29.あなたに死んでほしくない

 生きるか、死ぬか。覚悟を決めなければ。



 悲鳴を合図に、アニエスは広間に飛び込んだ。

 中央に長いテーブルが置かれたそこ。右手にはハルシュタットで見知っていた公爵とセドリック。

 左側にはフィリベールとミューニック伯爵。二人が庇うようにしているのは、床に倒れたクレマン王。

 その彼らに剣を向けるのが二人。足下には血を流して倒れた人がいる。


 扉の横の棚の花瓶を取り上げて、投げた。

 水も枝も入っていた壺は床を転がっていく。剣を握った二人が振り返る。その視線が刺さるのを感じながら、廊下を振り返って声を張った。

「集まれ! だ!」


 ガヤガヤと向こうから声が集まってくる。鎧がぶつかる、剣が抜かれる音が響く。


 マイランド公爵も立ち上がり、剣を抜く。

 飛び込んできたベルテールの騎士たちと、剣をぶつけ始める。

 さらに外から入ってきた剣士たちがいた。その胸には鷲の徽章――ハルシュタットの紋章が輝いている。

 決して狭くない部屋が、血で烟る。

 その合間を抜けて、フィリベールに駆け寄った。

「立って」

 手を握る。

「逃げるんです」

 呆然とした顔を立ち上がらせて、その手を引いたまま、アニエスは部屋を飛び出した。


 セドリックが夜半に現れた時点でそうだと気がつけば良かった。

 ミューニック伯爵の居城にさえ、ハルシュタットの間諜たちは蔓延っていた。進入路は用意されていた。だから、交渉の場を最終的に此処にしたのだ。

 ころころと言い分と場所を変えて相手を戸惑わせた上で、一番有利な場所を選ぶ。あの人たちらしい遣り口だ。

 もう、王の体は押さえただろう。



 広間を飛び出して、さらには庭を突っ切って、走る。

 夕陽の赤が、血の色に見える。

 そして厩舎へ。ようやく足を止めると、名を呼ばれた。


「アマーリエ」


 フィリベールは真っ青な顔で立っていた。建物からはまだ剣戟と悲鳴が聞こえる。


「これ以上あの部屋にはいたくなかった。それはそうなんだけど」

 と、フィリベールは苦笑する。

「でも、これでいいのか?」


 カチカチと奥歯を鳴らして、彼は続けた。


「俺は、父上の息子で、ベルテールの王太子だ。その責任を思えば、逃げてはいけなかったと思うんだ」

「そうかもしれませんけど」


 アニエスも苦々しい笑みを浮かべた。


「私の我が儘なのでしょうね」

 まっすぐ顔を、視線を向ける。

「考えて、考えて、あなたに死んでほしくないと思ったのです。それが、我れらが真実の王に必要なことだとしても。彼の方を裏切れば、私には死が待っているのだとしても」


 膝をつく。

「フィリベール殿下」

 頭を垂れ、両手を握りしめる。

「私の名前はアマーリエと言います。出身はハルシュタットの東、アクスラッハの街。貴族とは名ばかりの貧乏に喘ぐ家で、口減らしのために売られました。売られた先がエドゥアルド王が己のために動く手駒を育てるための家だったのです。だから私は、エドゥアルド王に尽くすように育てられ、王の手先としてハルシュタットの貴族も他の国の貴族も欺いてきました。そして、今回は、欺く相手があなただったのです」


 言葉が飛び出す度に、胸が軽くなる。


「エドゥアルド王はベルテールの地をずっと狙っていました。その足がかりとして何年も、何人も、手駒を王宮へ送っていたのです。私もその中の一人。偶々、今、王を軍を進めてきたからこのように名乗る機会ができた」


