最終話 ナシャの行く道

 ゴドレスト伯爵家所有の別荘地で起きた襲撃事件から、一週間が経った。


 名だたる貴族が襲撃を受けたこの事件は、瞬く間に社交界で話題となり、賊の目的や雇い主など、憶測も含めた噂話が飛び交うほどの波紋を呼んでいる。

事件を捜査する地元警察は、上流階級の方々を狙った凶悪事件と判断し、賊の全員逮捕と目的の解明に死力を尽くしているが、今のところ進展はないままだ。


「腕の調子はどうだい、ナシャ?」

 そんな中、王都に帰ってきて以来、毎日のようにナシャの元へお見舞いに通うルイリーは、今日も温室に咲く珍しい花を手土産に、彼女の家を訪ねていた。

相変わらず彼の訪問はアポも何もない唐突なものだったが、療養中は家にいるように伯爵から言われているナシャは嬉しそうだ。

「うん。大分良くなってきたと思うわ。動かしてもそんなに痛みはないもの。……ただ、利き手が使えない状況にはまだ慣れなくて、つい、右手を使いたくなっちゃうのよね……」

 彼女の部屋で一緒にお茶をしながら、気になったように尋ねるルイリーに、ナシャは包帯ぐるぐる巻きの右腕を突き出すと朗らかに言った。

ここ数日は、腕を締め付けないよう考慮してか、ゆったりとした袖のドレスを着ているせいで、腕を少し上げただけで肘まで巻かれた包帯がよく見える。

医者の話では、おそらく痕にはならないだろうとのことだったが、痛々しい腕の様子や、自分のせいでナシャに傷を残してしまったらと思うと、やっぱり申し訳ない思いだ。

「それは…なんとも申し訳ないね。俺は右手が使えない不便さ、よく分からないけれど」

「ふふ、そうよね。私もルイリーみたいに左利きになろうかしら~」

 一方、眉根に皺を寄せて気遣ってくれるルイリーに笑みを見せたナシャは、冗談交じりに呟いた。

互いに気に病まないよう無意識に思っているのか、腕を気にしつつも、二人の口調はだんだんと明るくなってきている。

「お、名案だね。じゃあさっそく特訓してみようか」

「冗談よ。左利きになるより腕が治る方が絶対に早いもの」

「いや、両方使えるに越したことはないよ、ナシャ」

「えー」

 いつの間にか楽しそうに身を乗り出して「文字を書く練習をしてみよう」なんて言い出したルイリーに、ナシャは笑うと口を開いた。

左手で文字を書いたことなんてないし、絶対無理なのは明白……。


「――ナシャ、ちょっとだけいいかな」

「……!」

 だが、答える直前、不意に部屋の扉がノックされて、向こうから兄の声が聞こえてきた。

こちらも、ナシャが怪我をして以来、過剰に心配してくれているが、今はルイリーが傍にいるせいか、いつもより声音が硬いような気がする。

「兄様? ……ええ。開いてるからどうぞ」

「何の用かな、ジェニー」

 内心そんなことを思いつつ、返事をするナシャの答えに、一拍間を開けて入室したジェニーは、相変わらず気に食わなさそうな視線をルイリーに向けると、眉をひそめた。

そして、こちらもなんだか微妙な顔をしているルイリーに、来室の目的を告げる。

「二十番勝負の最終戦について、内容と日取りを決めたい」

「あー」

「何だ、その気の抜けた返事は……」

 例の婚約承認を賭けた勝負の話をし出すジェニーに、ルイリーは最早面倒そうな顔で呟いた。

最初は心底楽しみにしていたジェニーの馬鹿面も、ナシャと想いが通じ合った今は、割とどうでもいいことになってしまったようだ。

「はぁ。しょーがないな。手短に頼むよ、ジェニー」

 その証拠に、しばらく煩わしげな顔で沈黙していたルイリーは、やがて、しぶしぶ腰を上げると、内容をここでではなく別室で話したいという彼に、視線を合わせて言った。

彼の口調は明らかにやっつけで、ジェニーは怒り心頭の思いだったが、ここで大声を出すわけにはいかないせいか、何とか感情は飲み込んだようだ。

その代わり、視線も合わせず部屋を出て行く彼に、ルイリーはついて行きながら、ナシャに手を振って言った。

「ちょっと待っててね、ナシャ。すぐ戻るよ」

「うん。いってらっしゃい」


 ナシャの部屋を出た二人は、無言のまま、数室離れたところにあるジェニーに自室へやって来た。彼の自室は全体的に黒っぽい装飾でまとめられており、明るくてかわいい印象のナシャの部屋と同じ構造には見えない。

