瞳に映る空

秋野ハル

瞳に映る空

 車道の向こう側で後輩を見かけた。

 息を切らして走る彼女の弾む体、揺れる前髪。普段はその目を覆い隠すほどに長い黒髪の隙間が、ほんの一瞬だけ青く輝いた気がして。

 見上みかみかいは、思わず立ち止まった。


(あいつ、あんな目の色してたんだ)


 後輩は快に気づくことなく走っていく。いつも不安げな彼女の口元が、今は喜びに緩んでいる。快にはそう見えた。


(あいつ、ああいう顔もするんだ)


 彼女が手に提げたビニール袋の中に板チョコがうっすら透けて見えて、快はふと、もうすぐ2月14日であることを思い出した。


「あいつも、誰かにチョコを渡すのかな」


 ◇


 河原に咲く一輪の花を、スケッチブックに描いた。

 白い花弁に不揃いな枝葉。今しがた描き上げたばかりの、本物そっくりのそれを見て、快は呟いた。


「スランプだ」


 河原に座りこんでボサボサの髪を掻き、大きな目で画用紙を睨む。そんな快の後ろから、誰かが画用紙を覗きこんできた。


「大変だ」


 そう呟いたのは、度のキツい眼鏡をかけた学ランの中学3年生。快が所属する美術部の部長はその場で立ち上がると、周囲へと呼びかけた。


「快が普通に上手い絵を描いてるぞ!」


 すると河原で絵を描いていた他の美術部員たちが数人ほど集まってきた。


「あの天邪鬼が!?」「ついに世論に屈したか!」「熱でもあるの?」

「おいみんな、俺をなんだと――」

「夜空に太陽を描いたり」「夏の木々を桜色に塗ったり」「リンゴのデッサンがアップルパイになったりな」

「ぐっ!」


 部員たちからのありがたい評判が雨あられ。最後に部長が締めくくった。


「ま、日頃の行いだな」

「俺は俺なりにちゃんと描いてるんだって! そもそも芸術ってのは心で描くものでうんぬんかんぬん」

「そんなお前がスランプになると、これか」


 部長に絵を指差されて、快の口が止まった。自身が描き上げた、現物に忠実な絵を見て快は渋い顔をした。


「なんか、なに描いてもピンと来ないっつーか……」

「あ、バレンタインか」

「!?」

「まさか、チョコが貰えなかったからへこんでるとか」

「!?!?」


 本日は2月15日。快の唖然とした顔を見て、むしろ部長の方が驚いた。


「……まじか! お前みたいな芸術馬鹿でも色気づくことあるんだな!」

「べつにそんなんじゃ! ない……のか……?」


 自分の反論を自分で疑い、快はずぶずぶ考える。


(気になってるのは確かなんだ。あいつが誰にチョコを渡したのか)


 弾んだ前髪の隙間から見えた青い瞳。喜びに緩む口元。初めて知ったその一瞬が、焼き付いて離れない。

 長谷ながたに 美空みそら。美術部の後輩である彼女が数日前にチョコを買って走るその姿を偶然見かけた。その日から、快のスランプは続いている。


(……俺、実は美空のことが好きなのか?)


 思いつきを、いやいやとすぐ否定する。


(あいつの作る物は面白い。それになにかと放っておけない後輩だ。だからよく話すけど、色恋とかは違うだろ。だってほら、俺はもっとこう、色々大きな方が)


「――ま、悩みがなんであれだ!」


 ばぁん! 快の背中が快音を立てた。


「いってぇ!」


 振り向けば、部長が手のひらを開いて笑っていた。


「『描きながら考える』のがお前の信条なんだろ? だったらとにかく描きまくれ。今日はせっかくの野外活動なんだ。被写体には困らんだろ?」

「部長……」

「お前みたいな天邪鬼が1人くらいいる方が部活は楽しいんだ。だからスランプなんて早く治せよ!」


 そう言い残して部長はその場を去って行く。快はその背を見送って、笑った。


「そうだな。スランプの原因は分かってるんだ。気になるから描けないってなら!」


 一度膝をぐっと曲げて、快は一気に立ち上がった。


「直接聞く方が俺らしい!」


 ◇


(って、意気込んだはいいものの……)


 快はほどなくして、探し人を見つけた。川岸にしゃがみ込んでいる、セーラー服を着た小さな背中。それを前にして考える。


(まずはとにかく、いつも通りのノリで!)


