34.冷たいわけじゃない
また一つ、音が響いた。火が弾け建物が崩れる音だ。
地面が揺れ、今居るこの建物も揺さぶられる。パラパラと屋根から降ってくるのは、もうすでに崩れかけだということだろうか。
顔に落ちてきた欠片を手で払い、サロモンは一瞬笑みを引っ込めた。
「ねえ、知ってた? 王冠があると、どんな無茶も言えるんだよ。己を嫌っている女を抱くことだってできちゃうってこと」
瞬く。
笑い直したサロモンは首を傾げた。
「そうして生まれた子供は不幸だと思わない?」
「父上がそんなことをするわけないだろう!?」
フィリベールが鋭い声を上げても、彼は口を閉じない。
「もしかしたら、陛下はジェラルディーヌ王妃を嫌っていたかもしれないよ? 大っ嫌いなミュラン宰相に押しつけられた、深く愛した前妻の喪が明けるなり押しつけられた妃なんだから。ジェラルディーヌ王妃も嫌いで、ジスラン王子のことだって嫌いだったかもしれないよね。もう死んじゃったから、どうでもいいけど」
思わず黙る。サロモンは首を横に振った。
「それに俺が言っているのはこの国のことじゃない。ま、今の君たちには関係ないかな」
溜め息を吐き出して、彼は何か投げてきた。
フィリベールが慌てて手を伸ばす。
「役に立ててね、偽物の指輪だよ。もし、あんたたちが此処から逃げ出して生きていけちゃったら、すこしくらい愛を信じてもいいかな」
「何を言いたいの」
アニエスが問うと、サロモンはまた笑う。
「君がその王子様を王子様でなくすことができたら、愛は王冠より冷たいわけじゃないってことにならないかい?」
ドン、とまた音が響いた。さらにひっきりなしに響く。焔はもう王宮中を駆け巡っているのだろう。
「あーあ、本当に逃げないとね。黒焦げになっちゃう」
「おまえはどうするんだ」
「ちゃんと逃げ道を用意しておくくらいの知恵はありますよ、やだなぁ」
舌を出して、サロモンは現れた時のように木を登っていった。
「どうやって逃げるつもりなんだ」
呆れたようにフィリベールが呟く。
「それよりも、さっきの話が何のことなのか気になるのですが……」
アニエスもぼうっとしかけて、頭を振った。
「いいえ。私たちも、此処に居続けないほうがよろしいでしょうね」
手摺りだけだったはずが、じりじりと床にも焔が広がっている。それを認めて建物に戻る。
中を焔と煙が満たすのもすぐだろう。
「誰もいなくて良かった」
と言ったフィリベールに、アニエスは眉を吊り上げた。
「この事態を予測していたわけでは無いですけれども!」
「結果的に良かっただろう?」
笑い出したフィリベールに手を握られ、引かれる。走り出す。
焔が灯り代わりになっているとはいえ、煙が廊下を簡単に進ませてくれない。
さらに。
「あいつ、一人で来たわけじゃなかったんだな」
「そのようで」
簡単な革の鎧を着けた戦士が何人か見える。おそらくはハルシュタットの手の者、セドリックと共に指輪を捜索に来たのだろう。
「火を付けるなど、余計な手回しを!」
「我らが来ると見越しての罠か!」
分かってもいないし、火を付けてもいないのだが。彼らには関係のないことだし、言うつもりもない。
傍に残されていた棚を蹴飛ばして、一番手前の剣士にぶつける。
声を上げてひっくり返った相手の横をすり抜ける。
剣を振りかざす彼らに背を向けて、走る。王宮の構造を知っている分こちらが有利と信じ、三階から一階へ最短の経路を駆け下りる。
だったのだが。
「そ、そこの角は行き止まりでは!?」
アニエスが焦っても、フィリベールは止まらない。
「いいから付いてこい!」
叫ばれて、走り続ける。
壁の向こうが小部屋となっている廊下の突き当たり、そこまで来て壁を背に止まる。
「そら、お探しの指輪だ!」
叫んで、フィリベールは何かを窓の外へと投げた。
一瞬の躊躇いの後、追ってきていた三人が三人とも、庭へ飛び出す。
その隙に空いた通路を戻る。
走るのを止め、息を整えながら歩く。
「今投げたのは」
アニエスが聞くと、フィリベールは鼻に皺を寄せた。
「サロモンに寄越された偽物らしいほう」
そのまま、襟元をくしゃりと握る。
「父上の指から俺が取ったのは、まだ持っている。捨てられないあたり、どうしようもないな」
苦しげに呻いた後。
「急ごう」
と、彼は真っ直ぐに言った。
だからまた走り出し、建物を二つ抜け、大広間を突っ切り、玉座の前へ。
その後ろが抜け道だ。
中は真っ暗だ、だから日が昇ってから行こう。その心積もりだったのに。
「夜中に灯りもなく行けますか?」
「行くしかないんだ」
顔を見合わせ、もう一度手を握り直す。大きく息を吸ってから、暗闇に飛び込んだ。
そして。
ダニューヴ河に浮かぶ小舟は、櫂が無いから流されるままだ。それでも。
「生きてる」
船底に寝転がって、フィリベールが笑う。
「生きてますね」
その腕に抱かれたアニエスは頷いた。
服は苔と泥に塗れ、湿り、破れたところがある。髪には枯れ草や虫が絡まり、顔も手も小さな擦り傷だらけだ。
だが、抱きしめ合っていると互いの心臓の音が聞こえる。
「生きてますね」
もう一度言って、アニエスは身を起こす。
「今日からも生きていくんです」
すると、フィリベールが満足げに微笑むのが見えた。
丘の上に聳えていた王宮は、もうその形が無い。黒い煙が何筋も立ち上っているのが見えるだけだ。
河の流れが向かうのは東。その先では朝日が顔を覗かせていた。
※ここまでのお付き合いありがとうございました。
『愛は王冠より冷たい』とのタイトルのこちら、
フィリベールとアマーリエの物語の前半になります。
後半は『たしかに赤いと証を立てよ』とタイトルを改めまして
またいつか書いていければと考えております。
その際はまたよろしくお願いします。
秋保千代子
愛は王冠より冷たい 秋保千代子 @chiyoko_aki
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