第4話 居場所
「サヤ、雰囲気変わったな」
同僚の木村さんに指摘されたのは土曜日の新入生歓迎会でだった。
職場は万年の人手不足で忙しい。毎日3時間残業しても追いつかない状態だ。しかしハウスメーカーのエクステリア部門の営業という仕事内容は、同じことの繰り返しがないので飽きっぽい私に合っていた。
社風もさっぱりしており、打ち合わせ以外はラフな作業着でいいのも残業手当が多いのも魅力的だ。
営業補助で働くもう一人の女性社員は、気はいいのだが忙しいと文句が多くお尻が重い。口癖は「私は人一倍働いている」だ。冗談だと思っていたが、存外本気で言ってるのを知って驚いた。
彼女の思い上がりもあって、残業を厭わずフットワークが良い私は重宝されている。
会社はハウスメーカーとの絡みで日・水が休日だ。
新入社員歓迎会は支店合同なので、住宅販売の営業マンもたくさんいて賑やかな飲み会になっていた。
「そうですか…?」
座ってめくりあがったタイトスカートの裾を直す私は心拍数が一気に上がっていた。
木村さんは設計兼営業の責任者だ。私の3歳上で高額物件を扱っている。
私は彼の下で小さな物件を担当したり、彼の図面をキャドで起こし見積もる仕事をしてもう10年以上になる。
「俺も思った、最近化粧してるし」と現場監督の河合さんが重ねて言う。彼は木村さんの同期だ。
「そ、それは、娘が年ごろだから恥ずかしいかなって…」と私が言い訳するようにモゴモゴ答えた。
「あー、入学式で他のお母さんが綺麗だったからだろ」と木村さんがズバリ言う。
「ぐっ…木村さん鋭いですね」
「サヤちゃんそういうとこあるよね。会社なんかスッピンでいいって思ってたでしょ」と河合さんが笑った。
「まあ、外での作業が多いですし」
「そんなこと言うなよ、綺麗にしている女の子がいるだけで男は頑張れるんだから」と木村さんが真面目な顔で答えたので笑えてきた。
「40歳で女の子って…それに木村さんは綺麗な奥さんがいるじゃないですか」
河合さんは独身だが、木村さんの指にはシンプルな指輪がいつも嵌められている。
彼は私の入社の前月に結婚していた。
木村さんと初めて会った時、タイプだ、と思ったが、私と同い年の女性と結婚したばかりと知ってがっかりした。
「俺は奥さんいないからいいよね」と河合さんが笑って言う。
河合さんは現場監督だ。男気があって仕事がしやすい。噂によるとバツイチだという。
工事でわからないことは何でも相談できる頼れる先輩だが、一人っ子、と言う以外はプライベートの事は全くと言っていいほど話さない。先日彼の父親が亡くなった時も、誰も彼の父親がずっと入院していたことを知らなかったくらいだ。
私は気心の知れた彼らを前にうっかり口を滑らせた。
「実は昔の彼氏と娘の入学式で遭遇してしまって動揺してるんです。娘同士が友達になったので顔を合わせる機会があるんですが、うちの旦那は家にいないんです。もう2年くらい前にどっか行っちゃって。それでなんだか…」と私が上手くまとめられずにいると、
「2年っ…?楽しそうだから夫婦円満だと思ってた」と木村さんが大声を出す。私はあわてて、
「しっつ。内緒ですから静かに」と頼んだ。
おしゃべりな社員たちには聞かれたくない。彼女たちは同情するふりをして裏で批判して面白がるだけだ。私が仕事ばかりでちゃんとしてないから旦那が出て行った、とか噂されるのは目に見えている。
「知らなかった。サヤちゃん大変だったね」といつもおどけて冗談ばかりの河合さんが優しく言ったのでなんだか泣けてきた。
「お、おまえサヤを泣かしたな」と部長がめざとく見つけて河合さんに注意した。
部長だけには家の事情を知らせている。
「すいません、河合さんが珍しく優しいので涙が…」とおどけて言ったら、部長と河合さんが笑った。
木村さんは変に神妙な顔をしている。
いつも能天気な部下の家庭が崩壊していると聞いて心を痛めているのだろう。ぶっきらぼうだけどとても優しい人なので、言わなければ良かったと後悔した。
「俺はいつも優しいだろ。家まで送ってやるから飲め」と言って、河合さんが私のビールの入ったグラスを持ってきた。私は笑って、
「河合さんも飲んでますよね」と言うが、口にグラスを押し付けてくるので仕方なく頂いた。
一口飲んでしまったからにはと、久々に好きなだけ飲んだ。酔いながら実家の母に連絡して子供の事を頼んだのまでは覚えていた。
起きたら会社の畳の仮眠室だった。少し離れて木村さんが寝ている。他の男子社員も3人程いた。雑魚寝なんて久しぶりだ。
私は静かに起き上がってトイレに行った。窓の外は真っ暗だ。
仮眠室の押入れから布団を出した。風邪をひかれて工期がずれると困る。私たちの仕事は建築工程のドンづまりなので、納期がシビアなことが多いのだ。
私は全員に布団をかけ、目が覚めたので仕事場に向かった。誰もいない時はほぼなく、いつも誰かが残業していたり仮眠していたりする。休日に残っている仕事をしにくると必ず誰かがいる。
私のもう一つの安心できる居場所。
椅子に腰かけたら、背後から声をかけられた。
「今日はもうやめとけよ」
木村さんだった。
「起こしてすいません。大事なメールが来てないかなって」と笑って言うと、
「おまえも病気だな」と彼も笑った。そして隣の自分の席に座った。
「サヤ…いや、やっぱいい」
「なんですか、途中で気持ち悪い」
彼は少し迷ったが、思い切ったように聞いた。
「別れないのか?」
「なんでですか?」
私はびっくりした。
「なんでって…帰ってこないんだろ」と当然のように彼は言う。
「多分帰ってきます」
私の直感がそういっているのだ。
「でも2年も家族を放っておいた時点でアウトじゃないか」
「そんなことないです。待っててあげないと、居場所がなくて帰れなくなっちゃうでしょ。夫から別れて欲しいって言われたらそうしますが」
私がそう言うと、彼は急に私を椅子ごと引き寄せて力強い腕で抱きしめた。最近の私に隙があるのか寂しそうに見えるのか、その両方かもしれない。
「おまえはバカだと思ってたけど、本当にバカだったんだな。賢く生きろよ」
彼から強いお酒の匂いがした。私は木村さんを引きはがそうとしたが無理そうだったので、諦めて力を抜いた。
「賢く…ですか。例えばどうすれば?」
「…」
彼は何も言わず私の唇を自分の唇で塞いだ。お酒と煙草の味がする。
「ん…」
しばらく私たちは唇を合わせていた。
木村さんは酔っているからどうせ明日には忘れているし、とぼんやり考えていた。
彼は唇を離すと私の眼をじっと見つめ、ぼそりと「好きだ」と言った。
酔っていない、かもしれなかった。
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