登山道
尾手メシ
第1話
会社勤めのサラリーマンである博志は登山を趣味としている。といっても、日本百名山の全山登頂を目指しているわけではなく、ましてや高く険しい山に登るわけでもない。月に一度か二度、休みを利用して近所の山に出かけていくのである。
博志がいつも登っている山は、地元の小学生が遠足に訪れる程度の標高の山で、一時間ほども歩けば山頂に着く。午前中にゆっくり家を出てきても昼頃には登頂できるその手軽さが、博志にはちょうど良かった。
山に登る時、博志は一人である。一緒に登らないかと妻を誘ってみたこともあるが、「山登りなんて興味ないわ」とすげなく断られてしまった。それでも山に行く博志のために弁当を作ってくれるあたり、博志の趣味に理解があるのだろう。
会社での仕事や人間関係に別段トラブルを抱えているわけではないが、それでもストレスは溜まる。黙々と一人登山道を歩いていると、心に溜まった何とも言えないモヤモヤが軽くなっていくような気がした。そうやって、時折道端に咲いている野草などに目を留めながら登っていく。山頂に着く頃には頭はスッキリと晴れ渡っていた。そうして清々しい気持ちで山頂で妻の作ってくれた弁当を食べることが、博志にとって何よりの楽しみだった。
その日もいつもと変わらなかった。下はジーンズを履いて、上はTシャツとスポーツパーカーを着る。帽子を被り、リュックにタオルを入れて部屋を出た。
リビングに行くと、妻はテレビを観ていた。日曜日の午前中に放送されているワイドショー、それに出演しているアイドルの男の子が可愛いのだと妻は言う。
「行ってくるよ」
テレビを観る妻の背中に向かって博志が声をかけると、
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
振り向きもせずに返事を返した。いつものことなので特に気にも留めずに台所に移動した。
台所のテーブルの上には、妻が用意してくれた弁当と水筒が置かれている。それをリュックに詰めて、玄関で運動靴を履いて
「行ってきます」
家の中に一声かけてから、家を出た。
山までは電車で二〇分ほど。登山道の入口に着いたのは午前一〇時三〇分をいくらか回った頃だった。周囲には、博志と同じように登山に来たらしき人がぱらぱらといる。
さっそくと博志は登り始めた。運動靴が踏む地面がアスファルトから土に変わる。周囲はすぐに木々に囲まれた。
「いい天気だなぁ」
木々の間から空を透かし見ながら、朗らかにKが言った。それに釣られるように、博志も空を見上げる。抜けるような真っ青な空が広がっている。
「そうだな、絶好の登山日和だ」
博志は返事を返した。
最近は梅雨空が続いていたが、今日は久しぶりの快晴だった。梅雨の合間の山はたっぷりと水分を吸収しているからなのか、緑が濃い。そこを二人連れ立って、あれこれと話しながら登っていく。
博志が仕事の愚痴をこぼすと、「そうかそうか、大変だな」とKが相槌を打ってくれる。その相槌が何とも小気味よく、ついするすると吐き出してしまった。相手に聞いてもらうばかりでは悪いかと、博志は
「そういうお前はどうなんだ?」
と、Kに水を向けてみた。
「俺か?俺はなぁ、ついこの前子供が生まれて、その世話にてんやわんやよ」
いかにも大変だという口調で言うが、Kの顔は嬉しそうに綻んでいる。
「そいつはおめでとう。男の子?女の子?」
「男の子四人に女の子三人だ」
相変わらず笑顔でKは答えるが、聞いた博志はぎょっとした。双子や三つ子ならば聞いたことがあるが、七つ子など聞いたこともない。
「それは…、出産はさぞ大変だったろう」
「そうでもないさ。七人八人くらいは普通だからな。多い奴だと一〇人以上生む時もあるくらいだ」
博志の言葉に、Kは事も無げに答える。そんなはずはないだろうと思うが、博志にはまだ子供はいない。経験者が普通だというのなら、きっと普通のことなのだろうと納得した。
