第6話 人生で最も美しい季節を君と過ごした

 大型連休に入った。子供は部活で忙しい。

 朝から家を飛び出していく様子を見るのは嬉しいが、親の出番がどんどん減っているのを実感する。


 夫がいなくなりやっと手に入った平穏な生活を続けざまに乱された私は、このもやもやを晴らしたかった。

 そして、天気がいいので図書館で本を借り、イタリアンで軽い料理とお酒でも飲むことに決めた。昼間から飲んでいい気持になるのは大人の特権だ。


 図書館で何か没頭できる長編をと探していたら「サヤ」と小さく声をかけられた。中央公論社の『世界の歴史』に手を伸ばしたところだった。最近のあり得ない出来事からの逃避が失敗に終わったのを悟る。


 誰なのかは声でわかっていた。もう二度と会わないと決めたのだが、誰も彼もが私の都合などお構いなしのようだ。


纐纈こうげつさん…」


 私が振り返って迷惑そうに顔を歪めると、彼は急に私の腕をぎゅっと掴んで引っ張った。


「ちょっ…何っ?」


 私は彼を振りほどこうとしたが、あまりに強い力だったので諦めた。怪我で仕事に支障が出るのは困る。

 彼は全くの無言で私を建物の外に連れ出した。


「どこに行くんですか」と聞いても何も言わないまま、図書館の駐車場に出た。


 彼は「乗って」と言って、私をグレーのスポーツカーの助手席に押し込んだ。


 私が車から出ようとしたので私のカバンを取り上げ自分も運転席に乗り込んだ。強引が過ぎる。


「返して下さい」と強く言うと、


「やだ」と子供のように彼は短く返答して車を発進させた。


 車は高速道路に入っていく。どこかに向っているようだ。


「どこに行くの?」と聞いても返事がない。


 仕方なくぼうっと外の風景や看板を眺めていると、どうも日本海方面に向かっているようだった。県外なんて久方ぶりで密かにワクワクした。たとえ彼の車であってもだ。



 無言のまま1時間くらい車を走らせ途中の湖のそばにある景色のいいサービスエリアで車を止めた彼は、やっとカバンを返してくれた。

 私は車から降りてトイレに入り、このままどうにか家に帰ろうと考えたが、出口で彼がニヤニヤして待っていた。


「逃げようか考えてた?」と笑った。


 彼の屈託のない笑顔で諦めがついた私は、大きくため息をついた。


「もう逃げないから、どこに行くのか教えて下さい」


 彼は「内緒」と言ってにっこりした。強引なくせに可愛い子ぶるのでイラっとする。その上彼は、


って昔みたいに呼んでくれるなら教えてあげる」と甘えるように言った。


「嫌です」


 意味がわからない。なんでそんなこと私が言わなくてはいけないのか。


「冷たいな」と言って、彼は売店で購入してきた温かい飲み物をくれた。


 私は冷たい飲み物が苦手だ。

 覚えていたことに少しだけ感動して「ありがとう」と言うと、すきをみてチュッと音を立てて私の頬にキスした。人がたくさんいるので顔が熱くなる。きっと真っ赤だ。


「どういたしまして」と言って彼は笑う。私もこの状況を笑ってしまいたかった。



 車の中の空気は和らいでいた。もう私が逃げないとわかって安心したようだ。


「この前の事、怒ってるでしょ」と運転しながら彼が言う。


 当たり前だった。鈍い彼でもさすがにわかっているようだ。


「…当たり前でしょ。でも隙があった私も悪い」


 こんな状況になるなんて、最近の私は隙だらけなのだろう。確かに自分が女だと忘れそうな生活をしていて、既婚者の彼らに警戒心などイチミリもなかった。

 なぜ奥さんがいる男性が私なんかにちょっかいを出す必要があるのかわからない。男性は何歳になってもハタチの女性が好きなのだから、手を出すならもっと若い女性にすればいいと思ってしまう。