それに、ルイリーが彼の部屋に入るのは初めてだったが、互いにそんなことはどうでもいいのか、彼と向き合ったジェニーは、詳細を端的に告げた。

「内容は第一戦目と同じ、真剣での決闘で片を付けたい。日時に希望はあるか?」

 暖炉で炎が爆ぜるパチパチという音だけがかすかに聞こえる室内で、ジェニーはそう言うと、睨むようにルイリーを見上げた。

これまで十九回に亘り様々な勝負をしてきたが、やはり最後は、直接的な決闘で勝敗を決したいようだ。

「日にちも時間もいつでもいいよ。大体家に居るか、ナシャのところに遊びに来ているか、どっちかだからね」

「……暇人だな」

 そんなジェニーの提案と問いかけに、ルイリーは頷くと、あまり頓着した様子なく言った。

父が仕事をどっさり持って来ない限り、自由時間の多いルイリーにとって、日時はあまり気になるものではないらしい。

「なら来週末、一戦目を行った王都郊外にあるうちの別邸で。午前中は父とともに商談があるから…そのあと、午後二時を目安に来るといい」

「分かった」

「僕の話は以上だ。出て行くといい」

 わざわざ別室へ移動した割に、二人の話し合いは、ものの一分程度で終わってしまった。

話の内容も、ナシャの傍で話してもよさそうな普通のものだったが、わざわざここまで連れてきた意味はあるのだろうか。

「……待って。ジェニー、俺からも一つ聞いておきたいことがある」

 なんとも計り知れない彼の心情をやや勘繰りつつ、退室を促すジェニーをまっすぐに見つめたルイリーは、ふと顎を引くとおもむろにそう切り出した。

彼の表情は、いつもジェニーをからかっているときとは違い、どこか真剣で、なんとなく、警戒したような雰囲気が漂っている。

「なんだ」

「先日起きた、ゴドレスト伯爵家での賊の襲撃事件。あの事件の首謀者は…きみかな?」

「……!」

 髪の隙間から覗くエメラルドグリーンの瞳を光らせ、ルイリーはずっと思っていたことを単刀直入に問いかけた。

実を言うと、ルイリーには事件の当日から、思う節があったのだ。

「もちろん、確証はないよ。でも、そうかなって」

「……なぜ、僕がそんなこと……」

「俺を殺すため、でしょう? 賊の目的が俺の命だと仮定すれば、奴らが執拗に命をもらうと脅してきたのにも納得がいくし、何より、俺を庇ってくれたナシャ以外で、あんなに大きな怪我を負った者はいなかった。何らかの理由で俺が狙われていた可能性は高い」

「………」

「でも、自分で言うのもあれだけど…俺は人に恨まれる覚えはないし、そもそもそんな感情を抱かれるほど、深く関わっている人間なんて片手で足りるくらいしかいないんだ。でももしその仮定が真実だとするならば、一番怪しいのはジェニー、きみだ」

