第10話 おやすみ
次の週の火曜日の夜、
待ち合わせ時間に事務所の外に出るとすでに迎えに来ていた車に乗り込む。向かったのは高級そうなイタリアンだった。外構も建物もライトアップされて雰囲気がある隠れ家のような店だ。
「大丈夫なの?」
いろんな意味で心配だった。
「うん、もう最後かもしれないし」と彼は笑って言う。
「…縁起でもない」
そう言いながらも彼はますます痩せていたのがわかった。
入ると店内はおしゃれな間接照明で少し薄暗い。ボコボコした塗り壁は陰影があって洞穴みたいだ。
彼は席に着いて、
「肉と魚で頼んである。どっちがいい?」と私に聞いた。
彼はいつも肉を食べていたのを思い出して、
「じゃあ、魚で」と答える。
上品な店に来るのは久しぶりだった。
彼は慣れた感じでワインを頼んでいる。
「飲むの?」
「サヤがね。ここの美味しいから飲んで欲しいんだ。オーナーのワイン好きで始めたお店だから。今夜は送って行くよ」
そう言えば
付き合っていた時は今ほどワインが家庭でポピュラーでなかったので、聞いた時はかなり面食らった覚えがある。
持って来てもらった味見の白ワインはとても美味しかった。水のようにすうっと入っていく。
「サヤ、飲めるようになったんだ」と彼は目を細めて言った。
「うん、子供2人産んだら体質が変わって」
「そうなんだ…前は飲めなかったもんね」と自分がいない間の私の変化に少し切なそうだ。しかしお互い昔の事はよく覚えている。
ワインがグラスに注がれる。
彼は運転するのでノンアルコールワインで乾杯した。
「これは何のお祝い?」と私が聞くと、
「実は僕離婚したんだ」と彼は静かに、でもはっきりと言った。
彼の奥さんとは家にお邪魔してからも2度ほど学校の用事で会った。でも離婚するような気配は全くなかったので驚いた。
「…ちゃんと浮気してるか確かめたの?」
「もちろん。ついでにサヤの事も調べたよ」
「はあ?何のために?」
子供と仕事以外何もない私なんか調べてどうするんだと呆れた。
「生活が乱れていないかとか…冗談だよ」と彼は笑った。
「奥さんはね、仕事していない怪しい男ともう4年以上付き合ってる。もし彼と再婚なんてしたらアイの将来がどうなるか心配だから離婚するしかない」
「コウ君が奥さんに言ったの?」
「ふふ、やっとコウ君って言ってくれた」
「バカ、ふざけないで!なんでちゃんと奥さんと話し合わないの?信じられない」
彼はちょっと黙って、飲み物を口にしてから、
「…仕事を辞めてきたと言ったら、彼女何て言ったと思う?」とクイズ番組の司会者のように淡々と言った。
「…今までお疲れ様、かな?」
答えは怖くて聞きたくない気がした。
「『これから私はどうするの』だって。僕にはもうこれからなんてないのに」
そう言って彼は顔を醜く歪めて笑った。
「奥さんに病気の事言ってないの?」
「言えない。あいつはもう僕達より浮気相手の方が大事なんだ。そいつに渡すお金がなくなると困るから『これから私はどうするの』って言ったんだ」
「奥さんにどうやって別れてって言ったの?好きなら言えないよね」
「…言えないから、両方の実家に浮気現場の写真をあふれるほど送りつけてやったよ。僕の両親がかなり怒り狂ってね…彼女は僕の仕業だなんて思ってもないだろう。とてもいい夫でいい父親だったから。笑っちゃうだろ?」と言ってニヤリとした。
纐纈さんと浮気していると責められても仕方ない私は全然笑えなかった。
「そんなやり方…奥さんが可哀想じゃない。
彼はしばらく空中を凝視してから、ため息と一緒に、
「ごめん、この話はもうやめよう。言わなきゃ良かった」と言った。
「だめ、まだ間に合うよ。好きなんだから…」
彼は奥さんのことを求めていて、私はただの代用品なのだ。しかし彼は私の手をグイッと引き寄せて甲にキスした。彼の力強さに少し安心する。
「もう、いいんだ。お願い」と彼が言ったので私は涙が止まらなかった。