 清々しい気分だった。このまま罵られてもいいような気がした。彼に何を云われても甘受できる。


 だがフィリベールは何も言わない。ただ、じっと、身動ぎせずに立っている。

 居た堪れなくなったのはアニエスが先立った。顔を上げる。


「殿下?」


 呼ぶ。

 パチパチ、パチパチと、何度も瞬いて、やっと。フィリベールは笑った。


「驚くべきなんだろうな」

 でも、と言葉を継ぐ。

「驚けないのはなんでだろうな」


 アニエスは眉を寄せた。


「気が付いてらした?」

「いいや、全く」


 ただ、とフィリベールは頬を染めて、そっぽを向いた。


「久しぶりに人が近くに来たから、逆上せていたんだろうな、と俺も今気が付いた」


 つい、吹き出してしまった。


「私の話は聞いてくださると」

「そうなるな」

「では、ハルシュタットの話を続けましょう。今、このままでは捕まります。そうなったらどうなるか」

「……どうなる?」

「殺されます」


 首から流れる血でもって、王家の終焉を民に告げなければいけないから。


「あの人たちは、やると言ったらやります。他の手段は、などと問うてはいけないのです」

「じゃあ、俺が死にたくないなら、逃げるしか無いんだな」

「そうでしょう?」


 ふ、とフィリベールは唇を緩める。


「死にたくない、と思ったことは何度もあるけど……」

「だから暗殺者を返り討ちにされる」

「うーん、そうなんだけど…… 目の前に迫ってないから、ピンと来ないんだよな」


 アニエスは睨み上げる。両手は握ったままだから、この姿勢は何かお願いを言っているようだ。

 事実、願いなのだが。


 ――逃げて、生きてほしい。


 はっきり言葉になった希望。アニエスまで迷ってはいられない。


「信用しろ、という方が難しいでしょうが、どうかこのまま信じてください。城を脱出するだってお手伝いします」

「それじゃあ、北にとっては裏切りじゃないのか?」

「裏切ったら殺されると分かっている、と申し上げたでしょう。貴方は私を心配している場合ですか?」


 アニエスは声を荒げ。フィリベールは腹を捩って笑い出した。


「そうか…… どうなんだろうな」


 ひとしきり喉を震わせてから、フィリベールは笑みを消した。


「命が心配なのは、おまえと俺だけじゃないだろう。父上はあのままどうなったと思う?」

「それは、おそらく捕らえられて…… 遅かれ早かれ、命はないかと」


 ぎゅっとアニエスは眉を寄せる。フィリベールも強張った顔だ。


「病死と刑死させられるのと、どっちがいいだろうな。ミューニック伯爵もどうしたと思う?」

「捕まるか、戦死するか」

「サロモンは?」

「あれは……」


 適当に生き延びるんじゃないですか、と応じかけて口を噤む。

 体から放っていた、眠り薬の匂いを思い出す。


「平気ですよ……」


 と言って、視線をずらして。

 厩舎の陰から出てきた男に目を剥いた。


「いたの」

 他ならぬサロモンだ。振り向いたフィリベールも、な、と声を出す。

「心配いただいていたようで」

 へらりと笑った彼は、左手で馬を引いていた。


「君はこの事態を予測していたのかんだね、やっぱり」

「やっぱりって」


 アニエスが睨んでも、サロモンは涼しげな顔だ。


「まあ、今更なんだけどね」


 そして、空いた右手で厩舎の中を指さした。


「鞍は用意しておいたんで。あとはよろしく」

「脱出しろ、と」

「それを君たちが望むなら」


 サロモンは、にゅ、と口の両端を持ち上げた。


「ご武運を祈ってますよ」

「おまえはどうするんだ?」


 フィリベールが問い、サロモンはひょいと肩を竦める。


「俺だって逃げますよ。死にたくないし」

 そして、上着の隠しに手を突っ込んだ。

「必要な物は確保したんですけどね。これです、これ」


 サロモンが取り出したのは指輪だった。

 赤い石の指輪。


 フィリベールが息を呑む気配がした。


「これ、王家の至宝ですよ。王冠と対になってる、普段はクレマン王がつけているやつ。

 なんだけど実は、俺が偽物と取り替えておいたから、今王が付けているのは偽物です。偽物だって気がついた時にハルシュタットの連中がどんな顔をするか、見たかったなぁ」


 よいしょ、と鞍にまたがって。サロモンは一気に駆けだした。

 蹄の音が遠くなるにつれて、剣戟が近づいてくる。


「殿下!」

 アニエスは立ち上がり、フィリベールの腕を掴んだ。

「行きましょう。死ぬことはここじゃなくてもできます!」

 鼻が付かんばかりの距離で叫ぶ。はっとフィリベールが目を開く。


「そうだな」


 ゆるく笑った彼と、手を握りあった。

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