バレンタインデー
恋が破れる音がした。
残業をしていると、隣に座っていた先輩から、飲みに行かないかと誘われた。もともと先輩と私は、社宅に住んでいた関係で、最寄り駅が同じだった。だから、せっかくなら、そこで飲んで帰ろうよと言うのである。
「私、最近引っ越したんですよね」
嘘ではなかった。実際私は、先月、東京の別の街へと引っ越した。付き合っている彼が、同棲をしたいと言い出したから。社宅は同棲ができるような広さではないし、高い家賃を払って暮らすことにしたのである。
数年前に合コンで知り合った彼は、そのときからふらふらとしていた。好きだと言われ、特にそのとき気になる人がいるわけでもなかった私は、なんとなくで付き合い始めた。ただ、彼の仕事は安定せず、ジョブホッパーと言えそうなぐらい、転職を繰り返していた。勤続年数が長くなり、安定した給与がもらえる私とは全く違う。それでも、別れる理由も特に見つけられず、ここまで何年も付き合い続けてしまった。
先輩は去年の春に、転勤で九州からやってきた。独身で、付き合っている人もいないらしい。よく仕事もできて、若手のホープと言っても申し分ない逸材だった。仕事というものはできる人のところに集まるもので、先輩は涼しい顔をしつつも、いつも遅くまで仕事をしていた。そんな先輩なのに、私がお願いした仕事は、特別扱いをして、いつでもすぐに仕上げてくれた。
先輩が私に好意を持っているのは明らかだった。私は私で、ここで腐れ縁を断ち切って、先輩と結婚したほうが、幸せになれるのかもしれないと思っていた。だから、先輩が私に思いを伝えてくれたら、彼とは別れるつもりでいた。でも、思慮深い先輩はそれ以上の深いアプローチをしてくることはなく、私は流されるまま、彼と一緒に暮らすことになってしまったのだった。
先輩に誘われたときには、すでにかなり深い時間になっていた。今からかつての最寄りに飲みに行っていたら、帰れなくなる。それを言い訳したくて、引っ越したのだと言ったのだった。
先輩は「あ、そうなの?」と、声色ひとつ変えずに返答をした。ただ、一瞬だけ、淋しそうな表情をしたのがわかった。結婚するのかと聞かれて、いやそこまでではないんですと返事をした。何ひとつ嘘はついていないが、胸を締め付ける何かがあった。
結局先輩は、そのあとしばらくして帰って行った。私もそれを追うようにオフィスを後にしたが、先輩はすでに新橋の駅の明かりの中へと消えてしまっていた。
駅に向かう道、デパートの前を通る。今日の昼前、出先から帰ってくるときに迷ったあげくにここで買った小箱は、結局かばんから出せずじまいになった。
「もう、間に合わなくなっちゃったな」
かばんの中の包み紙と同じ色の紙袋を持った男女とすれ違ったときに、そう涙声でつぶやいている自分がいた。
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