「なんでサヤが泣くんだよ…昔二人で金子みすゞの展覧会に行った時も、詩の説明文を読んではぽろぽろ涙を流してた。『可哀想…』って言って泣いてたサヤのこと、僕は内心バカにしてた。でも本当のバカは僕だったんだ。こんなになってやっとわかったよ。いい気になってた。いい高校、いい大学、一流企業で働くうちにおかしくなってたんだ」
違うのだ、私は優しくなんかない。いつも自分で精いっぱいだった。でも私のことなんてちゃんと見ていなかった彼にはわからないだろう。
「そんなことない、コウ君はずっと頑張ってたでしょ。だから自分を責めないでいい。それに奥さんの事、本当に大好きなんだよ。私をポイっと捨てたみたいにはできなかったんだから」と泣くのを止めて笑って言ってみたが、逆効果だった。
「でも最後にサヤと再会したおかげで離婚できた。ありがとう」
そう言って彼は泣いた。たくさんの涙がテーブルにぼたぼた落ちた。
彼がこんなに泣くところは初めてだった。彼はこの数か月を不安に押しつぶされそうになりながら生きてきたのだ。そんな辛い状況でも最後に娘に最善の道を残す選択をした。
私は立ち上がって彼の横に座り、肩を抱いて一緒に泣いた。
服の上からでもびっくりするくらい彼の身体が細っているのがわかった。まるで海岸の流木みたいだったのだ。
その日はなんとか食べ終わってから、誰もいない彼の家に行った。
アイちゃんは近所の祖母の家に住んでいて、この家はもうすぐ売り払うそうだ。
彼の家は何もなくなってがらんとしていた。奥さんが電気製品や家具のほとんどを持って行ったと乾いた声で彼は言った。
奥さんと娘さんがいない家は死んだように静かだ。以前お邪魔した家と同じとはとても思えないただの空き箱になっていた。
「この家は彼女の分身だ。ここにはいたくないと思うのに、どうしてもここに来ちゃうんだよ。ね、サヤ、たまに遊びに来てくれる?僕はもうセックスでサヤを喜ばせてあげられなさそうだけど、一緒にいてくれると嬉しい」
彼は冗談を言ったが、きっと
「いいよ、今夜は泊まっていく。心細い時はいつでも呼んでくれたらすぐに来る。なんせ10分で着くし」
そう言うと彼は、
「サヤならそう言ってくれると思った」と言って私にしがみ着いた。
私たちはベッドで双子のように向き合って寝た。キスもない。ただ一緒に少し身体を一部分を触れ合うだけで彼の表情が柔らかく穏やかになるのがわかる。
夜中に目が覚めて必死に私にしがみついた彼を見て、きっと彼は奥さんにここにいて欲しかったのだろうと思った。
あまりに可哀想だ。
彼の選択の連続の終着点がここなんて悲しすぎる。
私は彼の為にまた少し泣いた。そして彼の頭を撫で続けた。
それから1か月間、彼に家に呼ばれては話したり寝かしつけた。
後半は毎晩会社帰りに直接通った。
彼は、死んでしまって朝起きれないのではと思うと怖くて目を閉じられないが、私が隣に居ると寝られると言うのだ。そんな人を放っておけない。
その間にも彼はこれ以上ないくらいに痩せていった。
とうとう彼は両親の強い説得で入院させられ、私はもう会いに行けなくなった。
気がかりのまま数日が過ぎると、メールが入った。
『今日は誰もいないので病院に来て』
ちょうど休みの日で、私はすぐに用意して向かった。
「…こんにちは」と小さく言って入ると彼がベッドで寝ていた。
一人部屋だ。彼は疲れた顔でうつらうつら寝ている。
ますます痩せて骨に皮が張り付いたようになってしまった頬に手を添えると、彼は目を覚ましてしまった。
「ごめん、起こしたね」
「ううん、来てくれて…ありがとう。こんな姿、サヤにしか見せられない。親友にも言ってないんだ。見栄っ張りだって笑う?」
「笑わない、見栄っ張りで頑張り屋なのはコウ君のいい所でもあるんだから」と言いながら私はベッドの端に腰を下ろした。
「でもそのせいでサヤを捨てたんだよ」
