31.逃げないと殺されます
蒼い顔の王太子を見て、とりあえず
「人がいませんね」
馬から下りて、アニエスは周囲を見回した。
話し声は聞こえないし、煮炊きの音がするでもない。家畜の類の気配もない。
北風と、それに飛ばされる枯れ葉を追いかける鳥の羽音が響く。チュウと鳴いたネズミが駆け抜けていってしまえば、道はガランとしていた。
「何事だろうな」
フィリベールもまた馬から下りてきて、呟いた。
「隠れているだけって可能性は?」
「ないとも言い切れませんが」
眉を潜めて進む。
並ぶのは二十軒ほど、どれも二階建てだがそんなに大きくはない。屋根にも壁にも破れはなく、特に手入れの行き届いた一軒のドアを叩いた。
最初は普通に、すこしずつ強く。最後は壊しかねない程の音。
返事はない。
馬の手綱を二頭ともフィリベールに持たせて、アニエスは右手に短剣を握った。ハルシュタットからずっと持っている、軽くて短い、でも鋭いそれ。
抜き身を構え、左手でそっと扉を開ける。
やはり何も聞こえない。
「お邪魔します」
声を上げて、踏み込む。
片付けられた鍋、棚に並んだ皿。灰一つ残っていない竈。テーブルで一輪挿しの菊が醜く萎れているだけ。
だが、その花瓶を重しにしている紙を見つけたから、慎重に摘まみ上げた。
「親愛なる息子、アルフォンスへ…… 手紙?」
このあたりは北の国の魔の手に落ちると言われている。
捕まれば恐ろしい目に遭うだろう、とも。
だから我々は皆揃って逃げることにした。
ひとまず西のウニーズに向かう。
家族のため王都へと働きに出てくれた君を見捨てるような形になってしまい、すまない。
この手紙を見たら、追いかけてきてくれ。無事に会えることを祈っている。
――との文面に続いて、アルフォンスとやらの父親の署名と、一昨日の日付が書かれていた。
一昨日の昼はまだ、クレマン王が生きていて北の軍と和平を結べないかと策を練っていた頃合いだ。
そんな頃にもう民には恐ろしい噂が広がっていた。広げられていたのだ。
望む結果の為にどこまでも手を伸ばす、我らが真実の王は本当に恐ろしい。そんな恐ろしい相手から逃げようとしていると、うっすら笑ってから。
アニエスは外に出た。
「お留守のようです」
「そうか」
「やや良心が痛みますが、今夜はこちらをお借りしましょう。食事も作れますし、寝床もありますから」
日が沈み、暖炉の中で炎が小さく爆ぜる。
フィリベールは椅子に腰掛けて、件の手紙をじっと見つめ続けていて。
「皆逃げたのか」
ポツリ呟いた。
振り向いて、首を傾げてみせる。
「死にたくないから、酷い目に遭いたくないから、住まいすらも捨てて逃げたのか」
また呟いて、フィリベールは体を震わせる。
「俺は…… どうなんだろうな」
「死にたくない、のでは?」
「だからといって、どこまで何を捨てられるのか」
引き攣った笑みを返されて、アニエスは黙る。ただ、とフィリベールは続ける。
「死にたくないのは俺だけじゃないと理解した」
何も言えない間に、フィリベールはどんどん喋る。
「この村に住んでいた人たちも、手紙を受け取るべきアルフォンスも。昨夜泊まった宿がある街の人も。きっと、王都の人たちも、王宮に仕えている人たちもだろうな。ジスランなんか以前に好きなように生きたいとまで言っていた。そういった人たちを、どうすれば、誰も死なせずに済むと思う?」
じっと見つめられる。何度も息を吸ってから、アニエスは言葉を捻り出した。
「ベルテールの軍がハルシュタットに降れば、少なくとも戦闘で死ぬ者はいなくなるでしょうね」
降って捕虜となったらどうなるか、アニエスは想像してしまったが。フィリベールはそこまで思い至らなかったのだろう。そうだよな、と笑う。
「軍が、ミュラン将軍やジョスたちが武器を下ろす条件ってなんだろうな」
「仕える王がいないと分かれば、ある程度は」
「それを言ったら、国王は、クレマン四世はもう死んだんだ。だからエドゥアルド王が立つと
そこでふと息を切って。
「違う」
フィリベールは顔を蒼くした。