「サヤは悪くないよ、どうしてもサヤとしたかったんだ。だから僕に怒ればいい」


 彼は私に怒られたいんだ、そう思ったら怒るのが馬鹿らしくなった。考えてみると、私が図書館にいるのを知っていたのも怖い。つけていたのだろうか。


「もういい…面倒に関わりたくない」と私が突き放すように言うと、


「そんなこと言わないでよ」と情けない声を出したので思わず笑ってしまう所だった。


「奥さんいるじゃない、彼女としたら?夫婦なんだから」


「彼女は浮気してる」と彼は何でもないことのように答えた。まるで「今日は風が少し強い」みたいに。


「…は?」


 私の聞き間違いだと思った。


「妻の携帯を見たんだ。あいつはもう何年も同じ男と浮気してる。でもいい、僕たちはもう子供だけでつながってる夫婦だから」


 確かに言われてみれば彼女は浮気しそうな妻の特徴に当てはまり過ぎるくらい当てはまる。しかし、だ。


「それと私は関係ないよね」と言うと、彼は笑った。


「僕はずっとサヤと別れた事を後悔してた。サヤの弟から姉に彼氏が出来たとか結婚するとか聞いてはイライラしてた。そんな時に彼女に子供が出来たから結婚した。サヤと同じ時期だよ」と投げやりに言った。


 彼の大学の後輩にあたる私の弟は何も言わなかった。いいやつなのだ。

 弟はよく家に遊びに来る纐纈さんの事を兄のように慕っていた。彼に私の話をしてたってことは、かなり落ち込んでいた私に代わって何食わぬ顔で復讐したのだろう。


「…私には結婚はもっと後にするって言ってたよね」


「うん。でも美人でスタイルが良くて高学歴の女性と結婚して周りに認められたかった。なによりサヤに後悔させたかった。僕がバカだったんだ」


 そう言って彼は黙り込んだ。顔を見ると目じりに涙が溜まっている。彼は人前で泣くような人ではない。

 私はちょっと可哀想になり、ハンカチを出して彼の目元を抑えた。

 昔と同じで眼鏡をかけていない。相変わらずの裸眼なのかなと思っていたら、彼は涙を拭く私の手首を優しく握った。


「乱暴だった?」


「違う」


「何?」


「…腕、細くなったね」


「うん、もう年だし」と私は笑った。


「サヤは変わらない。美人じゃないけど可愛らしくて生き生きしてる。それなのに周りに言われるままサヤと別れたんだ」


「捨てたんでしょ。手を離して」


「…ごめん」


 そう言って、彼は私の手首を引っ張った。


「寂しいから僕の上に乗ってよ」


 運転中にそんなことして何かあったらどうするつもりだろうかと私は呆れて、


「そんなことしない」とはっきり言うと、


「なんで?」と聞き返してきた。


「なんでって…危ないよね、ここ高速道路。もちろん高速でなくてもダメ。頭は大丈夫?あと、ずいぶん前に別れたのになんで今さら浮気相手に私なの?若い女子社員いるでしょ」


「最高を手に入れて浮かれていたらこれだ。サヤと一緒にいたらこんなことにならなかった」


 彼は私の質問など無視して言った。


「そんなのわかんないでしょ」


「いや、わかる」そう言って彼は握っていた私の手を口にもっていった。


 指先からゆっくり舐めて甘噛みし、指の股を舌で強く舐めた。


「サヤの全身をこうしたい」と言われて想像し、恥ずかしくなって俯いた。


「こういうの、本当に困る。家に帰して欲しい」


「…ママさんがいるでしょ」


 彼は私の母をママさんと呼んでいたのを思い出した。


「だめ、私も母親なんだから」


「したくないの?」と言って、手を私の膝に移動させたので思い切りひっぱたいた。


「痛いな」


 彼は笑顔を浮かべながらインターで降りた。いつの間にか日本海まで来ていた。

 