 そう言って、沈黙を貫くジェニーに人差し指を突きつけたルイリーは、構わず話を続けると、自らの推理を展開した。

その間も、彼が反応を見せることはなかったけれど、沈黙を肯定と取ったルイリーは、もう一度正面から彼を見つめ、ストレートに問いかけた。

「ジェニー、俺を殺したいかい?」

「………………」

「妹の結婚相手として相応しくないと思った俺を、始末したかったんだろう?」

「………………」

「別にナシャにも警察にも言うつもりはない。でも、最終戦の前にちゃんと話を聞かせてほしい」

 臆することも引くこともなく一方的に話を続けるルイリーに、ジェニーはしばらく黙った後で、大きくため息を吐いた。

そして、彼の視線から逃げるように、俯いたまま答える。

「……ああ、殺したいよ」

 低く唸るように吐き捨てるジェニーの言葉が、これまでのルイリーの推理を裏付ける。

だが、殺意を持たれていたと分かっても、ルイリーは態度を崩さなかった。

それどころか、「そうか」と、一言だけ呟いた彼は、何とも思っていない様子だ。

そんなルイリーの態度に、ジェニーはまたしばらく葛藤していたが、やがて、悔しげに表情を歪めた彼は、絞り出すように言った。

「だけど、あのとき、お前を庇ったナシャを見て、分かったんだ。ナシャにとってお前は…悔しいが……大事な存在なんだと……」

「………」

「だから、もうあんなことはしない。だが、認める気はない。最終戦で正々堂々勝負し、お前を負かしてみせる」

 それが、すべてを知られたジェニーの決意だった。

彼の声音から本心であることを悟ったルイリーは、ふと笑みを見せると、いつもの彼をからかうときの口調で答えた。


「それは実に楽しみだね。期待してる」



 ――そして迎えた二十番勝負最終戦の日。

二人の勝負を見守るため、家族について王都郊外の別邸を訪れていたナシャは、併設されている大きな温室で彼らの到着を待っていた。

流石に雪の積もる庭で真剣を使って勝負をするのは危険なので、今回は、植物をできるだけ隅に寄せたこの温室で、勝負をすることになっている。

(十二時半……。もうすぐお父様と兄様の商談は終わりね。そういえば兄様、今日もやけに張り切っていたけれど、何かあったのかしら……)

 ベンチに座って、温室のガラス越しに見える別邸を見上げたナシャは、進行中の商談と兄の様子を思い出したようにひとりごちた。

ルイリーとの最終戦の日取りを決めて以来、ジェニーの気合は日ごと増加中で、今日は何も知らない父に不審がられるほどの元気の良さを見せていた。

後がない焦りが原因かは分からないが、ともかく、今回の勝負に対する並々ならぬ気合だけは間違いないのだろう。

(いよいよ最終戦……。これが終わったら私は、ルイリーの………)

 どこか引っ掛かる兄の様子を気にしつつ、最終戦のことに意識を向けたナシャは、そこまで呟いた後で、思わず自分の考えに頬を赤らめた。

この勝負はもともと、妹の婚約を破談させようと目論む兄と、その兄の馬鹿面を見たいルイリーによる、家の意思を挟まない勝負だったが、これに勝てば自分たちの障害はなくなる。

つまり、誰に反対されることもなく、ついに自分はルイリーのお嫁さんになるんだと思うと、今さらながら、なんだか照れる思いだ。

(……およよお嫁さんだなんて、どうしよう。私がルイリーの妻…? 恋人とか婚約者って言われるだけ未だに照れるのに、それ以上もうどうしよう……っ)

「ナシャ!」

「……!」

 そのとき。分かっているようで分かっていなかったこの勝負のゆくえに、今になって動揺するナシャのもとに、使用人に案内されたルイリーがやってきた。

今まではずっと友達で、最近は好きだと思える恋人だけど、彼が近い将来の夫だと思うと、なんだかもうそれだけで変に緊張してしまう。

彼女の中に兄が勝つという選択肢がないのはさておき、妙にどぎまぎした様子のナシャに、彼女の傍までやってきたルイリーは、首をかしげながら不思議そうに言った。

「あれ? なんか顔が赤いけど、天気がいいからって温室で日光浴?」

「……そんなところ。それにしても早いわね、ルイリー。残念だけど、兄様はもう少しかかりそうよ」

 近い将来を想ってときめいていた、なんて知る由もないルイリーのとんちんかんな推察に、無理やり頑張って照れを押し込んだナシャは、一つ咳払いをすると、少しだけ視線を逸らしたまま答えた。

