28.策はもう仕込まれた後
廊下の真ん中に佇んでいる背中は、真っ直ぐで、強張っていた。
「あ――アニエス」
フィリベールが呼ぶと振り返ってくれた。その顔も強張っていた。蒼く見えたのは光の加減のせいかもしれなかった。
すぐに、彼女は笑みを浮かべた。
「昨夜はぐっすりでしたね」
「うるさい」
ほんのり顔が熱を持つ。とっさに横を向いたが隠せてはいないだろう。アニエスはクスクスと笑う。
「お召し替えは?」
「済ませた」
「この後は国王陛下の元にいかれますか」
ああ、と頷く。アニエスはゆっくりと腰を折った。
「お気を付けて」
何に気をつければいいんだろう。そもそも、何のために、だろう。
フィリベールは服の上から胸の上をつかんだ。
首からかけた革紐。その先には掌の大きさほども無い革袋。
中では、ヴォロワ王家の至宝、
部屋に入ると、クレマン4世が振り返ってきた。
「怠くて困る」
その言葉に眉が寄る。
王都からの早駆けで、王はまたやつれた気がする。落ち窪んだ瞳が目立つ。首も手の甲も骨が浮いている。細く節の目立つ指には緩くなったような指輪。輝きは以前から変わらないはずだ。
唾を呑み込む。
「気を抜くと、その場で眠ってしまいそうだ」
王が呟き。
「あっちの言い分に振り回されているからもあるんですよねえ」
後ろに控えたサロモンが肩を竦めた。
「マイランド公爵閣下様におかれましてはー。ベルテールに合わせて文書を作る気持ちはなくー。本日はお日柄もよくー、心も体もすっごい寒いですね!」
はーっ、とサロモンは大仰な溜め息を吐いた。
「見てくださいよ、フィリベール様。これ、ついさっき寄越してきた手紙なんですけど! 国王陛下に対して自陣まで来いと抜かしてるんですよ。王冠を恐れない! 不敬!」
「彼にしてみたら、忠誠を誓う王はハルシュタット王だから」
「フィリベール様、そこで正論を言わなーい!」
サロモンは、やだやだ、と大きく首を振る。
その時コンコンと扉が鳴らされた。
「マイランド公爵の使者が手紙を持ってきました」
「ええー! またかよー!」
「……お見せしたいので、入室失礼致します」
ミューニック伯爵に仕える騎士だ。
その後ろには、伯爵本人も控えている。
「今度は何を言ってきたんだ?」
フィリベールが問う間に、騎士が盆を国王の前に捧げる。
封を開いたクレマン4世は笑い出した。
「言うことがコロコロ変わる。今度は、この居城で会いたいと言ってきた」
「如何なさいますか」
伯爵が固い声で応じる。
「迎え入れる準備はできます。闇討ちをかける準備も」
そうか、と国王は頷いた。
「では、我々が有利であろう場所においでいただこうか」
ぱたり、と皴だらけの手の甲が手紙を圧し潰す。
「出向くのは辛い、と感じていたからな。助かる」
使者に返事を持たせて、送り出す。
一行が本当に来るとしたら、夕刻だろう。
それを告げるとアニエスはまた顔を強ばらせた。
「本当に、城の中に
「ああ」
頷く。すると彼女は黙ってしまった。
借りた部屋の隅の椅子に座ったまま、フィリベールは顔を上げた。
二歩の距離に立つアニエスの、いつもは長い髪で隠れている顔が、今はちゃんと見えた。
蒼い。血の気が引いているのは気のせいでは無い。
「アマーリエ?」
「……策はもう仕込まれた後、ということなのね」
呟いて、彼女は踏み出した。
フィリベールのすぐ横に立って、腕を伸ばしてきて、胸にフィリベールの顔を押しつけるように抱きしめてくる。
否応なく心音が聞こえる。
「なんだよ」
顔が熱を持って。
「覚悟を決めねば、と考えているところです」
すぐに冷めた。
「覚悟?」
「はい」
「何の?」
問いかけの後、間が開いたけれど。
「生きるか、死ぬか」
彼女は答えてくれた。
石造りの居城の正面。騎馬が五頭通り過ぎた後、跳ね橋は上げられた。空堀と城壁で、冬の郊外と暖炉の火が燃える城中は分かたれる。
騎馬に乗っていたのはいずれも屈強な騎士。兜こそ脱いだものの、胴は鋼で覆われたままだし、剣も腰に下げたまま。
露わになった眼差しは、殺気立っている。
「何故、ここまで恨まれるのか」
とクレマン4世は言った。
「すべて伺おう。伺わぬと何も決められぬ」
愛想笑いを交わして、長いテーブルの端と端に別れて座る。
こちら側も5名が集まった。クレマン王と、その横に控えるサロモン。反対側にミューニック伯爵と、彼が是非にと連れてきた領の文官。そしてフィリベールだ。
王は苦しそうに腹を抑えていた。頭も重たいのだろう、時折、目を閉じて首を振る。
そして、向かう側にハルシュタットの5名。
中央にどっかりと腰を下ろした老年の騎士がマイランド公爵だ。恰幅の良さを威圧感に変えて睨んでくる。その両脇には若い、肩幅の広い騎士が二人。
手前には中年の騎士。歩く際に僅かにふらついているから、本来は文官なのかもしれない。
そして、その後ろ。短い髪に片眼鏡の青年がいる。うっすらと唇に笑みを浮かべ、フィリベールを真っ直ぐに見てくる。
――なんだ?
ぞわりと腕が粟立つ。
「あいつ、こんなところに」
低くサロモンが嗤うのが聞こえた。
「知っているのか?」
「知っているも何も…… そういうことかぁ。ビックリではないけど、嵌められたな」
さらりと銀の髪をかき上げた彼は、フィリベールを見下ろして、言った。
「終わったなー」
何が、ともう一度問おうとした時に。
「では、こちらの話から」
とマイランド公爵が口を開いた。
ハルシュタットの要求は領土の分割。
山脈を越えてすぐにある、ミューニック地方を中心とした穀倉地帯をハルシュタットの領土とせよ、ということ。
「山脈より南が何故ベルテール王国の地なのか、歴史を顧みたことは?」
ミューニック伯爵が鼻を鳴らす。
「ダニューヴ河を中心とした平原全体が似た暮らしを送っていたから、東の蛮族に立ち向かう際に団結した。同じ王を戴くことができた。雪の匂いが違う土地から来た王に従えると思えぬ」
「穀物は輸出している。それでも不満か?」
ふー、と細く長く息を吐いて、国王は首を振る。
「関税を引き下げよということなら、それこそ交渉次第。流通の道の建設も協力し合えるのでは?」
伯爵の文官が声を上げる。
その真横でもう一度、国王は首を振って。
体を傾けた。
「父上!?」
フィリベールが腕を伸ばしても、間に合わない。椅子から落ちた王は床に転がって、ピクリともしない。
「どうしたんですか!?」
体を揺する。顔をのぞき込めば、瞼はぴったり閉じている。
「父上!?」
「もう寝ちゃったのかなぁ」
サロモンがのんびりと呟いた。
「これは大変だ」
と、片眼鏡がマイランド公爵の後ろから一歩踏み出てきた。
「今、分かりやすい敵である我々は何もしていなかったというのに、王が倒れられた。これはもう、味方と思っていた者が味方でなかったということでは」
フィリベールは顔を上げる。眼鏡の奥から真っ直ぐに見つめられて、喉が干上がっていく。
横では、伯爵と文官が、陛下、と叫んでいるようだが、よく聞こえない。
北の騎士が剣を抜くのは見えた。
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