30.こんなに変わってしまった

 城壁の外でも乱戦が始まっていたけれど、無理矢理駆け抜けた。

 二人とも傷一つ負わずに済んだのは幸いだった。

 そのまま、日が沈んでからも駆け続けて、街道を南に一つ進んだ街へ。



 場末の宿屋と呼ばれるのが似合いの建物の一室は、風通しが悪くて、臭いも埃も溜まっている。


「鼻は大丈夫ですか?」

 毛布に包まって転がっていたフィリベールを揺さぶる。

「全体的にもう駄目だ……」

 ずびっと鼻を啜る音に続いて情けない声が返され、アニエスは苦笑するしかない。


「足も痛い」

「筋肉痛ですね」

「背中もバキバキだ」

「筋肉痛ですね」

「心臓も落ち着かない」

「それは……」


 当然だ。

 眉を寄せて、毛布の端からはみ出た手を握る。握り返されて、のろのろと視線を向けられた。


「アマーリエ、珍しい格好をしてるんだな」

「街に紛れるのはちょうど良いですよ」


 ミューニック伯爵に与えられた、色こそ地味なものの織と仕立ては上等なドレス。それと引き換えに手に入れた服は、分厚い麻のベストとスカート。本当は中のブラウスも替えてしまいたかったが、妥協した。真っ白だからこそすぐに汚れていくだろうから。


「服を変えたのは、街に紛れるため?」

「ええ。この後も逃げるためです」


 取り敢えず命は繋いだものの。着の身着のまま飛び出してきたのだから、どこへ行こうにも何をしようにも物が足りないと考えたアニエスは、朝から動いていたのだ。


「勝手ながら、フィリベール様の上着も売ってきました」

「本気か」

「ええ。こちらが代わりの上着です」

「地味だな」

「街の人間はこんなものですよ」


 皮のコートはもっと寒くなっていくこれからの物だろう。


「逃げ続けるのにちょうど良いものです」

「そうか、逃げるのか」

「ええ。死にたくないでしょう?」

「……そうだな」


 もそりと身動ぎして、フィリベールはまた毛布の中に潜ってしまった。

 その背を叩く。


「お体が痛いのは分かりましたが、じっとしていられない状況なのもご理解くださいませ。は昨夜よりさらに前に進んでいるでしょう。ミューニック伯爵の残党がどこまで抵抗できているかにも因りますが、この街の近くまで来ていることは確実です」


 返事はない。溜め息を吐き出す。

「もう市の噂には上っていました。ベルテールの軍は負けている、この街がハルシュタットに落ちるのはまもなくだ、と。昨日北で大きな戦闘があったと具体的な話もされていました」

 アニエスは声を強く、低くする。

「昨日までと明日起こるかもしれないことの落差に付いていくのを躊躇ためらって、日常を保っているように見えるのが、今のこの街――この国ですから」


 そこでようやく、フィリベールはのそりと起き上がった。


「何故こんなに変わってしまったんだろう」


 微笑んで、彼はそれしか言わなかった。

 本当はもっと責めていいはずなのだ。アニエスも、ベルテールの中に差し込まれたハルシュタットの軛の一つだったのだから。


「でも、死にたくないでしょう?」


 誤魔化すように問う。

 もっとも、アニエスがフィリベールを死なせたくないのだ。

 両腕を伸ばして、抱きしめた。温かい。血が流れている、生きている人間だ。

 ゆるりと抱きしめ返された。


「自分で自分がどうしたいか、分からないな」

「では、少なくとも結論が出るまでは生きなければ」

「そうかもしれない」


 ふふ、と息を零したフィリベールの背を撫でる。

 離れると、彼はのそのそと身支度を始めた。


「簡単な食料と一介の旅人を装うのにちょうどいい服を用意しました」

「初めて着るぞ、こんな服」

「そうでしょうね」


 くすくすと笑っているうちに、通りが、宿の中が、騒がしくなる。

 街の時計台が鐘を響かせる。

「定時の鐘ではなさそうですね」

 窓から見える時計は中途半端な時刻だ。通りを騎馬の一軍が駆け抜けて、静かになる。建物の中の喧噪は収まる気配がない。


「正面の出入り口から行くのは止めましょう。誰がいるのか分からないので」


 フィリベールは引き締まった顔で頷く。だからアニエスはおどけて見せた。


「宿賃はもう支払いました。先ほど市から戻って来た時に主人に請求されたので」

「しっかりしてるな」

「ええ。彼もきっと生き延びます」


 笑い顔を見合わせて。

 フィリベールと二人、窓から飛び出した。



 伯爵の居城から拝借したのは一流の軍馬だったらしい。夜通し駆けたのに、彼らも一眠りすることですっかり元気だ。

 宿の横に入った厩舎に繋がれていた彼らの手綱を引く。

「もう一踏ん張り、よろしくね」

 鼻面を押しつけてくる首を抱いて、呟く。


「アマーリエ」

 通りを見遣っていたフィリベールが振り向く。

「向こうが街の中心、かな。あっちへの流れがあるんだが」

 指差す方向を見て、首を振る。

「門のほうですね」

 嫌でも通らざるを得ない。

 検問ができてなければ良い、と唇を噛んで。




 門にあった予想以上のものだった。




 屋根に掲げられた首――人の首だ。全部で五つ。五人分。

 遠目では、よく知らない者が見るならば、誰だか分からない。言われたことを信じるしかない。

 幸い、アニエスには、が真実なのだと分かってしまった。


 中央に掲げられたのはクレマン四世王だ。


 あの場に見捨ててきたのだ、こうなるのは予測していたはずだ。隣にいるのはミューニック伯爵で、これもまた予測通りなのだけど。

 裏切り者、と罵られている気がする。

 死んで動かない首から声が投げられてきた気がする。

 唇を噛んで、そろりと横を見た。


 フィリベールは真っ直ぐに父王を見上げている。

 強く噛み締められた唇は白く、頬も蒼い。目の下の隈が濃い。

 乾いた顔だった。


 周囲の人だかりは現実を受け入れようとしているのだろうか。ほとんどの視線が門に釘づけだ。

 門の横に鷲の紋章――ハルシュタット国の国章の付いた鎧兜の騎士が代わる代わる立つ。読み上げる内容は皆一緒だ。


「ベルテール王だった者は死んだ。これより先はエドゥアルド王を真実の王と仕えよ」


 その文句に、思い描かれていた図が出来上がってしまったのだと悟る。


「なお、王太子を名乗る者がいるが、それをエドゥアルド王は認めない。僭称者を認められた者は速やかに――」


 高らかに勝利の宣言が響く中、アニエスは隣に立ったままのフィリベールの手を握った。

「行きましょう」

 反対の手で二頭分の手綱を握って、踏み出す。

 フィリベールも馬たちも黙って付いてくる。

 もう寒い季節だというのに、背中を汗が流れていく。

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