 覚悟を決めて近づいて、その背中に話しかけた。


「よっ、美空」

「ひょえっ」


 美空は肩をびくっと揺らしてから、ゆっくり振り返った。


「見上、先輩……」

「おう。調子はどうだ?」

「調子、えっと」


 美空は自分の手元に視線を落とす。彼女はその手に石を握っていた。それはごくありふれた、ただの石ころであった。


「え? それを使うのか?」

「は、はい。これに色をつけて、動物の置物みたいな」


 そう聞いた途端、快の瞳が輝いた。


「また面白いこと考えるなお前は! なぁ、俺もここで描いていいか?」

「え!」


 美空はぴたりと固まって。それから無言で頷いた。


「ありがとな!」


 快はすぐ近くにあった平たい石の上に腰を下ろすと、早速鞄から画材を取り出した。スケッチブックを開いて、色鉛筆を取り出して、ひとまず目についた対岸の物寂しい枯れ木を描きながら、考える。


(あの石がどうなるんだろう。あいつそういうの上手いから……って、普通にワクワクすんなって!)


 ハッと気づいたときには、物寂しい枯れ木が描き上がっていた。


(自然な感じで聞き出すんだよ! そう、自然な感じで、チョコの話を……?)


 と、不意に隣で音が鳴った。がちゃり。快が思わずそちらを向けば、美空も画材を準備していた。絵の具と筆と水入れと。それを見て、快は意を決した。


(描いてから考える!)

「美空!」


 呼びかければ、美空が慌てて振り向いた。


「ひゃいっ」

「こないださ! こないだ……から。なんか俺、スランプみたいでさ」

「そう、なんですか?」

「おう。だから今日はいい気分転換になればなって。お前の作品も、楽しみにしてるぜ!」

「が、頑張ります……!」


 そして美空はさっと俯いて作業に戻った。

 会話が終わった。

 快は心の中で悲鳴を上げた。


(無理だって! どうやっても不自然になるって! ああもう、こうなったら――一旦横に置いといて、とにかく描こう!)


 決めるやいなや、快はスケッチブックに殴り描き始めた。


(俺の頭は単純なんだ! 描いてるうちに忘れて、忘れて……)


 川岸を描く。ランニングしている人を描く。ポイ捨て禁止の看板を。頭上のもやついた曇り空を……


(面白くねー!)


 どれもこれも、心にちっとも響かない。溜まった憤りを発散するため、また描く物を探して目の前の地面へと目を向けた。

 そのへんの石ころを描く。手のひらサイズの真っ白なウサギを描く。お座りした茶色の柴犬を描いて、ふと気づく。


(犬?)