本当は、いつもみたいに目を合わせて答えたかったのだが、どうしても照れが勝ってしまったようだ。

「別に構わないよ。今日はナシャに逢いたくて、早く出てきたんだからね」

「そ、そう……? 約束の時間までまだ一時間もあるし、お茶でも用意してもらう?」

「いや、今日はこのまま話していたい気分」

 一生懸命照れ隠しするナシャの一方、普段通りの笑みを見せたルイリーは、そう言って彼女の隣に腰かけると、どこか嬉しそうに彼女を見つめた。

そして、いつもなら第何戦目であろうと緊張も、意気込むそぶりも見せないのに、最終戦に限っては流石に思うところがあるのか、ルイリーはしばらく間を置いた後で呟いた。

「いよいよだね」

「……!」

「いよいよ最後。これに勝てばきみは俺の一生の伴侶。ちゃんと家族にも報告しないとね」

「そ、そそそうね……っ」

 さらりと未来を告げるルイリーの不意打ちに、思わず目を見開いたナシャは、声を上ずらせると、顔を真っ赤にして答えた。

さっき、自分の頭で考えただけでも動揺して仕方なかったのに、直接彼から告げられる言葉はその何十倍も恥ずかしくて、本当に顔から火が出てしまいそうだ。

「フフ…。この勝負に勝ったら、プロポーズは改めてする。だから今日は傍で応援していて」

「……っ。う、うん…。絶対に勝ってね、ルイリー」

「まかせて」


 未来を想って、仲睦まじく時間を過ごす二人のもとに、商談を終えたジェニーが顔を出したのは、それから二十分ほどが経ったころのことだった。

父と商談相手を見送って来たらしいジェニーは、ベンチに座ったまま幸せそうに話す二人の姿に、一瞬、何とも言えない表情を見せたが、今さら態度を軟化させるつもりはないらしい。

その証拠に、持参した剣を両手に持った彼は、ずかずかと温室に足を踏み入れると、いつもの調子で声を掛けた。

「もう来ていたのか、ルイリー。少し早いが勝負を始める、ナシャから離れろ」

「やあジェニー。商談は失敗しなかったかな?」

 最初から最後まで気に食わなさそうなオーラを崩さないジェニーに、わざとらしい笑みを見せたルイリーは、ナシャの隣に腰かけたまま朗らかに言った。

もう大分興味は失せたものの、ジェニーの馬鹿面を見たいという彼のスタンスも、最後の最後まで変わっていないようだ。

「フン。残念だが大成功だ。僕をからかってないで早く立て」

「しょうがないな」

 不機嫌顔のまま勝負を促すジェニーの言葉に、実に渋々といった調子でベンチから立ち上がったルイリーは、目の前に広がる、温室で一番開けた場所までゆっくりと歩いて行った。

石の床にカツカツと彼の足音が響き、まるで、対戦までの束の間の静寂を強調するように、やけに大きくこだまする。

その様子を、思わず固唾を呑んで見守っていたナシャは、兄が第一戦目のときに使用した、美しい装飾の剣をルイリーに投げ渡すのを見つめ、ひとりごちた。

(いよいよ本当に、これが最後……!)

 その間も、改めて勝負内容を提示する、兄の声が遠くに聞こえる。

「今回の勝負内容は第一戦目と同様。時間は無制限、相手の手から剣を落とした方が勝ちだ」

 そして、ルイリーの挑発する声も。

「はいはい。第一戦目のときよりはマシな勝負になるといいね」

(これが、五ヶ月間の勝負の、最後……)