 見覚えのある海岸の側に車を止めて砂浜を歩く。シーズンオフなので人は少ない。


「ここ、二人で来たの覚えてる?」


 彼は私の手を握り込んだ。


「…うん」


 もちろん初めての遠出だったのでよく覚えていた。

 まだ付き合っているのかどうかわからない感じで、一緒にいられるだけで嬉しくて、でも自分がずいぶん年上だと引け目を感じて彼と並ぶのが恥ずかしかった。


「サヤが海を見たいって言ったから、5月の海に来たよね。僕がハタチでサヤが23歳だっけ。丁度今の時期」


「うん。少し寒かった…」


「どうしたの、元気ないね」


「だって…」


 私は泣きたくなってきた。

 なんで急にこんなことになっているのか訳がわからない。


「ごめんね」と彼は申し訳なさそうに言ったが、


「でも好きだ。サヤがどうしても欲しい」と言って私を強く抱きしめた。そして、


「なんで連絡くれないの」と恨めしい声を出した。


「…」


 あんなことした後に連絡出来るわけない。もう迷惑だから二度と会いたくない、と言おうとしたら、


「連絡くれないなら前みたいに家に押しかける」と彼は真顔で言った。


「そ、それは困るっ」と私は焦って答えた。


 それは本当に困るのだ。子供にこんな関係がバレたら死んでしまいたい。


「じゃ、連絡先教えて」と彼が上目遣いで可愛らしく言った。もう40に近いくせに。


「…通話はダメだけど、ラインなら…」


 彼は嬉しそうに「ありがと」と言った。なんだか彼の真剣な雰囲気に負けた。

 昔から私はこの人に弱い。

 彼は手を優しく引っ張って砂浜に腰を降ろさせ、私の頬を触った。


「あれからずっとサヤのこと、考えてた。本物に触りたかった」と言って、優しく触れるだけのキスした。


「ここでサヤと初めてキスした。覚えてる?」


「…うん」


 私の人生で一番素敵なキスだったから、もちろん覚えている。

 彼はキスした後『これでもう僕達付き合ってるんだよね』って恥ずかしそうに言ったのだ。本当に本当に可愛かった。そして嬉しかった。


「会えない間、サヤと頭の中で色々したよ。でも本物がいい」と彼は私の顔を形を確かめるように触って言った。

 色々したんだ…本当にするのも困るけど、想像されるのも困るな、そう思っていたら「困るんだね」と言って、私の手を握った。


「今夜だけ、一緒にいて。お願い」


「え…?ま、まさか泊まるってこと?」


 それは絶対に無理…と私が断ろうとするとそれを遮るように、


「勝手にごめん。一晩だけサヤを僕のものにしたい。もう迷惑かけないから」と真剣に私の目を見て言った。強い意志に押されている自分が彼の目に映る。


「迷惑って…わかってるんだ」と思わず笑って誤魔化した。彼は私が断れないと知っている。


「やっと笑った。嬉しいな」


 彼は子供みたいにぎゅーっと押し付けるキスをした。唇を離して、


「旦那さんいないって聞いたけど」と遠慮がちに彼は聞いた。きっとアイちゃんから伝わったのだろう。


 なるべくあっさりと聞こえるように私は言った。


「2年前にいなくなったの。でも戻ってくる」


「旦那さんが帰ってこられないようにはしないよ。ただ悔しい。本当ならサヤにそんなに大事にしてもらえるのは僕だったはずなのに。ねたましいよ」


「大事って、大袈裟。普通だよ」


「だって待ってるんだろ?」


「そうですけど。何か問題でも?」


 最近よく聞かれる質問だ。誰にも迷惑をかけてないのに。


「他の男は考えない?」


「考えないよ。結婚してるし」


「バカだな、放っておかれてるのに。いや、バカなのは僕か。君を捨てたんだから」と言って、彼は私にしがみついた。まるで漂流した人が必死に流木につかまるように。

 私はおずおずと記憶より大分薄くなった彼の髪を撫でる。彼の父親が薄毛なので彼は若い時から手入れしていた。


「この前会った時と少し違うね。何かあったの?」と思わず優しく聞いてしまった。


 なんだかあまりに可哀想だった。彼は何か言いたそうにしてから、口をつぐんだ。

 私は自分の事ばかり考えて彼を拒否していたけど、彼の人生に少しは責任があるのかもしれない。


 4年も付き合って結婚も考えていたのだから。

 彼の最も美しい季節に一緒にいられたのだから。


 私は腹をくくって彼に対峙たいじしようと決めた。

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