二人は本当に仲良しだな」

 家にいようがパーティの最中だろうが、変わらない様子で二人の世界を楽しむナシャとルイリーに、遠くから様子を見守っていたハリントン伯爵は、朗らかに笑うと呟いた。

どうやら、二人の傍を離れて挨拶回りをしている間も、娘とルイリーのことが気になるらしく、伯爵の視線は定期的に二人を捉えている。

「そうでしょうか。僕にはそんな風には……」

 一方、父の思わぬ呟きに、傍にいたジェニーは苦々しげな顔でルイリーを見遣ると、徐に二人から視線を逸らした。

まるで、認めたくないから視界に入れない、とでも言うような息子に仕草に、伯爵はつい心配の眼差しを向けると、何気ない口調で言った。

「……ジェニー。そろそろルイリーくんを認める気にはなったかい?」

「いきなりどうしました、父上」

「いや、あの二人を見ていると、もう早々に結婚と相成ってもよいのではと思えてならない。だが、お前がいつまでも反対していては二人も踏み切り辛かろう」

 ジェニーの妹愛をどの程度把握しているかは不明だが、少なくとも、彼が結婚に否定的な姿勢を貫き続けていることだけは理解しているのか、ハリントン伯爵は困ったように言った。

父の口調は穏やかだが、遠回しにたしなめるような口ぶりだ。

そんな父にジェニーは苦笑すると、どこか遠くを見つめたまま小さく答えた。

「そうですね。まぁ…認めてもいいかもしれません。――今日を無事に生き延びられれば」

「……ん?」


 ガッシャーンッ!!


 誰にも聞こえないような小さな声で最後に付け足すジェニーの呟きに、ハリントン伯爵が眉を顰めた、そのとき。


 突然、一発の銃声とともに、窓ガラスが割れる甲高い音が、大広間中に響き渡った。

この場に似つかわしくない乱暴な音に、招待客たちは戸惑い、一瞬にして場が静まり返る。

「……な、なんだ、一体何事だ!」

 不測の事態の最中、初めに声を上げたのは、主催であるゴドレスト伯爵だった。

彼は表情に焦りを滲ませ、給仕や警備をしていた使用人に確認を指示しているようだ。


 ――バタン!


 だが、そんな伯爵の声を遮るように、今度は、大広間へ続く扉が勢いよく開いて、武装した九人の男たちが現れた。

彼らは皆、目深に被ったハンチングに襟を立たせたロングコートを羽織り、手には剣や銃を構えている。

「………」

 どう見ても今宵の招待客とは異なる出で立ちに、人々はさらに戸惑い、互いに顔を見合わせた。中には貧相な身なりの男たちに眉を顰める者もいたが、今のところ誰一人として、この状況を理解できていない様子だ。


 ――と。銃を掲げた一人の男が、戸惑う彼らを威嚇するように、天井に向かって発砲した。

バァン!と不吉な発砲音が響き、それを合図とするように、男たちが一斉に跳躍する。

「きゃああっ!」

 瞬く間に会場は、逃げ惑う招待客と襲い掛かる賊らしき男たち、そして、場を鎮めようと抗う使用人たちの叫びと音で混乱状態となった。

あちこちで皿やグラスの割れる音が響き渡り、もう何が起きているのか分からない。

「な、なんなの、一体……?」

 その様子を、大広間の入り口から大分離れたところで見つめていたナシャは、目の前の光景に立ちすくむと、不安そうに大きな青い瞳を揺らして言った。

当たり前だが、突然の出来事にナシャは大分狼狽うろたえているようだ。

「ロクでもない連中がこのパーティを嗅ぎ付けたみたいだね。困ったものだ」

「呑気なことを言ってる場合? ど、どうしよう……」

 そんなナシャを咄嗟に引き寄せたルイリーは、肩をすくめると、冷静に会場を見回した。

建物の構造上、二階に大広間があるせいで、外に逃げることも叶わず、金目の物を寄越せと剣や銃を突きつけられた人々は、アクセサリーなどを渡すか、抵抗して傷つけられているかの二択のようだ。

だが……。

(……見る限り、より爵位の高い貴族が中心に襲われている雰囲気だな……。まるで招待客を知っているみたいだ。内通者でもいるのか…だが、目的はなんだ……?)

 年に一度のパーティ。地方に集まる有力貴族。高原にある屋敷……。

立地上、警察が来るまで時間がかかる点が利用されたのか……?