「………。ではこれより最終戦を始める。覚悟しろ、ルイリー!」


 ジェニーの言葉を合図として、利き手に剣を構えた二人の対決が始まった。

温室内に剣同士がぶつかり合う甲高い音が響き、気圧されるように傍にあった植物たちがわずかに揺らぐ。

相手の手から剣を落とすことが目的であるせいか、彼らの対決は必然的に剣同士のせめぎ合いとなった。互いに位置や込める力の強さを変え、剣をぎ払おうとしのぎを削る。

「……ルイリー……っ」

 そんな勝負を前に、ナシャは手を握りしめると、思わず彼の名を呟いた。

最終戦は今まで見てきたどの勝負よりも接戦で、それだけお互いの本気が伝わってくる。

息をも吐かせぬ攻防の数々に、彼女はただ黙って手を握りしめ、ルイリーの勝利を願った。


 そして……――。


「ハァ、ハァ……。これで…二十勝目。俺の、勝ちだ……!」

 十数分に及ぶ本気の対決の末、勝利を手にしたのはルイリーだった。

ぼさぼさの髪の隙間からうっすら汗を滲ませた彼は、手にした剣をジェニーに向けたまま、勝ち誇った笑みを浮かべている。

「約束通り、ナシャは俺が嫁にもらう。文句はもうないね?」

「………フン」

 心底嬉しそうに笑うルイリーと、ベンチに座ったまま対決を見守るナシャに目を遣ったジェニーは、彼の問いかけに鼻を鳴らすと、一瞬黙り込んだ。

だが、確かに約束は約束だ。これ以上の足掻あがきは、みっともないだけなのも分かっている。

だから……。

「……ああ、好きにするといい。ただし、ナシャを泣かせたら許さないからな」

 顔を背けたまま、精一杯の強がりでそう絞り出したジェニーは、悔しげな顔のまま剣を拾い上げると、それ以上何も言わずに温室を出て行った。

あとに残されたルイリーは、ついに決着となった勝負、そしてナシャとのこれからを想って、しばらく彼が出て行った方を、ただ見つめるばかりだ。

すると。

「ルイリーっ!」

「!」

 自分の左側から聞こえてきたのは、嬉しそうに弾んだ、ナシャの声だった。

歓喜の声に振り返ると、ナシャは満面の笑みを浮かべ、自分に向かって飛び込んでくる。

「……っ」

 それを両手で受け止めたルイリーは、彼女をぎゅっと抱きしめると、改めて自分の勝利を実感した。

これでようやく、ナシャを正々堂々、妻として迎えることができる。

嬉しくて、照れくさくて、でも本当に嬉しくて……。

「やった、ナシャ…俺……っ」

「すごいわ、ルイリー! 本当に、すごい!」

 腕の中で子供みたいにはしゃぐ彼女を見つめたルイリーは、同じくらいの嬉しさを抱いたまましばらくナシャを抱きしめていた。

そして、十分すぎるほどの余韻よいんに浸った後で、そっと声を掛ける。

「……ねぇ、ナシャ」

「うん?」

「これからのこと、決めようか。家族への報告。誰にも見つからない場所で」

「うん」


 これからのことを決めたい。

そう言ってナシャとルイリーがやって来たのは、アドフォード家の敷地の端にある、大きな迷路花壇……の終着点に造られた小さな東屋だった。

ことのほか複雑な造りをしたこの迷路花壇は、五代前の庭師が作成し、今のところルイリー以外に攻略法を知る者はいない。

偶然うっかり迷い込む者でもいない限り、二人きりでいられる、そう踏んだようだ。

「……懐かしい場所ね」

 少しばかり傾いて来た白い太陽に照らされる小さな東屋を見つめ、ナシャは昔を思い出したように呟いた。

「そうだね。ここは子供のころ、ナシャと初めて逢った場所だ」

 すると、ルイリーもあの日のことを思って、笑う。

連日の晴れ模様のおかげで幾分雪の解けたここは、二人の思い出の場所だった。

「あの日は確か、仲の良い幾つかの家の子供たちが集まって、かくれんぼをして遊んでいたのよね。でも私はこの広い庭で迷子になって…偶然ここであなたと出逢った」

「驚いたよ。かくれんぼなんて面倒だからって、誰も来ないだろうここで読書していたのに、突然、泣いているきみが現れたんだから」

 それはもう十二年も昔の話だ。

だけど二人とも、あのときのことを鮮明に覚えている。

初夏の少し暑い日。この場所にはたくさんの花が咲いていて、とても綺麗だった。

「……ええ。そんな私をあなたは嫌そうな顔で、でも、一生懸命慰めてくれた。泣き止むまで傍にいてくれた」

「そんなに嫌そうだったかな?」

「ふふ。ルイリーがちょっと変わっているっていう話は、前にお父様から聞いていたけれど、あのとき逢ったあなたは全然そんなことなくて、人に合わせるのが苦手なだけなんだって、分かった。……だから私、あなたのお友達になりたいって、そう思ったの」

「……!」

 東屋に目を遣りながら思い出を話していたナシャは、不意にルイリーを見つめると、ずっと秘密にしていたきっかけを打ち明けた。

ルイリーの不器用な優しさが、二人の運命を結びつけるきっかけになっていたのだ。

もっとも、あの日の偶然が、こうなるとは私も思わなかったけれどね」

「……ナシャ」

 初めて聞く、ナシャが自分の傍にいてくれた理由に、ルイリーは目を見開くと、想いを受け止めた後でそっと彼女の名を呟いた。

そして、二人の運命を永遠にすべく、言葉を紡ぎだす。

「今までずっと傍にいてくれてありがとう。この先、永遠にきみを愛し、その笑顔を守っていくと約束する。俺の妻として、これからも傍にいてくれるかい?」

「……!」

 照れくさそうな笑顔でナシャを見つめたルイリーは、改めて彼女に結婚を願い出た。

突然のプロポーズにナシャは頬を赤らめたが、もう今の彼女に迷いはない。

嬉しそうな笑顔で彼の手を取ったナシャは、彼をまっすぐに見つめると答えを出した。


「はい。永遠に誓うわ、ルイリー」




 そして、さらに数日後…――。


 今日はアドフォード侯爵家で、毎年恒例のクリスマスパーティが開かれていた。

集まっているのは、家族ぐるみで付き合いのあるほんの数家だけだが、大食堂には大きなツリーが飾られ、美しいオーナメントが、蝋燭ろうそくの光を反射して、キラキラと輝いている。