「今は俺が王だ」
アニエスも息を呑む。
「そうか…… そうですよね」
大事なことに気がついていなかった、と額を押さえた。
王太子を変えようとミュラン宰相は動いていたわけだが、それが叶ったわけではない。つまり、ずっと王太子はフィリベールのままで、そして。
「王が死んだら、すぐさま次の王が立つ。その為の王太子だ」
二人、長く息を吐いた。
「エドゥアルド王の言い分を認めない者にしたら、いいえ、ベルテールの者からしたら。今はフィリベール様が国王ですね」
「そうなるよな」
長く息を吐いて、アニエスはフィリベールの横へと立った。彼もまた、椅子から立ち上がる。
「俺が死んだとなれば、皆戦うのを止めるかな」
「死ぬおつもりですか!?」
思わず叫び、腕を掴む。すると、笑われた。
「死にたくないと言っているだろう。今更訳が分からないんだが、死ぬことを考えるのは恐ろしいんだ。だから」
と、フィリベールは笑みを深くした。
「今はまだ逃げていたい」
アニエスは吹き出して、それから頷いた。
「お供します」
「おまえも?」
「ええ。私も逃げないと殺されます。だって、ハルシュタットからは裏切り者と狙われているでしょうから」
セドリックの目の前でフィリベールを連れ出した。それを見落とされているわけがない。事実は、彼やマイランド公爵によって、エドゥアルド王まで知らされているだろう。そして彼の王が何を思うか。
「おそらく、貴方もろとも消すつもりでしょう」
もう、彼の地にアニエスの居場所はない――元からあったのかも怪しいものだが。
それに、あの一瞬で決心がついたのだ。迷うことはない。
――私はこの人を死なせたくないんだ。
「だから、一緒です」
「そうか」
笑って。
自然と腕を伸ばし合った。背中に腕を回して、抱きしめ合う。
「温かい」
「生きてますからね」
クスクス笑い声を立てて、見つめ合って。唇を重ねる。何度も何度も吐息を奪い合って、抱きしめ合った。
暖炉の暖かさとは違う温もりを充分に分け合って。
「それで、悪いんだけど」
フィリベールがぼそりと言った。はい、と首を傾げる。
「一度王宮に戻りたい。あそこにいる人たちを逃がしたい。死なせたくない」
アニエスは瞬いて。
「お人好しですね」
目を細めた。
「ずっと情勢に流されて、貴方の味方になったりならなかったりした人たちなのに?」
「だが、このままだとハルシュタットに攻撃されかねない」
「もしかしたら、王都に残っているジスラン王子やジェラルディーヌ王妃たちが逃がしているかもしれませんよ?」
「それならそうなっているという状況を見ておきたいな」
同じように首を傾げておきながら、フィリベールの今のこれは問いかけではない。甘えだ。
「もう」
アニエスは、自分の頬が熱くなるのが分かった。
「頑固ですね」
「ああ」
行きましょう、と返すと、とろけるように笑われた。
ちくり、胸が痛む。
死なせたくない。このまま王冠のことを忘れさえて生きていければどんなに幸せだろう。
一度芽生えた願いは、根を伸ばし始めたのに。
「もうひとつ、気になっているんだ」
と、フィリベールは体を離し、襟元から紐を引き出した。その先には小さな革の袋。中からは紅玉が。
「これは?」
「ヴォロワ家の至宝、
「はずなんだ、ってなんですか」
「本物か偽物か分からなくなった」
眉を寄せ、首を傾ける。フィリベールは頬を引き攣らせて続ける。
「俺は、ミューニック伯爵の城で、父上の指にあったものと、偽物をすり替えたんだ」
「はい」
「城から逃げる時に行き会ったサロモンが言っていたことを覚えているか? あいつもすり替えたと言っていただろう? でもそれは、俺より前か、後か」
「つまり、最初にクレマン王が持っていたのが本物だとして、それを持っているのが貴方かサロモンか分からないということですか?」
アニエスが問うと、フィリベールは頷く。
「ここにある指輪はどんな意味を持つと思う?」
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