33.皆で迷えばいい
問いはひとまず呑み込んで、アニエスは踏み出した。背にフィリベールを隠すように。
フィリベールの背は
絨毯の剥がされた廊下を、靴音高く辿って来た男。
彼は手に持っていたランプを床に下ろすと、優雅に一礼した。
「ヴァロア家の御当主におかれましては、ご機嫌麗しく」
フィリベールを王とは呼ばない。
暗にそう告げる科白に続いて、セドリックは問うてきた。
「こちらに見覚えは?」
上着の隠しから取り出されたのは指輪だ。月影だけでは色も形もはっきり見えないけれど、フィリベールが肩を強ばらせるのは伝わってきた。
今、指輪と聞かされたら。フィリベールとアニエスの考えに浮かぶのは一つしかない。
ヴァロワ家至宝の
こちらの動揺が伝わったのだろう、セドリックは喉を震わせ始めた。
「ええ、ないとは言い切りませんよね。こちら、ヴァロワ家の至宝と伝えられる指輪のはずだったのですが」
やはりか、と息を詰める。
セドリックは一度それを宙に放った。僅かな煌めきを残して掌に戻ってきた指輪を今一度握りしめて。
「これは偽物のようだ」
と、セドリックは言った。
視線はアニエスを通り越して、まっすぐフィリベールに。
踏み出しかけた彼を、腕を伸ばして留めて。
「偽物かどうか知っているかを聞くために来たのですか?」
アニエスが声をかける。セドリックは眉を跳ねさせた。
「おまえに答える必要が?」
「せっかく居合わせたのですから」
笑ってみせたが、頬は引き攣っている。睨まれて、言葉で勝てる気がしない。真っ直ぐ立っていられるだけしか虚勢はないらしい。
くっくっとセドリックはまた喉を鳴らし。
「まぁ、いいだろう」
アニエスを睨めつけ、フィリベールに笑いかけた。
「ご推察どおり、ここに来たのは本物を探すためです。先日、クレマン四世だった体の指から抜いたのが偽物だったのでね。
本当の指輪が絶対に必要だと言うことではありません。我らが真実の王は、そのようなものが無くとも、この地を支配できる力をお持ちですから。ただ、本物の指輪で持って正当性を主張してくる不埒者がこの先現れないとは限らない。憂いを絶っておくために本物の所在は確認しておこうかか元王宮にこうして参上した次第なのですが……」
セドリックが言葉を切ると、フィリベールが口を開く。
「……おまえが持っているそれは、父上から奪ったものか」
「いいえ、違います」
「先ほど、父上から奪ったと言っていたではないか」
フィリベールの声が上擦る。セドリックは息を吐いた。
「ええ、たしかにクレマン4世だった体から指輪を奪いました。それが偽物だったから、ここまで出張ってきて探させてもらったわけですが、見つけたのは王の寝室にあったこの偽物。それで、最初の質問に戻るわけです。こちらの偽物に見覚えは?」
フィリベールは首を横に振る。アニエスもだ。
「偽物がそんなにあるものなのか?」
「それは我々が聞きたい」
セドリックの呻き声の後。
「それに見覚えがあるのは俺」
別の声が聞こえた。
「おまえか」
ちっとセドリックが舌を打つ。
傍に聳える木から露台へ飛び降りてきたのはサロモンだ。
「お久しぶりですね、どなたとも。文官様とは夏の終わりに会って以来だし、フィリベール様とアニエスとはミューニック伯爵の城を逃げた時以来だ」
相変わらず丈の足りていない服――それも汚れとほつれが目立つようになった。あれから何処で何をしていたのか想像が付かない格好で、彼は肩を竦めた。
「俺も偽物を持っていたんだよ。最初に持っていた偽物は、陛下の指にあったのとすり替えたんだ」
「では、死体にあった指輪は」
「俺が付けた偽物じゃない?」
ピクリとセドリックのこめかみが動く。アニエスは睨んだが、サロモンは動じない。
「でも、俺がすり替えた時に陛下がしていたのも偽物だったんだ。気付いたのは城を逃げてから。いやあ、してやられた」
にやにやと笑って、サロモンは続ける。
「もしかして王宮に置いてきてたのかなってそちらさんと同じことを思って、俺も見に来たわけ。そしたら寝室の金庫にあった分も偽物じゃん。腹が立ったから、持ってた偽物と入れ替えちゃった」
「それでこれに見覚えがあると言ったのか」
「俺があんたより先に寝室に行ってるからね。ちゃんと偽装できてただろう? 昼間の使用人たちの後は誰も入っていなかったみたいに。それからもめぼしい所は全部回ってきたんだけど発見ならず。あと探すなら執務室かなって思ってたのがついさっき」
サロモンが息を吐く。
同時にアニエスは奥歯を鳴らした。
クレマン王が本物を持っていたとして、フィリベールとサロモン、どちらが先にすり替えたのかを気にしていたのだが。今サロモンが言ったことが真実なら――彼が偽物と偽物をすり替えているなら、フィリベールが本物を持っているのかもしれない。
だけど、それを言う必要はないし、何より逃がしてほしいというのが本音だ。
フィリベールと視線を交わし合う。隙をついて逃げよう、と唇が動く。
それから向き直ると、サロモンの笑みが歪むのが見えた。
「こんなことをするくらいには、本物が欲しかったんだけどね――横であんたの話を聞いてて気が変わった」
ぴくり眉を跳ねさせたセドリックが何を云う前に。
「偽物が沢山あるならそれもいいかな。皆で迷えばいい」
サロモンはつかつかと歩み出て、そのまま置かれていたランプを蹴飛ばした。
焔が付いたままのランプは勢いよく転がって、露台の端の手摺りにぶつかって、そのまま庭に落ちていく。
辺りが暗くなったのは一瞬だけ。
すぐに赤く照らされる。
「庭が」
と呟く。頬が引き攣った。
庭師たちが丹精込めた庭、バラやライラックの木を焔が呑み込んでいく。
「油が多すぎたかな。かなりの勢いだね」
と、サロモンが呟くのが聞こえた。
その焔は露台の手摺りにもじわじわと広がってくる。
遠くで何かが崩れる音がした。
セドリックが舌を打つ。
「退け、ということか」
身を翻して、彼は建物の中へ戻っていく。暗闇の中を足音が遠のく。
「すごいなぁ」
サロモンが手を叩く。
「執務室を見に行ったんだよね。まぁ、あそこはまだ手をつけてなかったから時間はあるかな?」
「……まだ?」
睨むと、サロモンも振り返ってきた。
「お二人も早く逃げた方がいいんじゃない? さっき、めぼしい所は回ったっていったじゃん。そのついでに、油を撒いたり爆薬しかけてきたんだ」
一瞬、耳を疑った。
「何をしたって?」
「だから、爆薬をしかけてあるの。ここの火が広がれば、あっちこっちのそれに移って、どんどん燃え広がるって感じかな。だって、王がいないなら王宮はいらないでしょ。王冠も」
彼の銀の髪に焔が写る。だから、笑っているのがよく見えた。
「何故こんなことを」
つい、問うと。
「個人的な恨みを晴らしたくて」
彼の笑みが深くなった。
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