「……!」

 自分が知る限りゴドレスト伯爵に悪い噂はないことを踏まえつつ、思考を巡らせていたルイリーは、不意に目の前に現れた賊に気付くと、思案を中断させた。

ナイフを手にルイリーを睨む男は、にやにやと嫌な笑いを浮かべ、間合いを計っている。

「……残念だが、俺は金になるようなものなんて持ってないよ。諦めて帰るといい」

 嫌な視線を不快に思いながら、ルイリーはナシャを隠すように前に立つと、冷静に告げた。

もちろん、正面から襲われたところでたいして脅威にも感じなかったが、ナシャが傍にいる以上、下手な戦闘は避けたかったのだ。

「……そうか。じゃあお前の首と引き換えに、ご当主にでも払ってもらうさ!」

「!」

 だが、そんなルイリーの考えとは裏腹に、にやりと笑った男は、そう言って跳躍した。

やり口から見てある程度予想していたとはいえ、やはり相手は、人の話に耳を傾けるような連中ではないようだ。

「ルイリー!」

「……っ、大丈夫。巻き込まれない程度に傍にいてね、ナシャ……!」

 ナイフを手に突っ込んでくる男の姿に、悲鳴を上げるナシャの一方、ルイリーは冷静に男の腕を掴んで攻撃を止めると、あくまでナシャを気遣うように声を掛けた。

兄との勝負のおかげで彼に戦闘の心得があることは分かっていたけれど、それでも、こんな場面に出くわすのは初めてだったし、どうしていいか分からなくなる。

(どうしよう…、私、どうしらた……。せめて、使用人が傍にいれば……)

 だが、守られているだけの状況に不甲斐なさを感じたのか、ナシャは、ルイリーが賊を止めているうちに、きょろきょろと辺りを見回し始めた。

今回このパーティに招待されたのはざっと百五十人前後、そのうちのほとんどが今も逃げ惑い、まだまだこの混乱は収まりそうにない。

望みがあるとすれば、呼びに行っているであろう警察が到着するか、使用人が賊を抑えてくれるかだが、使用人は入り口で足止めでもされているのか、意外なほど数が少ないようだ。

「……!」

 そのとき、混乱する貴族たちを強引に押し倒しながら、一人の賊がまた姿を見せた。

真っ黒なコートを翻すその姿は、まるで死神のように禍々しく、怖気おぞける思いだ。

と、その男は、賊と闘うルイリーに気付いた途端、なぜか迷うことなくこちらに向かってきた。

目の前の賊に意識を集中させるルイリーは、まだ気付いていないようだが、男は加勢でもする気なのか、ほかには目もくれず、どんどん迫ってくる。

(なんで……)

 そんな男の姿に気付いたナシャは、大きく目を見開くと、混乱したまま、急いでルイリーに視線を向けた。

今回の襲撃にどんな目的があるのかは分からないけれど、相手は金目のものを寄越せと叫び、人々を襲っていたはずだ。

今さら誰かを狙うなんて、そんなこと……?

「ルイリー! 危ないわ!」

「!」

 募る疑問を無理やり打ち切り、目の前の敵を足蹴にするルイリーに、ナシャは、切迫した調子で叫んだ。

もう何がどうなっているか分からないけれど、ルイリーに傷ついてほしくない。

それだけは、確かだった。

「はぁ。金目のものは持ってないと、さっきも言ったんだけどなあ」

 今まで聞いたこともないほど、焦りをにじませたナシャの声に振り返ったルイリーは、目の前でナイフを突きつけてくる男を見上げると、呆れ混じりに言った。

こんな状況だというのに、さっきからルイリーは焦った様子もなく、平然としている。

「……なら命をもらうぜ、坊ちゃん」

「命は一個しかないからあげられないよ。諦めて帰ったらどうだい」

「断る!」

 敵を目の前にしてもいつもの調子を崩さないルイリーに、男は一歩詰め寄ると、ナイフを振り下ろした。その気配を察したルイリーは瞬時に避けてみせたが、この男はさっきの賊より、数段強そうな感じだ。

(……まいったな。そろそろ警察も来る頃だろうし、早く何とかしないと)

 飽くことなく攻撃を仕掛けてくる男の切っ先をのらりくらりとかわしながら、ルイリーは一瞬、大広間の入り口付近に目を遣った。まだ警察が来る様子はないが、これ以上変に自分が戦っていると、ナシャが一層不安がってしまう。