 快が目の前の被写体をよく見れば、そこにあったのは全て石ころであった。

 ウサギを模して塗装された丸い石と、お座りした柴犬を模した三角の石。そこに今、石ころのニワトリがそっと置かれた。


「あ」


 快が気づいた。ニワトリを置いたのは、美空の手であった。その美空と目が合った途端、彼女は慌てて手を引っ込めた。


「あ、あの。先輩、調子悪いなら、和めばいいかなって、あの、余計なことして」

「可愛いな!」

「ひゅ」


 美空の喉から変な声が漏れた。一方で、快は迷うことなく柴犬を手に取って、そのままじっくり観察していく。


「店で売ってる土産物みたいだ。よく見りゃ足や耳の部分が出っ張ってるし、どれも石の形をよく活かしてる!」


 快は子供のような無邪気な瞳で、美空を見た。


「お前はどこからでも、こういう面白さを引き出せるんだな。俺はそういうの鈍いからさ、やっぱすげーよ!」

「!」


 言われた美空は自らの手と手をぎゅっと絡めて、息を飲んで、それから。


「せ、先輩も!」

「うぇっ?」

「先輩も、すごいです。いつも自由で、心のまま描くことに、堂々としてて」

「ははっ。それって俺が適当ってことか?」

「ち、ちがっ! 私、全然喋れなくて、でも描いたり作ったりすれば伝わるからそうしたくて、それができる先輩は本当にすごくて、あの、あの」


 美空の拙い言葉を、快は心地よさそうに聞いていた。彼は柔らかく目を細めて、ぽつりと言った。


「俺も同じかもな」


 瞬間、美空が息を呑んだ。


「先輩、も?」

「例えばさ、晴れた空ってすげー綺麗じゃん?」

「……え?」

「太陽がすげー眩しくてさ。どこまで見上げても果てがなくて、青と白が混じりあってて、千切れ飛ぶ雲がまた綺麗で」


 快はいきなり語り出して、美空はぽかんと口を開けて――


「それだよ!」


 快は手に持った鉛筆で、美空をびしっと指し示した。


「!?」

「こうして喋っても分からないだろ。でも絵なら、俺のを一緒に現わせるんだ。俺はさ、俺の見たすげーものを誰かに……つーかたぶん俺自身が知りたくて、」


 そこで快は口を抑えた。絵の隙間から覗く頬が、少しだけ赤くなった。


「……なんか恥ずかしいな。俺も説明下手だし」


 快はちらりと美空を見た。視線の先で、彼女の口は微笑んでいた。


「私も。私も自分を知るために形にすること、たくさんあります。だからすごい分かります」


 美空は淀みなく、はっきりと言った。快は驚いて、口を隠す手をゆっくりと離した。


「……まじ?」

「まじ、です」


 快の口が、にんまりと弧を描いた。


「いよぉーし! なんかなんか今なら描ける気がする!」


 快はすぐに鉛筆を取った。喜びのままに筆を走らせて、走らせて。


(すげー嬉しいなぁ! なんか、なんかさぁ――)


 ぴたりと、手が止まった。


(美空が誰かにチョコ渡すの、なんかやっぱりヤなんだけど!?)


 筆がまた進み出す。今度は怒りに任せて。


(くそーどこの誰だよ美空にあんな顔させるやつ! いや待てもしや自分で食うために……? いやでもやっぱ誰かのためじゃなきゃああいう顔は、)


 と、そこで快は気がついた。自分が今、なにを描いているのかを。


「げっ」


 半端に描かれているのは、走る少女の一枚絵。板チョコが透けた袋。長い前髪と緩んだ口元――あのとき見た、美空の姿そのものであった。


「やべっ……!」


 快は焦り、すぐにその絵を捨てようとして――ほんのわずかに、魔が差した。


(せめて、ここまでは)


 気づけば一本の色鉛筆を手に取って、弾む前髪の隙間にそっと差し入れた、それは青色。快晴の空と同じ色。


「あ、そうか」


 その瞬間、快はハッと空を見上げた。もやもやとした曇り空。その向こうをじっと見つめて。


「描きたくて、堪らなかったんだ」


 快の手からスケッチブックが落ちた。快はそれを気にもとめず、大股でひとっ飛び。また石ころに色を塗っている美空の元へと着地した。


「え、せんぱ」


 彼女が見上げると同時に、快は屈んだ。そして快は突然、美空の前髪を掻き上げた――見開かれた瞳は、確かに青く澄んでいた。


「綺麗だ」

「っ――!?」


 美空は肌を真っ赤にして、快から一気に離れた。彼女は前髪を手で押さえながら叫んだ。


「駄目ですっ!」


 快はじっと、美空を見つめて問いかけた。


「なんで隠すんだ? 綺麗なのに」

「だってみんなと違うの、恥ずかしいし、怖い、じゃないですか」

「だったら描けばいいんだよ!!」


 快は勢いよく立ち上がって走り出した。美空は唖然としたが、快は振り返ることなく、先ほど置いていったスケッチブックを拾い上げた。白紙を開いて色鉛筆を手に取って、なにかを描き殴り始めた。

