第8話 思い出

 彼は海沿いの温泉宿を予約していた。


「次に来たら泊まろうね」と二人で話したていた、門構えの素敵な和風の上品な宿だ。彼がそんな些細なおしゃべりを覚えていたのは驚きだった。


 受付をする彼の後ろ姿を見ていて、今ならまだ帰れるかなと思ったが、彼を放り出す気にもなれなかった。

 複雑な顔をしていると、彼が「まだ迷ってるの?」と笑い、手を差し出し優しく私をソファーから立ち上がらせた。部屋に向かう廊下で「夫婦にしか見えないだろうね」と彼が嬉しそうに言う。20代前半の3歳という大きな壁は40代になるとなくなっていた。

 何が嬉しいか全く理解できないが「そうだね」と私は答えた。


 部屋に着くと、海が広く見渡せる角の特別室だった。ベランダには半露天風呂も付いている。天気がいいので海がとても綺麗に輝いていた。

 思わず顔がほころんだ。

 旦那が鬱になって6年、旅行なんてずっとしていない。本当は家族で来て子供の喜ぶ顔を見たかった。


「サヤが喜びそうだって思ったんだ」


 彼は私の表情を見てホッとした様子でソファーから立ち上がり、ベランダの手すりにもたれている私の背中に抱きついた。


「いいのかな…本当に」


「今更何言ってるの、無理矢理連れてきたくせに」と私は海を眺めたまま少し笑った。彼は、


「ごめん。サヤにしか甘えられないんだ」と言って、後ろから首や肩に何度も唇をつけた。彼の唇の冷たさが熱い身体に心地いい。


「ね、ダメって言ったらどうするの?」と聞いてみる。


 手がニットの中に潜り込んで素肌を撫でる。

 その手も冷んやりして気持ちいい。

 彼は私の問いかけには答えず、首に跡が残りそうなくらい強く噛んだ。


「痛っ…跡付けないでよ」


「昔はよく付け合ったでしょ。それとも誰か見られたらダメな人がいるの?」


「…会社で勘ぐられるのが嫌なだけ」


 鋭い木村さんの視線が思い浮かんだ。


「いるんだ。会社の人?」


「ん、そこは見えちゃうって…んっ…」


 上半身の服がゆっくり脱がされていった。


「ちょ、っと、だめ、ここベランダだって…っ」


「囲ってあるから大丈夫だよ。ねえ、その会社の人と付き合ってるの?こんな風にされてるの?」と言って彼は私のジーンズをゆるめて手を差し入れ、ゆっくりお尻をなでた。そして私の肌で温かくなった指を彼は中に埋める。ジーンズは膝まで下げられていた。


「…やっ、外だよ…」


「ここでしたい、いいでしょ」


「な、なんで…っ」


 彼の指が深く入れられるにつれて快感でつま先が立ってくる。意地の悪い彼は私が乱れてくるのを見て楽しんでいた。


「ね、乱暴に後ろからして欲しいって言いなよ。好きでしょ、後ろからするの」


「んっ…やだ、言わないっ…」


「悪い子だ」


 そう言って彼は私の片足を持ち上げた。




 ベッドでくたりとなった私の耳元で、


「サヤ、中まで震えて…本当に気持ち良さそうだった。会社の男と比べてどう?」と真剣な顔で言った。バラバラに身体がほどけるかと思うくらいの快感だったが、彼が調子に乗るので言わないでおく。


「バカ」と言って反対を向くと、顔を両手で挟まれて彼の方を向けられた。


「僕は本気で聞いてる」


「…内緒」


「本当に悪い子だな」と言って、彼はまたキスする。今度は優しく。


 彼の舌が私のと絡む。お互いの舌先が触れるとチリリと感じるのが懐かしい。


「なんか、サヤとの昔のキスを思い出しちゃった」と彼も言った。


 付き合っていた時も、彼と肌を合わせると本当に身体の芯から気持ちが良かった。何度してもし足りなかったことを思い出す。調子が悪くても嫌なことがあっても、彼といると元気が出た。

 私は思い出して少し泣いた。そういえば捨てられた時もこうやって彼を思い出しては毎日のように泣いたのだ。

 私が別れた時の痛みを思い出しているのを彼は感じたのか「サヤにずっと謝りたかった。ごめん。許して欲しい」とぼそりとつぶやいた。


「何を今さら言ってるの、もういいじゃない。でも謝ってくれた気持ちは嬉しい」


「サヤならそう言ってくれると思ってた。ありがとう、これでサヤに関しては思い残すことはないよ」


「バカ、なに年寄りじみたことを言ってんの」


「その言い方、昔に戻ったみたいで嬉しいな」


 私は彼との初めてのセックスでお互いの身体を不器用に撫でたり舐めたりして、ゆっくり何度もしたのをぼんやりと思い出した。二人で一つの生き物になった快感の中、「僕達一つになってる」と切ない声で彼が言ったのを思い出し、私は胸が高鳴った。


「ねえ、露天風呂に入ろう」


 彼は突然誘うなり、裸のままさっさと部屋付の半露店風呂に入った。太陽の下で見た彼は、4月に会った時より体が薄くなった気がした。

 私がタオルで隠して入っていくと、


「何、隠して。サヤってそんなんだっけ?」と笑った。


「だって結婚してるし…もうずいぶん年だし」


「僕の奥さんはずうっと浮気してて、サヤの旦那は失踪してる。そんな風に感じる必要ある?」と彼はちょっとイラっとして言った。


 やはり奥さんの事になると気持ちが荒くなるようだ。


「ね、本当は奥さんが大好きなんじゃないの?浮気したの私が初めてでしょ?」と私はかまをかけてみた。


「…だから許せないんだよ」


「そっか…」


 やっぱりそうだった。

 私は当て馬で、奥さんが本命。捨てられた時と同じだ。でも彼は私がそう感じている事には全く気が付かない。

 そうだろう、そういう人だ。昔から無意識で人を傷つける。


「いいんだよ、あんな女」と言って私の側にきた。


「ちょ、ちょっと、寄らないで」


重力に負けた体型を太陽の下で堂々と見せられない。


「いいでしょ、今日だけ。昔みたいに洗ってあげるから」


「奥さんにしてあげなよ」


「その話はもう止めて」


そう言って彼は私を湯船の中で強く抱きしめ、私を隅々まで丁寧に洗ってくれた。

 まるで私たちの間違いを流すように。

 


 宿泊の次の日の天気は引き続きとても良かった。彼は晴れ男で、旅行に行って天気が悪かった記憶がない。

 帰りの高速道路で彼はぽつぽつと話し始めた。

 奥さんの浮気、その浮気相手に問題があること、自分の両親と奥さんの不和。そして会社の健康診断で引っかかり病院で詳しく調べた結果が先週出た事。


「僕もうだめなんだ」と彼は運転しながら静かに言った。

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