「今年のツリーも見事ですな~、侯爵」

「いえいえ、あなたが良い職人を紹介してくださったおかげですよ」

 そのツリーの前では、主催者であるアドフォード侯爵夫妻と、招待されたハリントン伯爵がワイングラスを片手に他愛のない会話を楽しんでいた。

どうやら三人とも、他の招待客や子供たちの到着を待ちながら、一足先にパーティを始めていたようだ。

「お待たせしました、父上」

「……!」

 と、そこへ、ナシャを連れたルイリーが遅ればせながらやって来た。

今日の彼は、濃紺色のジャケットに白のウエストコート、空色のタイをつけ、珍しく髪型も服装もきちんと整えられた、美しい姿をしている。

そんな息子の姿に、アドフォード侯爵は目を見開くと、不思議そうに言った。

「どうしたんだ、ルイリー。珍しいじゃないか、お前がそんな恰好をするなんて」

「ええ、父上。結婚報告の日くらい、きちんとした格好をしろとナシャに言われたもので、整えてまいりました」

「……!?」

 滅多に整えることをしない息子の珍しい姿を不思議がる侯爵に対し、ルイリーの口から発せられた報告は、あまりにも唐突なものだった。

まるで、ただ事実を告げただけのような、一瞬、何を言われたのか分からないほどさらりとした報告に、三人とも声を失ってしまう。

「……ルイリー! 唐突過ぎよ…っ、もっと順を追ってちゃんと……」

「ん?」

「――――!!?」

 だが、やや遅れてルイリーの言葉を理解するに至った彼らは、予想外の事態に目を見開くと、慌てたように言うナシャと、首をかしげるルイリーを順に見遣った。

二人が婚約者同士だというのは、当然知り得ていたことだし、いつか今のような報告を受けるのでは、と期待していた部分があったのも事実だ。

しかし、実際に受けてみた報告は想像以上に衝撃的で、驚くほど思考が追い付かない。

「…………る、ルイリー。…い、今…何と言った?」

 すると、口をあんぐり開けたまましばし沈黙していた侯爵は、聞き間違いを恐れるように、もう一度聞き返した。

事実であれと願う彼のエメラルドグリーンの瞳には、期待と動揺がはっきりと見て取れる。

そんな父の姿に、ルイリーは一つ間を置くと、改まったように言った。

「ですから、俺、ナシャと結婚します。本当に本気です。ね、ナシャ?」

「えっ。あーえっと…はい。突然のご報告で申し訳ありません、侯爵様。私たち、その……」

「ナシャを必ず幸せにします。改めて、ナシャを俺に下さい。ハリントン伯爵」

 突然声を掛けられたはいいものの、照れてそれ以上言えなくなるナシャの一方、彼女の手をぎゅっと握りしめたルイリーは、滑稽こっけいなほど目と口を全開にして驚くハリントン伯爵に、もう一度願い出た。

最初にこの願いを口にしたときは、ただ事実を伝えるだけのからっぽな言葉だったけれど、想いが乗った今、この言葉を出すのは、想像以上に照れ臭い。

「……ルイリーくん」

 だが、絶対に乗り越えなければいけない場面だと、伯爵に向き合う彼の言葉に、ようやく我に返ったハリントン伯爵は、照れながらも寄り添う二人を見遣った後で彼の名を呟いた。