「しかし、赤ちゃんが七人となると大変そうだな」
「そうなんだよ。母ちゃんが身動きできないから、俺がせっせと飯を運んでやってんだよ」
「なら、今日は良かったのか、家を出てきて」
「ああ、母ちゃんから気晴らししてこいって追い出されてさ」
そうやって話しながら山の中腹辺りまで来た時だった。
「いいもの見せてやろうか?」
そう言って、Kが登山道を外れた。
「ほら、こっち来いよ」
山に分け入った所から、博志を手招いている。
「危ないんじゃないか?戻ってこいよ」
博志はKに言うが、
「大丈夫だって。それより、早く来いよ」
博志の言うことなど気にも留めずに、Kはずんずんと山の中に入っていった。
「お、おい。待ってくれよ」
Kの背中を追って、博志も登山道を外れて山に入っていった。
いつも来ている山と言っても、登山道を外れるのは初めてのことだ。最初はおっかなびっくり歩いていたが、すぐに気にならなくなった。登山道を外れたとは言っても、元が低い山であるためか、存外に歩きやすい。
追いついてきた博志に
「なっ、大丈夫だろ」
Kは笑顔を向けた。
Kに先導されるようにして山を歩く。博志の体感で一五分ほど歩いた頃だった。木々が途切れて視界が開けたと思ったら、見渡す限りの花畑が広がっていた。
赤みがかった紫色の、小さな丸い花が咲き誇っている。アカツメクサの群生地だった。そのアカツメクサの群生がはるか先まで続いていて、先の方は山の陰に入って見えなくなっていた。
風が吹くと、赤紫の大地がさらりと揺れる。
言葉もなく、博志がそれに見入っていると、
「どうだ、すごいだろ?」
いかにも自慢げなKの声がした。
「ああ、こいつはすごい」
博志はどうにかそれだけを返した。
花畑の縁に立ちすくむ博志に
「ほら、こっちだこっち」
そう言って、Kは花畑の中に入っていってしまった。
「あっ、おい」
博志は咄嗟に静止しようとしたが、よく見れば、花畑には切れ目があるようだった。それが丁度道のように先へと続いている。
Kに促されるままに、博志も花畑の中に入っていった。すぐにアカツメクサに取り囲まれる。膝くらいの高さで、小さい花がさらさらと揺れている。
Kを追って花畑を進んでいくと、道を塞ぐようにして岩があった。博志の腰くらいの高さの岩で、Kはその岩の上に乗って博志を手招いていた。
Kが差し出す手に捕まって、博志は岩の上に登った。周りはアカツメクサで地面が赤紫に染まっている。時折強い風が吹くと、大地全体がざわりとうねる。山の木々も鳥の声もはるかに遠く、世界がアカツメクサで染め上げられたように博志は感じた。
アカツメクサしかない世界に立っていると思うと、妙に清々しいような、浮き立つような、不思議な心地がした。
その心地のまま周囲を眺めていると、岩の先に道が続いているのに気がついた。
「なあ、この先はどうなっているんだ?」
指を指しながら、博志はKに尋ねてみた。
「この先か?ごめんなぁ、連れてこられるのはここまでなんだよ。この先はちょっと連れていけないんだ」
済まなそうにKは答える。そんなものか、と博志もそれ以上は聞かなかった。
そうして二人して花畑を眺めていると、何だか登山はどうでもよくなってきた。ここで昼を食べたら下山しようとなり、博志は背負っていたリュックを下ろして弁当と水筒を取り出す。弁当の蓋を開けると、唐揚げに卵焼き、保冷剤代わりの冷凍のポテトサラダが丁度いい具合に解凍されている。
見れば、Kもどこかからか弁当を取り出していた。蓋を開いたので覗いてみると、きんぴらごぼうや何かのフライなど見事に茶色い。
「茶色いなぁ」
思わす、博志が口にすると
「しょうがないだろ、自分で作ったんだから」
そう言って、Kは顔を顰めてみせる。そうして博志の弁当を覗き込んでからかってきた。
