26時をまわったら

織園ケント

26時をまわったら

 深夜2時。人々が寝静まり、連なる家々の明かりもすっかり消えてしまったこの時に、僕はおもむろに準備を始める。靴下を履き、上着を着て、寒いからマフラーと手袋も忘れない。そのまま靴を履いて外に出る。うちのアパートのロビーは音が響くので、できるだけ音を立てないように、忍者のように鍵を閉めて歩き出す。1月末の深夜2時、冷たい風が頬を撫でて、全身へと震えを連鎖させていく。軽くジャンプして、気持ちばかりの暖をとる。

 ところで深夜2時の呼び方は意見が分かれるだろう。0時を回れば次の日だから2時派と、寝るまでは今日だから26時派である。僕は後者だ。僕にとっての今日はまだまだ終わらない。26時からは僕の時間だ。

 向かう先は近所の大きな公園。歴戦の勇者にでもなった気分で、大きく一歩を踏み出す。何か大それた事をするわけではない。僕が今からしようとしているのは、世間一般的に言えばただの『散歩』だ。でもこの時間が僕にとっては大切で、かけがえのない時間。思考という名の大海原に自らの意識をゆっくりと沈めていける。誰にも邪魔されることのない、静かで心地よい時間なのだ。

 少し歩いて身体が温まった頃、ちょうど公園に辿り着く。さて、今日は何から始めようか。公園手前の信号を渡りながら、僕の意識はすでに大海原へと沈み始めていた。


 僕が根城にしているスポーツ公園は、多目的な施設を併設しており、子供用遊具が並ぶ小規模な公園はもちろん、ジョギングコース・サイクリングコースが張り巡らされ、陸上競技場やジムなどの特化施設も完備されている。かと思えば、家族やカップルでゆったり過ごせる噴水付きの広場があり、大学生で溢れるスケートボード場もある。そのおかげか、昼間は老若男女問わず、大勢の人でごった返している。僕が26時にここにやってくるのは、そういった人達がいなくなり、さらには酔った怖いお兄さん達もあらかたいなくなる時間だからだ。

 スポーツ公園に入った僕は、まず遊具が並ぶ小規模公園のブランコに腰掛けた。ゆらゆら揺れて気持ちが良い。でも幅が狭いのと、足が地面に突っ張ってしまうのがちょっと苦しい。

 ここに座って、まず一呼吸置いて、いつも通り今日の一人反省会から始めよう。青白い街灯がちょっと眩しくて、そんなに照らさないでくれと思う。照らされるのは苦手だ。

 今日は昼過ぎからバイトだった。家から歩いて数分の飲食店でバイトをしている。店に入っていきなり、店長と先輩バイトに鉢合わせた。

「おはようございます。」

「こんにちは~。」

 はい、今日の反省ポイント1つ目。挨拶を間違えた。いや、果たして本当に間違えたのだろうか。そもそも日本の『おはようございます』は、『お早く◯◯ですね』などの『お早く』が転じた表現である。芸能界などでは、たとえ夜に会っても、今日初めて会う人には『おはようございます』を使ったりする。その視点で見れば僕の挨拶は間違っていないのではないかと思う。まぁ明日は『こんにちは』て言えば良いか。

 そう思った瞬間どうでも良くなって、足を地面から離してブランコをこぎ始めた。大人の重さを支えているせいなのか、今にもちぎれそうにギコギコ鳴っている。どうせだから明日の運試しでもしてみようかと思って、靴を放り投げた。

「あーした天気になーれ。」

 ブランコに勢いづけられ遙か遠くまで飛んでいった靴は、側面を上に向けて停止した。くもり。なんとも煮え切らない答えなのが、僕の明日が僕らしい物であることを暗示している気がしてぞっとした。ちゃんと挨拶できるだろうか。さっきまで僕をうるさい程照らしていた青白い街灯も、どこか影を帯びた光になった気がした。


 ブランコを飛び降り、片足けんけんで靴を回収した僕は、小規模な公園を後にして、再びスポーツ公園内を歩き出した。次にやってきたのは、家族やカップル御用達の噴水広場だ。

 ベンチに腰掛けて、夜も休むこと無く働き続ける噴水を眺める、唯一聞こえる規則正しい水の音が、大自然の中にいるかのような錯覚を与えてくれた。広場に置かれた時計を見ると、時刻は午前3時(僕にとっての27時)を指していた。そろそろ早起きのおじいさんおばあさんが、暗闇のジョギングに出かけてくる頃だ。それこそ本当の『おはようございます』である。

 さて、昼間はカップルで賑わうこの噴水広場で、僕の思考は想い人へと向く。

「みくちゃん、今度ランチでもどう?」

「え、ごめん、普通に無理。」

 これは先日、バイト先の想い人みくちゃんを食事に誘った時の会話である。もはや会話と呼べるかも怪しい。あまり話したこともなかったので、このやりとり以降会話が続かず終わってしまった。そもそも人とまともに付き合ったことが無いため、断られたらどうすればいいのかがわからない。

