32.全部捨てられる
「姐さん、本当に良いのかい? こんなに良い馬を手放しちまって」
市で行き会った男は、目を丸くしている。
アニエスはくすっと笑った。
「ええ、良いんです」
ミューニックから王都まで走ってくれた二頭の軍馬。その顔を撫でる。
「惜しくはありますが、今はお金の方が必要なので」
「まあ、この状況だ。馬は売れる宛があるからな」
「王都を脱出するのに必要ですものね」
「それを言っちゃあ、もう一回、手放して良いのかいって聞くことになるんだが」
「ご心配ありがとう。でも、大丈夫」
アニエスが微笑むと、男は金貨を寄越してくれた。
受け取って、歩き出す。
人の流れを隙間を進むあいだも、嘘か真か分からぬ様々な話が聞こえてきた。
北から押し寄せてくるハルシュタットの軍勢は、街道沿いの街で残虐な行いをしたらしい。恐ろしいと呟く声が多い。
それを受けて王都から逃げ出す人も多いと云う。有名どころの貴族たちは軒並み逃げ出した後だとか。
「なんでも、王妃様も王子様も逃げ出したってさ」
「我々のことはどうでもいいって言わんばかりだね」
「王宮に残っているのは、俺たちみたいに行く宛のない人間ばかりだってさ」
わはは、と空回りする笑いの後、誰かが言った。
「そういえば、王様は本当は死んでないって話もあるんだぜ」
「本当か!?」
つい、足を止めて聞き耳を立てる。
「だって、王様のちょんぎられた首が晒されたって話じゃないか」
「それが実は影武者で、本物は生きているって話なんだよ」
「なんだってそんな話に」
「どうしてだろうなぁ……」
ふわふわとした噂は、それ以上何も無い。
アニエスは息を吐いて、また歩き出す。見上げて向かう先は丘の上。壮麗な翼を広げるベルテールの王宮だ。
正面の門からは通してもらえなかった。
革と麻の装いでは王太子本人と信じてもらえなかったらしい。そもそも、門番を務めていた男たちは皆落ち着きが無かったから、こちらをまともに見ていなかったのかもしれない。
ともあれ、フィリベールが選んだのは、抜け道を使うこと。
丘を潜って進む洞窟があるのだ。
「抜け道があるかも、と冗談で言ったことがあったのですが」
と、苔に覆われた土肌を撫でながらアニエスは笑った。
「本当に存在していたのですね」
「知っているのは、国王と王太子だけ、ってことになってるから」
フィリベールも笑うしかない。
毎年確認のために通っていた道。外側はダニューヴ河のほとりに、内側は国王の居室だ。一年ぶりに通って、自室に飛び込んで、着替える。
それでやっと、王太子が帰ってきた、と王宮が湧いた。
国王の執務室へと真っ直ぐ向かう。その途中で感じたのは、人が少ないということ。いつもの四分の一もいないかもしれない。
誰かの腰巾着をしていたような従僕、着飾ることに力を注いでいた女官、そういった者を全く見かけない。
その一方で、槍を持つ衛兵はふらついている。重みを支えきれないらしい。
フィリベールに書類を差し出してきた文官も、袖をあちこちに引っかけて、口上もしどろもどろといった有様だ。
「今、残っている者をまとめてきました」
「他の者たちは?」
尋ねると、引き攣った笑いを返された。
「それは…… その」
「逃げたか」
俯いた相手に、言葉を被せる。
「義母上やジスランと一緒に?」
すると、頷かれた。
「南に…… イリュリアに行ったかな?」
「宰相閣下も一緒なので、まずは南方領じゃないかって噂ですが」
「そうか」
頷いて、フィリベールは眉を寄せた。
王都を通って、ハルシュタットの軍は何処まで進むつもりだろう。まもなく本格的な冬だ。雪が降ると、本国と通じづらくなる。その前に撤退か、王都に拠点を築くつもりか。
それを待って、ミュラン宰相は反撃に出るつもりがあるのだろうか。予測が付かない。
自分には軍事的な才能は無いな、とうっすら笑ってから。
扉に視線を向けた。
開け放たれたままというところも、いつもと違う。
気配が集まっているのを感じながら、口を開いた。
「我々も逃げた方がいい」
あくまでも、視線は机の前の文官に向けたまま。声は大きく、続ける。
「聞いているだろう? 北のハルシュタット国の軍がまもなく此処に到達する。そうなったら、王宮は、此処に居る人間は、どうなると思う?」
扉の向こうの気配が揺れる。どんどん増えて、隠れ切れていない。
フィリベールは笑む。
文官は蒼白な顔を上げた。
「その、我々は…… 殺される…… のでしょうか?」
「その可能性もあるし、生きれるかもしれない。でも、生きれたとして」
「無事に済むわけもないのでしょうか」
くしゃりと髪をかき回し、酷く幼い顔で、彼は呟く。
「逃げ、る?」
扉の向こうでも反響する。逃げろ、逃げろ、と。
「ああ、そうだ。死にたくないだろう?」
「ですが、逃げたところで」
「逃げた先の生活を築く必要があるな。そのために必要だと思ったら、王宮にあるものは何でも持って行って良い」
フィリベールは必死で笑み続けた。
「皆にそう伝えろ。逃げろ、と」
そして、カーテンが剥がされていく。金の燭台が、銀の食器が、乱雑に箱に放り込まれる。台車は全て使われている。
そして、開け放たれた門から丘の下へと列が進む。
見下ろして、ほっと息を吐いた。
列が切れたのは、日が沈む頃。
満天の星に上弦の月。乾いた北風が吹き抜ける。
ガランとした王宮に灯りは点かない。
「幽霊でも出そうだな」
「未練がましい幽霊が一人二人いても不思議はないですものね」
アニエスがころころ笑う。
「貴方はもう、未練は無いですか?」
「無い。全部捨てられる」
言い切ると、もっと笑われた。
「俺たちも出よう。準備は出来ているんだ」
昼間、アニエスは街に出ていた。抜け道の出口に、逃げ出した後の準備を隠すためだ。
フィリベールがやることは王宮に誰一人残らぬようにすること。
どちらも目的を達しているから、穏やかに笑っていられる。
「日が昇ったら、行きましょう」
「ああ」
寄り添って立てば、お互いの呼吸しか聞こえないはずの空間。
コツリという音が混じって、頬が強ばった。
音はどんどん近づいてくる。
そして。
「良い月ですね」
声を掛けられた。同時に振り向く。
影をしっかりと認めて、アニエスが呻くのが聞こえた。
「……セドリック」
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