彼女のためにも早く切り上げて、傍にいてあげたいのに。


「ダメ! やめて!!」


 そのとき。

ルイリーのすぐ後ろから聞こえてきたのは、離れたところにいたはずの、ナシャの声だった。

焦りの滲む彼女の声に思わず振り返ると、目の前には、さっき倒したはずの賊がいて、自分に向かってナイフを振り下ろすのが見えた。

そして、咄嗟に止めようと飛び出してくる、ナシャの姿も。

「ナシャ!?」

「……っ!」

 そこから先は、ルイリーにとってすべてがスローモーションに見えた。

無謀にも素手で攻撃を受け止めようとしたナシャは、容赦なくナイフを振り下ろす賊に傷つけられ、その勢いのまま後ろに倒れてくる。

腕からは赤い血がどうっと飛び散り、ルイリーは一瞬、頭が真っ白になった。

「ナシャ……!」

 目の前の賊との攻防を打ち切り、とっさにナシャを受け止めたルイリーは、右の手の平から肘にかけて走る傷に目を見開くと、途端怒りの形相となった。

それは、今まで見たこともないほど凶悪で、心の底からの怒りが見える。

ぼさぼさの長い髪すらざわつかせ、ゆらりと立ち上がったルイリーに、ナシャはもう片方の手を伸ばして止めようとしたが、

「やめて、ルイリー。……っ、危ない…わ……!」

 勢いよく床を蹴った彼は、ナシャの声すら耳に入っていない様子で彼女を傷つけた賊との間合いを詰めると、一気に蹴飛ばして床に叩きつけ、すぐさまもう一人の方にきびすを返した。

あまりにも機敏なルイリーの姿に、男が銃を取り出したのには気付いていたが、構いはしない。

ナシャを傷つける賊を倒すためなら、自分はどうなってもよかったのだ。

「死にたがりらしいな、坊ちゃん。なら遠慮なく撃たせてもらうぜ!」

「……!」

 下卑げびた笑いとともに容赦なく銃弾を放つ賊に構わず、ルイリーは相手に突っ込むと、奇跡的な精度で銃弾を躱しながら相手に迫った。

そして、怒りに燃えるエメラルドグリーンの瞳を相手に向け、そのまま男を蹴り上げる。

「そこまでだ! 大人しく手を上げろ!」

 そのとき、ようやくやって来た警察が止めなければ、ルイリーの攻撃はまだ続いていたかもしれない。

扉をこじ開けて入って来た数十人の警察官たちは、招待客の保護と賊の討伐にすぐさま動き、リミットを悟った男たちは、窓から飛び降りて退散を図る。

その姿を怒りの形相のまま見つめていたルイリーは、ここで我に返ると、急いでナシャのもとに駆け寄った。

綺麗なドレスを血に染めたナシャは、今にも泣きそうな顔でルイリーを見つめている。

「ナシャ、ごめん。大丈夫かい? すぐに医者を呼ぶから……」

「どうして……」

「ん?」

「………」


 待機していたゴドレスト家専属医の手当てを受けたナシャは、ルイリーの手で割り当てられた客間に運ばれると、ソファに座ったまま、どこかぼーっとした様子で包帯が巻かれた右手を見つめていた。