 忙しなく動く快の手。その中には青色が握られていた。美空は思わず声を上げた。


「先輩、その色」


 美空は少しだけ手を伸ばして、すぐに引っ込めた。


「うう……」


 固唾を呑んで、快を見守る。その視線の先で、快は色鉛筆を取っ替え引っ替えしていく。水色、白、レモン色、橙……と、不意にその動きが止まった。快は言った。


「できた」


 快は急に立ち上がり、またひとっ飛びで美空の元までやってきた。


「え」


 と美空が驚く間もなく。快は彼女の手を掴んで引っ張りあげた。


「行くぞ美空! 俺の見た物を見せてやる!」

「え、わぁ!?」



 快は美空を引っ張り走って、目当ての相手を探して見つけて、思い切り叫んだ。


「部長見ろーーーー!」


 そして快は美空の手を離すと、スケッチブックを両手で掲げながら部長の元へと駆け寄った。


「なんだなんだ? スランプはもう……」


 振り返った部長は、一度だけ驚いた。それからにやりと歯を見せた。


「ったく。今日は曇り空だってのに、絶好調じゃないか!」

「おうよ、自信作!」


 2人の声を聞きつけてか他の部員も数名やってきて、快とその絵を取り囲んだ。


「色遣いはほんと綺麗だよなお前」「奥行きと清々しさが良いねぇ」「でもさ、なんで晴れてんの?」


 みんなが口々に感想を言う……その輪から少し離れたところで、美空は取り残されていた。


(先輩、どんな絵を描いたの?)


 好奇心が、その足を動かした。


(私の瞳と同じ色で)


 怯える心が足を止めた。そのとき、脳裏に声が過ぎった。


 ――綺麗だ


(見てみたい)


 美空の足が再び動き出す。その一方で、部長は快に言った。


「自信作なら、タイトルは欲しいよな」

「それならもう決めてある!」


 快が言い切ったその直後、美空がやってきた。彼女はおそるおそる、快の絵を覗きこんで。


「……!」


 息を呑んだその直後、快の声が響き渡る。


「――瞳に映る空!」


 掲げられたスケッチブックには、果てのない快晴がめいっぱいに描かれていた。


 ◇


 日が沈んでいくその頃には、空もすっかり晴れていた。

 そうして茜色に染まった河原を快は歩く。うっかり置いていった画材を取りにいくために。


「う~ん、すっきりした!」


 歩きながら背伸びして、体を解す。


「いい絵が描けて、俺の気持ちも分かった! それにチョコも、チョコも……」


 快は立ち止まって、気がついた。


「なんもすっきりしてねぇ!」


 美空は誰にチョコを渡したのか。結局なにひとつ分からなかった。


「つかむしろ、余計に気になるんだけど……くぬぬ、美空……!」

「はいっ」

「みそ……え?」


 気づけばそこには、噂の当人が立っていた。

 はぁはぁと、彼女は息を切らしている。乱れた前髪の隙間から、青い瞳が快を射貫いた。


「うぇ!? いつからそこに!」

「あの、さっき」

「今の聞いてた!?」

「え?」

「なんでもない! それよりどうし……」


 と、快は気づいた。美空の腕の中に抱えられている物に。


「あ、俺の鞄。もしかして、わっ」


 美空が急に、快の胸へと鞄を押しつけてきた。


「なにごと?」

「お礼、です!」

「へぁ?」

「本当は渡すつもりなくて、でも先輩が勇気をくれたから、私も頑張らなきゃって思って」


 美空の頬が、みるみるうちに赤く染まる。


「あの、今日は、本当に、ありがとうございました!」


 頬の赤みがピークに達したその直後、


「また明日です~!」


 美空は急に背を向けて、目にも留まらぬ勢いでどこかへ走り去っていった。

 取り残された快は、ただ呆然と立ちつくした。


「お礼って……さっきの絵の……?」


 困惑しながら、ひとまず鞄を開いてみた。すると『お礼』はすぐ見つかった。


「これは……」


 鞄の中にあったのは柴犬石ころが一匹……と、もうひとつ。見覚えのないラッピング袋もそこにあった。


「?」


 快は袋を取り出して空に掲げてみた。透明のラッピング袋が夕日を透かせば、その中身が露わになる。その瞬間――快は、思いっきり叫んだ。


「ぃやったぁーーーー!!」


 晴れ渡った夕焼け空を、チョコクッキーの鳥が飛んでいた。

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