第9話 会いたい
大型連休が終わって1週間が
平凡な日常が戻ってきたように一見思える。
同僚の木村さんは、会社を辞めると言ったせいかちょっかいを出してこなくなった。たまにじっと私を熱い目で見ていたが気が付かない振りをした。
きっと彼も纐纈さんと同じだ。奥さんを本当に好きなのに、一時的な気の迷いで私に寄ってきている。
2人とも自分勝手だと思うが、通り過ぎた嵐は忘れることにした。
6月に入った。
かすかな雨の降る夜、残業中に
「もしもし?」と私が固い声で応答すると、
「ごめん、電話をしないっていう約束を破って。どうしても声が聞きたかったから」と怯えた声で言った。様子が変だ。拒否されたら今にも泣き出しそうな空気が伝わって来た。
「いいよ。なにかあったの?」
私の質問には答えず、
「サヤの会社の駐車場にいるんだ。仕事終わるまでここで待ってる」と言った。
「え?今居るの?」
「…うん」
事務所の窓から駐車場を見ると、彼の車が止まっている。
「すいません、今日はお先に失礼します」
私は机上を片付け木村さんの強い視線を無視して駐車場に向かった。
傘もささずに車に寄ると、窓がすうと開いた。
「会社を調べて来ちゃった…どうしても会いたくて」
段ボール箱に入った捨て犬のような目で言うので放っておけない。一瞬迷ったが助手席に乗り込んだ。
「話、聞くから」
「…うん、ありがと」
車は音もなくすべるように発進した。
何が食べたいか聞かれたので近くの韓国料理店に入った。
もう時間が遅いので店内の人が少ないが、いつもは家族連れて大層賑わっている。
彼が任せると言うので、辛く味付けした餅のトッポッギと、牛の肉と骨を煮込んだスープのソルロンタン、豚の焼肉のサムギョプサルを頼んだ。
落ち着いて見ると彼は前より一層痩せて見えた。私がそう思ったことを気が付かれてはいけない気がしたので、何でもない風を装い「で、どうしたの?」と明るく聞いた。
「…今日会社辞めてきたんだけど、奥さんに言えない。彼女の反応が怖いんだ」と世界の終わりが来たかのように彼が告白した。
私はほっとして、次に呆れた。
「バカね、ずっと一緒に生活していたんだから大丈夫だよ。家族でしょ?」
そんなことで泣きそうな顔をしていたのかと私は笑顔で言った。
「…サヤはやっぱりそう言うと思った」
「そう?」
「信じてるだろ、人を」
「当たり前じゃない、だから結婚したんでしょ?」と私が言うと彼は首を横に振った。
「…違う。結婚してないと会社で認められないし、スペックの高い女を連れていればより周りから認められる。僕はこう見えて承認欲求がとても強いんだ」
なんだそれ…この人は相変わらず頭が良いくせにバカだった。承認欲求で結婚なんて出来るわけない。
「考え過ぎだよ、誰もそんな理由だけで結婚しない。人間だって動物だし本能ってものがあるはずだ。それは自分へのポーズで、本当は好きだったから結婚したんだって。さ、御飯食べよ。ここの美味しいよ」
「…そう、だね」
料理はすでに机に並んでいた。でも彼はあまり食欲がないようだった。病気のせいなのか、奥さんに言う緊張のせいかはわからない。きっと両方だ。そんなに好きな彼女に本心を見せられない彼がとても可哀そうに思えて仕方なかった。
先月の旅行の帰り道から、私たちの間には昔付き合っていた時の姉弟みたいな空気が戻っていた。甘い雰囲気はすでにない。
落ち込む彼を労わる雰囲気で食事をしていると、タイミング悪く会社の同僚がザワザワと入ってきた。
「おっ、サヤ。彼氏できたのか」と部長がからかうように言う。纐纈さんは軽く頭を下げた。
「弟みたいな友人です」と私は答えた。
「ふーん」と部長は笑って言って、大所帯でいつもの奥の部屋に入った。
同僚が小学生のように好き勝手言って通り過ぎるので、私は苦笑いで受け答えする。
最後の木村さんは何も言わず彼の顔をじっと見、私の表情を確認してから奥に歩いて行った。
「なあ、あいつサヤの事狙ってるだろ」と木村さんが見えなくなってから纐纈さんが言ったので私はドキッとした。
「鋭いねー」とおどけると、嫌な顔をした。
「わかるよ、僕だってサヤの事好きだし」