 中学生の頃、勢い余って当時好きだったゆきちゃんに告白したことがある。

「結婚して下さい!!」

「まずはお付き合いからで。」

 なぜかお付き合いは承諾されて、僕にはめでたく初彼女ができたのだが、当時の僕は男女が付き合うということ自体よくわからなかった。その結果、告白から2週間経っても、デートに出かけるどころか、まともに会話すらしなかった。さすがに愛想を尽かされてフラれた。これが僕の唯一無二の恋愛経験である。甘酸っぱい。今の僕ならこの行動がまずかったという事ぐらいわかる。反省している。

 大学に入り、想い人ができて、ネットでいろんな恋愛テクニックを勉強した。この歳になると、普通は告白より先にデートに行くのだと知り、あまりの衝撃に腰を抜かした。まずは食事に誘えと書いてあったので、みくちゃんをランチに誘ってみたのだが、どうにもお気に召さなかったらしい。次は映画にでも誘ってみようか。

 一月程前にみくちゃんとメッセージアプリの連絡先を交換をした。そのトーク画面を眺めて、みくちゃんからの返信が3日間滞っていることに気がついた。きっと忙しいのだろう。僕が送ったメッセージは既読のまま宙ぶらりんになっている。明日起きる頃には返信が来るだろうかと、期待しながら夜を過ごすことにする。いつかみくちゃんと2人でこの夜の噴水広場に来たい。

 また歩き出した僕は、ジョギングコースをなぞって歩くことにした。昼間であれば、ジョギングに励む人々の邪魔になってしまうため、この道を通ることはできない。ただ28時の今ならば、舗装されたこのジョギングコースを、王様気分で闊歩することができるのだ。そうして進むべき道が示されたコースを歩いていると、どうして人生には道しるべがないのだろうと疑問に思ってしまった。

 現在大学3年生である僕は、そろそろ就活という物を考えなければならなくなってくる。期末テストが終わったこの春休みから、本格始動すると言っても過言ではないだろう。しかし、僕にはこれといった取り柄も無ければ、やりたいと熱中できるような夢や目標も無い。抜け殻のような人生を歩んできた僕にとって、自分の将来を考えるなんて、期末テストで100点を取ることより難しい。言われたことをやっていても答えは出ないのだから。

 先日、この春で大学卒業を迎えるバイト先の先輩に、就活についてのアドバイスを聞いてみた。

「何からやればいいんですかね?」

「自分のやりたいことみつけることじゃない?俺はそもそも教師になりたかったから。」

 出た、やりたいこと。と思った。やりたいことが明確にわかっていたら、そもそもこんなに悩んでいないのだ。そう思いつつも、なんでもいいなんて言えるほど器用な人間で無いことは自覚している。だから、何か1つを自分で選択して、その道に進んでいくしか無いのだと思う。その道を決めるという作業が今の僕にとってはたまらなくしんどいのだが。

 でも1つだけ、僕の中で変わらない信念がある。それは、『しんどかったら逃げて良い』だ。自分で決めたことだとしても、それを最後まで押し通す気概も根性も自分にはない。それを僕の20年という人生で悟っているから、逃げたくなったらいつでも逃げよう。脇道にそれたって、王道を歩めなくたって、立派じゃ無くたって良いじゃないか。世間の誰がそれを咎めても、僕だけは僕のそれを許容しよう。それだけは常に頭に刻みながら行動している。これが僕の弱者なりの生き方なのだと。

 歩き続けたジョギングコースを、ちょっとそれて脇道を歩いてみる。道が示されていない道を歩くのはどこに向かうのかわからなくて不安になるけれど、向かう先は自分で決められる。自分の歩む道を選択するということは、脇道の目的地を決めることなのかもしれないと密かに思った。

 

 東の空が白みを帯びて、遙か先まで暗闇だった視界が少しずつ開けてくる。新しい朝の訪れを感じて時計を見れば、時刻は29時を指していた。

「帰るか。」

 1人そう呟いて帰路につく。明日からは春休みだから特に予定もない。きっと僕が起きる頃には、時計の短針は頂点を通り過ぎていることだろう。贅沢なほどに時間を無駄にしている実感はある。それでもやっぱりこの時間が好きで、誰にも縛られず、不器用な自分を愛してあげられる唯一の時間だから、僕はまた明日この公園に来るだろう。26時をまわったら。

 昇ってくる太陽を背中に感じながら、やっぱりあの光は僕には強すぎると思う。それでもちょっとだけ、あの輝きに憧れるから、明日はちょっと、本当にちょっとだけ、前向きになれる気がした。

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