医者の話では骨には異常がないものの、全治二~三週間はかかるとの診断をされたのだ。

「痛む?」

 そんなナシャの痛々しい姿に、隣に座って様子を窺っていたルイリーは、心配と申し訳なさを混ぜた表情で問いかけた。

絶対に守ってあげたいと思っていた彼女に傷を負わせてしまったことが、何より悔しくて、心の底から不甲斐ない思いだ。

「少しね。でも、大丈夫よ」

「ごめん…俺のせいでこんな、傷を負わせて……」

「あなたのせいじゃないわ、ルイリー。だから、……!」

 あくまで気丈に振舞おうとするナシャの笑みに、ルイリーは思わず彼女を抱き寄せると、右手に気遣いながらぎゅっと抱きしめた。

血を流す彼女を見たときは本当に生きた心地がしなかったけれど、今、温かい彼女の体温を感じられるだけで本当に嬉しくて、同じくらい苦しい。

「……いいや、俺のせいだ。あいつをもっとちゃんと再起不能にしていれば、ナシャが傷を負うことはなかった。だから……」

「……っ!」

「だから俺のせいだよ。ごめん、ナシャ……」

 そう言って、労わるようにおでこに口づけたルイリーは、憂いのある表情でまっすぐにナシャを見つめると、もう一度ぎゅっと抱きしめた。

彼の仕草はとても優しくて、なんだか、とても大事にされているような気分になる。

そう思うと、ナシャはどこか不思議そうに笑って、

「……ふふ、ルイリーがこんなに心配してくれるなんて、ちょっと不思議な気分。いつもはもう少し、感心なさげなのに」

「だって、本気だから」

 照れたように頬を赤くしながら、意外な顔をして言うナシャに、ルイリーは彼女を抱く腕に少し力を込めながら、当たり前のように囁いた。

「……本気で、ナシャを大事だと思ってるから。だから、自分でもびっくりするくらい後悔しているし、同じくらい、きみが無事でよかったって思ってる」

「ルイリー……」

「ねぇ、ナシャ。俺、心からきみを愛してる。そう確信した」

「……あ、いし、て……っ。………」

「うん、愛してる」

 思わぬ言葉にさらに頬を赤らめたナシャは、目を見開くとまっすぐに彼と視線を合わせた。

真剣な顔をしたルイリーは、本当に本気で、ナシャのことを想ってくれているようだ。

「……」

 不意に彼の本気を理解して、照れたように一瞬視線を逸らしたナシャは、ここでふと先程の出来事を思い出すと、小さく彼の名を呼んだ。

そして、さっきは我慢した疑問を彼に投げかける。

「……なら、どうして敵に突っ込んで行ったりしたの? 相手は武装していたし、下手したらあなただってどうなっていたか分からないのに……」

「それは、だって……」

「私、あなたを好きでいていいんでしょう? だから、もう二度とあんな危険な真似はしないでちょうだい。もしルイリーが傷ついたら私、どうしたらいいか分からなくなっちゃう」

「……っ!」

 怒りのまま、無謀にも敵に突っ込んでいくルイリーの姿を、ずっと不安を抱えて見つめていたナシャは、あのときの想いを思い出すように、唇を尖らせて言った。

まるで、他人だけでなく、自分にも興味を持たないルイリーが、あのとき、自分なんてどうなっても構わないと思っていたことを見透かしたような口調だ。

「約束よ、ルイリー」

「う、うん……」

 だが、そんなことより、ナシャが自分を好きでいてくれていた事実に、ルイリーは思わず顔を赤くすると、どぎまぎした様子で頷いた。

ナシャが自分をどう想っているか、直接的な言葉を告げられたのは初めてだし、こんな場面であんなことを言うなんて、流石に不意打ちすぎるというものだ。

「……ルイリーが照れるなんて、初めて見たわ。かわいい」

 その一方、今まで懸命に隠してきた照れを引きり出されて動揺するルイリーに、彼を見上げたナシャは、物珍しげな様子で呟いた。

いつだって飄々ひょうひょうとしていたり、急に真剣だったり、笑ったりする顔はたくさん見てきたけれど、こんなにも顔を赤くして照れているルイリーを見るのは初めてだった。

「からかうのはよしてほしいな……」

「いつものお返しよ、ふふ」

「………」


 力なく言い返すルイリーと、そんな彼に笑みを見せるナシャの一日はこうして終わり、翌朝、警察の事情聴取を終えた二人は、王都への帰途についた。

捜査に乗り出した警察の話では、奪われた金品と怪我の様子から凶悪事件として扱うとのことだったが、今のところ賊の目的は分かっていないらしく、捜査は難航しそうだ。


「……結局、何だったのかしらね」

 娘の怪我に滅多に見せない怒りを露わにし、捜査への協力を申し出たハリントン伯爵と、申し訳なさにすっかり意気消沈するゴドレスト伯爵に見送られ、王都・ルテアに向かう蒸気機関車に乗り込んだナシャは、個室コンパートメントの中で不思議そうに呟いた。

相手が賊である以上、本当に金目当てとも考えられるが、ルイリーに対して執拗だったことが彼女の中で少し引っかかっているようだ。

「うーん、そうだね。もし明確な理由があるとしたら……」

「……?」

 すると、ナシャの疑問に、向かいに座っていたルイリーは、何かを言おうとしてふと口をつぐんだ。

もしかしたら、敵と対峙した彼には、何か思い当たる理由があるのかもしれない。


 だが、結局、彼がそれ以上言葉を続けることはなく、二人の旅は幕を閉じた……。

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