「ウソつかないで奥さんのことが好きって認めなさいよ。自分で分かってないだけだって」と私は少し強めに言った。彼はちょっと黙ってから、
「ウソじゃないから」と今にも泣き出しそうな顔で言った。まるでだだっ子のようで、私は大きくため息をついた。
次の日、木村さんの新規物件の現地調査に同行した。
郊外の高台で広い更地。天気もいいし、久しぶりの高額物件でわくわくする。彼がどんな風景を作り出すのか楽しみで仕方ない。
「広いですね。現調写真撮ってきます」と言って私はカメラと手帳を手にした。
「おう」と答える彼はもう頭にイメージを描いているのか上の空だ。
彼は真剣な顔で建物のイメージパースと図面を見ながら、周辺や土地の景色を確認している。その横顔を見てるとあの夜にいたずらしてきた人とは思えなくて笑ってしまう。
道路境界の側溝写真を撮りメジャーで内寸を測っていると、
「ここ、いいよな」と子供のように顔を上気させた彼が寄ってきた。
「滅多にないですよね」
そう言った私を彼はじっと見つめた。
「なんか変な事言いました?」
「いや。いいなと思って」と言って苦い表情を見せた。
「…辞めますよ」と私が言って笑うと、
「だめだ」と顔を背けて言う。
「もうあのことは忘れたので木村さんも忘れて下さい」
私は現場写真を撮りに歩き出しながら何気ない風を装って言った。
忘れて欲しいとずっと言いたかったのだ。
「嫌だ」
大声に驚いて振り向くと、彼は真後ろにいた。
後ずさりしようとしたら道路側溝に足を踏み入れそうになるのを彼が抱きとめる。
「す、すいません」と言って離れようとしても腕がめり込みそうに強く巻き付いている。
「痛い、です。んっ…」
彼が私の身体を強く抱きしめた。
「こ、こんなところで何考えてるんですかっ…」
私の身体が強張っているのを感じて彼は悔しそうに「昨日の男がいるからダメなのか」と聞いた。
「違います、彼は…」
「なんなんだよ」
「…友達です」
「ウソだ、あんなギラギラしてるのに友達のわけない。あのあとしたんだろ。教えろよ」と言って私の肩を揺さぶった。
「止めて下さい」
「俺のことが嫌いなのか」
「何言ってるんですか、ずっとお世話になってきた先輩です。嫌いなわけない…やっ」
彼が私の腕をつかんで車の後部座席に強引に押し込む。
木村さんも入ってきて、後部座席のシートに私を押し付けた。狭いのでかなりの密着度だ。
「止め…」
彼は私の手首を掴み、のしかかってキスしようとする。私は必死で顔を背けて「奥さんに言いつけますよ」と言ったが、
「やればいい」となげやりに木村さんは言った。
「なに言ってるんですか、後輩を夫婦の問題に巻き込まないで下さいよっ」
「…」
木村さんがひるんだのでチャンスとばかりに畳み込んだ。
「私も奥さんとの話し合いを手伝いますから、だからどいてください。明日から会社来ませんよ!何なら今から…」
「それは困る。おまえはホントに来なくなるからな」
彼はそう言って私の上からどき、車から出た。
私は心からホッとした。そんな私の顔を見て木村さんが、
「そんなホッとするなよ、傷つく」と顔を歪めて笑った。
次の日が休みなので、その晩に木村夫妻と私でご飯を食べに行った。そして彼が食後のタバコに行っている間に奥さんと話した。
彼が子どもが欲しいと言い出せなくて悩んでいること、本当の奥さんの気持ちを知りたいとまっすぐに聞いたら、奥さんは考えながら真剣に話してくれた。
帰宅してから奥さんから聞いた話を木村さんにメールで伝えた。
長文の最後に『木村さんは愛されています。ちゃんと奥さんを見て、たくさん愛を返して下さい』と書いた。それは私が言って欲しい言葉でもあった。
もともと大好きで結婚した二人がちょっとすれ違っただけなのだ。先輩夫婦は今頃きっといい感じになっている、そんな気がした。
休み明けの木村さんはとても安定したいい顔をしていた。
私が社内での平和を取り戻せてほっとしていると、纐纈さんからメールが入った。
会いたい、とだけ書いてあった。
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