第5話 子供がいない
木村さんと何もなかったかのように私は振る舞っていたが、仕事中に不自然に指や肌が触れ合う事が多くなった。
私は知らないふりをした。
土曜日の夜はみんな帰宅が早い。部長も率先して家族の為に定時で帰るので、いつの間にか職場には木村さんと二人きりになっていた。
私は木村さんが月曜日朝一番の打ち合わせで使う図面を仕上げた。次に見積もりを始める。10年も続けていると機械的に必要な項目と値段が頭に入る。出来上がったものを木村さんに渡した。その際に少し指が触れた。私がビクッとしたら、彼は「冷たい」と言って私の手を握り込んだ。冷え性なのだ。木村さんのの手は反対に温かい。
「チェックお願いします。何か飲みますよね」
私はドギマギしながら手を優しく振り払った。
手を握られたくらいで赤くなっているのを見られたくない私は、給湯室で熱いほうじ茶を2つ淹れ、明日は休日なのでポットのお湯を捨てた。
彼がためらいながら少しずつ私に接近している。私はそのたびに拒否しているつもりなのだが、伝わっていなかった。
「避けてる?」と木村さんは私が出したお茶を飲みながら聞いた。
「はい」
当たり前だった。面倒は避けたい。
「なんで」と彼が真剣に聞いたので私は驚いた。
「なんでって…お互い結婚してますし」
「じゃあ、俺が別れたらいいの?」
なんでそうなるんだとお茶を吹きそうになった。
「な、なんで別れるんですか?」
「おまえの事が好きだから。あと……子供もいないし」
「子供…」
子供がいない生活を楽しむ夫婦だと思っていたので驚いた。
「俺は子供がたくさん欲しかったんだ。でも奥さんは自分が働きたくないから子供はいらないって。それでもずっとうまくいってたんだが、おまえが一人って聞いて…」
「私も一人じゃないですよ。結婚してますって」
彼は人の話も聞かず「俺は妻と別れておまえを待つ」と熱い瞳で告白してきた。しかし別れたならともかく妻帯者に言われても全く響かない。
木村夫婦は幸せだと思っていた。どこの家庭も幸せそうに見えて、問題があるのかもしれない。実際私の家庭だって周りはうまくいってると思っていただろう。
でもそれにかこつけて彼が私に手を出すのは違う。私は無性に腹が立ってきた。
「私より先に、奥さんと話し合うのが筋じゃないですか。子供が欲しいって」
「…俺はもう…」と彼がなにか言おうとしたところで河合さんが会社に戻ってきた。
「なー、エライ事聞いちゃったよ。Tホームの外構、来期からうちがやるかもだって」
Tホームと提携か…そういえば
うちとは全く違う。
「へー、やっぱりTホームも住宅着工件数が減ってるから、経費削減したいんだろうな」と木村さんはすぐに仕事モードになっている。しかし私の顔色が変わったのを見逃していない。
河合さんがしばらくTホームの話をして帰ってしまったので、また二人きりで話が蒸し返されるのを避けるために私はさっさと帰ることにした。
「じゃあ、私も帰ります」
「まだ話は終わってない…なあ、例の元カレとしたんだろ。おまえを毎日見てたから誰かの事を考えてるんだろうなって思ってた。さっきもだ」
でも彼は私の無言の返事を聞いて余計に意地悪になり、私の手首をつかんだ。
「やっぱしたんだ…どんなふうにしたの?」
彼は耐えかねたように私を引き寄せて強く抱きしめた。
「…大声出しますよ」
彼はちょっと考えてから明らかに怒っている私から離れた。
「わかった。でも俺、諦めないから」
そう拗ねたように言って、自分の机に戻った。
なんでこんなことになったのかわからない。彼に好意を持っているけど、そんな関係は望んでいないのだ。
「今度したら会社辞めます」
「そう言うと思った」と言ってから彼は寂しく笑って聞いた。
「別れたらいいのか?俺はおまえがいいんだよ」
「よくないです。私も結婚してるって言ってるじゃないですか」
この人は何度同じことを言わせるのかと思わず声が大きくなった。
「でも元彼とはしてるんだろ?」と不機嫌に私に言葉をぶつけた。
「…1回だけのアクシデントでもう2度とありません。木村さんともないです」
私は彼の顔を見ずに、会社から飛び出した。
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