そして、珍しく緊張した顔で答えを待つ彼に、大きく頷いてみせる。

「もちろんだとも。娘のことを末永くよろしく頼むよ」

「はい…!」

 人のよさそうな笑みで頷く伯爵に、ルイリーはほっと胸をなでおろすと、嬉しそうな笑顔を見せた。

これでもう自分たちの関係は揺るがないものになる。

そう思うと本当に心の底から嬉しくてたまらなかった。

「よくやった! ルイリー! 嬉しいよ」

「!」

「わたくしも嬉しいわ。ついに結婚! おめでとう!」

 すると、息子の結婚という喜ばしい事実に、涙せんばかりの様子で震えていたアドフォード侯爵夫妻は、ついに感極まった様子で息子をぎゅうっと抱きしめた。

この、人間への興味ゼロ息子が結婚する日が来るなんて、二人とも本当に嬉しすぎる予想外だったようだ。

「……父上、母上……」

「いやあ、式場の準備を進めておいて正解だったよ。今日は何と素晴らしいクリスマスだ!」

「……え」

 そんな両親の様子に、ルイリーはちょっと戸惑った顔をしていたが、続けざまに言う侯爵の言葉に、目を見開いた。

隣を見ると、ナシャも全くの初耳だったらしく、びっくりした顔をしている。

「実はお前たちには内緒で、もう式場は予約しておいたんだ。式は三月に挙げるぞ! それまでにしっかり準備をしなければな!」

「ドレスのデザインも決めないとね、ナシャ! 被服店の経営者の威信にかけて、世界一かわいいウエディングドレスを作るぞ!」

「………」

 当事者をよそに盛り上がる彼らの言葉に、ナシャは二ヶ月ほど前、そろそろ式の日取りを決めたいなんて言い出した父がいたことを思い出した。

あのときはジェニーが絶賛抵抗中だったため、それ以上追及することもなかったが、まさか本当に会場も日取りも決めているなんて……。


「――…はー、驚いた。俺たちがサプライズする側だと思っていたのに、まさか、もういろいろと話が進んでいた、なんて報告を受けるとはね」

「ほんと、私も驚いたわ。お父様も侯爵様も私たちを結婚させる気満々だったのね」

「フフ、でも楽しみだ」

 わくわくした様子でプランを説明する家族との会話を終えたナシャとルイリーは、しばらくしてクリスマスパーティを抜け出すと、小雪のちらつく庭に出ていた。

庭園には、至るところにランタンが置かれ、淡い光と雪が舞う風景はとても幻想的だ。

(……そういえば、ルイリーと最初に婚約の話をしたのも、夜の庭園だったわね……)

 そんな美しい風景を見つめたナシャは、あの日のことを思い出すように心の中で呟いた。

あの日、三十五人目のお見合い相手に断られたナシャの気分は、闇より深いどん底だった。

だからこそ、パーティを抜け出して傷心を癒す彼女の前に現れ、無駄に絡んでくるルイリーに、怒りさえ覚えていたはずなのに。

(あのときはまさか、本当に彼と結婚することになるなんて、思いもしなかったわ。……だけど、あの連敗があったからこそ、ルイリーはある種の興味を持ってくれたわけで……。そう考えると、お見合いの日々も、悪いだけじゃなかった)

「ナシャ」

 今ならお見合いの連敗も、笑って過去の思い出にできる。

そのくらいの幸せを実感しながら、ルイリーとともに夜の庭園を散歩していたナシャは、不意に自分を呼ぶ彼の声に振り返った。

「俺からきみに、贈り物だ」

 そう言って、どこか照れた顔をするルイリーが取り出したのは、小さな白い箱だった。

水色のリボンがかかったその箱は、ランタンの光を受け、美しく輝いている。


「……!」


 驚くナシャを前に、箱を開けた彼が取り出したのは、サファイアとエメラルドをあしらった、指輪…――。


 雪と幻想的な光に彩られた指輪は、とても美しくて、忘れがたいほどに、ときめく。

そんな美しい指輪をそっとナシャの左手薬指にはめたルイリーは、満面の笑みを浮かべると、囁いた。

「きみと永遠を誓う、証として」

 改めて永遠を語る彼に、ナシャは笑顔を返すと、ぎゅうっと彼を抱きしめた。

嬉しくて恥ずかしくて、でも、ずっと終わらないでほしい幸せ……。


 どうか、この幸せが永遠に続きますように――。


 願いを込め、ルイリーと寄り添うナシャの、苦難に満ちたお見合いと婚約をめぐる話はこれで終わり。

三十六番目の婚約者との永遠を手にしたナシャは、こうして、幸せになった。

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ナシャと36番目の婚約者 みんと @minta0310

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