「まだそんなこと言ってる。私は結構幸せだから大丈夫、こう見えても強いんだから」
「知ってる。サヤは僕がいてもいなくても幸せになれる。幸せに…」と言って彼は涙を流した。弱った彼の中の恐怖と混乱が透けて見えて心臓が痛む。
私は彼を緩く抱きしめて、自分のTシャツで彼の涙を吸う。彼の皮膚は紙のようにカサカサだ。もう匂いもしない。
「私はコウ君と付き合えて本当に幸せだった。一緒にいろいろしたよね。バリ島でダイビングのライセンスとったり、毎年スノボも行った。椎名林檎の『ここでキスして。』が大音量で流れてる雪山の頂上でキスした。海もプールも花火も遊園地も全部コウ君との楽しい思い出ばっかりだ。本当にありがとう、感謝してる」と正直に言った。
「バカだな、捨てられて感謝なんてしてたらダメだよ。僕みたいにずるい人間に付け込まれる」
「いいよ、付け込まれても。本当にずるい人間は、自分の事そんな風に言わないし」
私の言葉を聞いて少し考えた後、彼は「サヤ、こっち来て」とベッドのすぐ横を手のひらで弱弱しく触りながら言った。
「うん」
私は彼のベッドの隣に寝転ぶ。
「キスして」と彼が言った。
「…いいよ」
私は彼のかさついた唇にキスして、舌で唇を舐めた。そしてもう一度ゆっくりキスした。
彼は私にしがみついた。思ったより力が強い。
「病院で寝てると『いつ死んでもいいんだよ』って促されてるみたいで泣けるほど怖いんだ。でもサヤがいると怖さが和らぐ。なんでだろう」
「…怖かったら私はこうやっていつでも側にくる。だから怖くないよ」
「こんなに頼っちゃって、サヤの旦那さんに怒られるかな」
「…うーん、どうだろう。もう私なんかいらないのかもしれないしね」と自嘲的に笑った。
だめなのだ、自分の事になると。
彼は私の様子をじっと見て、少し迷ってから言った。
「サヤの事調べたって前言ったよね。あれ、半分ウソ。本当は旦那さんの事調べてた。ケーキ職人になってる。住所と電話番号をあげるから、会っておいでよ」
「…どうして?」
「仕事辞めてから会いに行った。サヤが待ってるって伝えたらびっくりしてた。でもまだ修業中だから会えない、って。きっともうすぐ戻ってくるよ」
臆病な私を彼はわかっていた。
「あり…がとう」
涙が溢れた。夫は家族を忘れてなかったのだ。
「穏やかでいい人だね。サヤにお似合いだ」
「ふふ、会ったんだものね。私、夫と初めて会った時すぐにこの人好きだなって思ったの。なんでかわからないけど、コウ君の時もそうだった。だから、今度こそ絶対に幸せになるんだって気合で結婚したんだった。大事な事を思い出せた、ありがとう、コウ君」
私は彼に抱き着いた。
「最後にいいことが出来て良かった。少しでも善人になっておかないと、地獄行きかもしれないし。本当は彼が幸せになるのが悔しくて言うか迷ってたんだ」と弱々しく笑った。
「じゃあさ、三途の川を渡らないで待ってて。私と一緒に渡って一緒に転生して、今度こそ本物の双子になろうよ」
「…そこは恋人じゃないんだ」と言って彼はその日初めて笑った。
「だって捨てられたら嫌だし」と冗談を言って私も笑った。
「きっと私たちは恋人じゃない。コウ君の運命の人は奥さんだったんだよ、きっと。すれ違ってこうなってしまったけど…」
「…そうだね、双子がいい。でも彼女が出来たらすごい邪魔されそう」
「そうだよ、ちょっとやそっとの愛情ではコウ君とカップルになんてならせないんだから」
「毎日、楽しそうだ」と彼は口角をなんとか上げた。
「きっと楽しい。どれだけ恋人と別れても双子はずっと仲良しでいられる」
「うん。サヤ、ありがとう…疲れたから、少し…寝たい」
「寝るまでここにいるよ。おやすみ、コウ君」
私はガリガリに痩せた彼の頬や頭を優しく撫でた。
「サヤ、おやすみ…」
それが最後に聞いた彼の言葉だった。
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