「そういうお前は愛妻弁当か?愛されてるねぇ」
そうやって取り留めもなく話しながら弁当を食べ、一息休憩してから下山することになった。
来た時と同じようにKが先導する後を博志が続く。三〇分ほど歩いたところで、Kが言った。
「ほら、着いたぞ」
Kに促されるようにして見てみれば、確かに登山口に着いていた
「じゃあな」
一言告げて、Kとは別れた。
「えっ?」
登山口を出た博志は、困惑して足を止めた。辺りは薄暗くなっている。慌ててスマホを取り出して時間を確認すると、すでに午後七時を回っていた。
「まさか、そんなはずは…」
博志が山を登り始めたのは午前一〇時三〇分過ぎのこと。八時間以上も山の中にいたことになる。確かにアカツメクサの花畑でゆっくりとしていたが、それとて一時間程度のもの。とてもではないが、そんなに時間が経っているはずはない。
博志のスマホには妻からの不在着信があった。帰りの遅い夫を心配して電話してきたのだろう。すぐに妻に電話すると、呼び出し音が三回鳴るか鳴らないかで妻が出た。
「あなた、大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ」
博志の答えに、妻が息を吐く音が電話越しに聞こえた。本当に心配していたことが伝わってくる。
「何してたの、こんな時間まで」
「ああ、それが…、今まで山に…」
「山?」
妻の困惑した声が聞こえる。きちんと答えてやりたいのだが、博志もまた、困惑していた。
「とにかく、すぐに帰るよ。詳しいことは家で話すから」
どうにかそれだけを言って電話を切った。博志はおぼつかない足取りで駅へと向かった。
結局家に帰り着いたのは午後八時になろうかという頃。心配して待っていた妻に謝り倒し、夕飯を食べながらゆっくり話そうとなった。
「友達と山に登り始めてな……」
そう言って、博志は今日の顛末を妻に語って聞かせた。そうして話は花畑のくだりになる。
「一面にアカツメクサが咲いててな、それはすごい光景だった。地面が赤紫にざわりと揺れるんだよ。初めて見たよ、あんな風景」
博志はいかに綺麗だったかを妻に語って聞かせるのだが、妻はいまいちピンときていないようだった。
「ふーん、それで?」
適当に相槌を打って先を促してくる。
「それで、そこで昼を食べて、下山したんだよ。山にいたのはせいぜい三時間くらいだと思ったんだがなぁ」
妻に話しながら、博志はもう一度よく思い出してみたのだが、どう考えても八時間も山にいたはずがない。
「それにしても珍しいわね、あなたが友達と登山なんて。その友達って誰だったの?」
「ああ、あいつな。あいつは…、あいつは…、えっと…」
口ごもる博志を、妻は怪訝に見ている。そんな妻の様子は、博志の目には入っていなかった。
一緒に登った友達の名前を言おうとして、気がついた。友達の名前が分からない。名前どころか、その顔さえも思い出せなくなっていた。確かに少し前まで一緒に登山した友達である。あれこれ話しをし、アカツメクサの花畑を見、昼飯を食べた。その友達の、名前はおろか顔さえも思い出せい。
一体何と登山をしていたのか。あれは果たして人間だったのか。今更ながらに、博志の背中が総毛立つ。
「分からない。名前も顔も思い出せない」
「なにそれ。知らない人と登ってたの?」
「いや、確かに友達だと思ったんだ。でも、どこの誰だったのか、全く分からない」
恐怖で震える博志に、妻は事も無げに言った。
「狸にでも化かされたんじゃないの」
そうして、興味をなくしたように食事に戻ったのだった。
「そうか、狸か。あいつ、狸だったのか」
妻に言われて、博志は妙に腑に落ちた。
登山道 尾手メシ @otame
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます