第2話 彼の素敵な奥さん

佐橋さはしになったんだ」


 入学式の次の週末、もう二度と会うことはないと思っていた彼がうちの玄関にいた。休日にパリッとした服装なのも腹が立つ。


 アイちゃんは母親が連れて来ると思っていた。ファーストには及ばないが思わぬセカンドインパクトだ。

 彼には気後れという概念がないのだろうか、神経を疑う。


 家に遊びに来てくれたアイちゃんは優しそうで礼儀正しい子だった。娘の友達になってくれて嬉しい。ミナの部屋から嬉しそうに二人がギャーギャーと話しているのが聞こえてくる。

 でも父親が問題だ。


「ねぇ、返事してよ」といかにも馴れ馴れしい。


「…そう、です」


 白のTシャツとジーンズに紺のパーカーというラフな格好で、私は答えた。


「やっと声が聴けた」と嬉しそうに笑う彼は年をとっても魅力的だった。そう感じるのも悔しい。


 一緒にいた時のいい記憶がよみがえってくる。バリ島も一緒に行ったなと思っていたら、


「一緒にバリ島に行ったよね。二人でダイビングのライセンスとってさ。初めて水中で出会った生き物がウミヘビで慌てたの」と私がまさに今思い出していたことを彼が言った。


「覚えてるよね、そんな顔してる」


 私の頬に彼がいかにも自然に触れようとしたので私はあとずさる。

 手が空中で止まり彼が心底悲しそうな顔をしたので、自分が悪い事をした気になった。


「ごめん、あんまり嬉しくてはしゃいでた。先週入学式で頭をぶつけたのも嬉しかったんだ」と哀れを誘った。


 しかし何も話さないと決めている私を見て諦めたようだ。わざとらしくため息をつき、


「アイが帰るとき電話して」と言って名刺を差し出したが、受け取ってもらえないそれは靴箱の上に置かれた。



 家の窓から彼のグレーのスポーツカーの後ろ姿を見ていたら怖くなってきた。私は今まで人に言えないことはしないというモットーで生きてきたのだ。だからこの感情の芽生えは…絶対アウトだった。

 彼の名刺は屑籠に入れられた。



 アイちゃんはうちで夕飯を食べてから迎えに来てもらった。息子は実家で夕飯を食べると連絡があったのでほっとした。

 私はタイミングを見てお風呂に入り、彼に会わないようにした。

 アイちゃんが来るたびにか…と思うと気が重いが仕方ない。


 その夜、次の週末にアイちゃんの家に遊びに行くから一緒に挨拶に来て欲しい、とミナから頼まれた。

 私は一瞬迷ったが、娘の楽しい学校生活に替えられるものは何もなかった。



 次の週、娘とアイちゃんの家に行く為にナビで住所を入力すると、そこも団地で彼の実家の近くだった。

 彼の実家には家族が不在の時に数回行った。3つも年上の私は彼の家族から嫌われていると彼から聞いていたので親に会ったことがなかった。嫌われてるとわかっていて会うのは勇気がいるものだ。


 そんなことを考えて運転していたら、私たちが住む団地から裏道を通って10分程でアイちゃんの家に着いていた。こんなに近くに私達は住んでいたんだと驚いた。よくも今まで会わなかったものだ。

 家はシンプルで趣味が良かった。彼の会社系列の住宅メーカーで建てられた木造一軒家だ。


 着いたらすぐに奥さんとアイちゃんが出てきた。奥さんは休日なのにちゃんとした格好をしている。


 私は車から降り「おはようございます、ミナの母です。娘がいつもお世話になっています」と彼女と紋切もんきり型の挨拶を交わした。彼女は私の顔を見て、


「あら、入学式でお隣に来られた方ですよね。主人と頭をぶつけた」とのんきに偶然を喜んでいる。


 なんだか綺麗な上にいい方のようだ。それにいい匂いがする。雑誌に出てくる素敵な奥様そのものだ。


「せっかくなので家に上がっていって下さい」と勧めてくれた。


「いえ、ご主人がお休みでしょうし…」


 学校情報も欲しいが、これ以上感情を乱されたくない。帰りたかったが、奥さんが「夫は外出しているので」と言い、可愛いアイちゃんが「ママがケーキ用意して待ってたの」といじらしく言うので余計に可愛く見える。

 ミナも初めての家だから来て欲しそうだ。


「じゃあ少しだけ…」


 私は雰囲気に負けてノコノコ家に上がり込むことになってしまった。



「お邪魔します」と言っておそるおそる玄関に入った。中もシンプルで素敵だ。


 彼の実家はカントリー調だったのに全然違う、と思っていたらドアが開いて当の本人が入ってきた。

 車で私が居るとわかったのだろう。ナンバーが私の名前、さやか、なのだ。


「サ…えっと、ミナちゃんのママ。先日はお邪魔しました、どうぞ僕に遠慮なく上がって下さい」と私が帰るのを先回りして制止した。


 全くそういう頭がよく回る所は変わっていない。でも彼の思い通りになるのもしゃくだった。


「ご主人がいらっしゃるなら帰ります。また次の機会にお邪魔します」と私は彼が意図的に塞いでいる玄関ドアに戻ろうとした。意地でも出てやるつもりだった。すると奥さんが、


「私、今日を楽しみにしていたんです。夫のことは気にしないで下さい」と引き留めてきた。娘たちも私を懇願するように見ている。


「…では、お言葉に甘えて」


 私は覚悟を決めてリビングに入って行った。



 娘たちはアイちゃんの部屋へ行ってしまった。

 彼がずっと一緒ならどうしようかと思っていたが、彼はケーキを食べたら離れたソファーで携帯をいじり始めたのでほっとした。


「いつもああなんですよ。携帯ばっかり」と奥さんは笑った。


「そうですか」と答えながらも不思議で仕方ない。


 彼はそういうタイプではなかった。私といる時はずっとくっついていた。どれだけ話してもセックスしても時間が足りなくて悔しかった。

 夫婦になると変わるのだろう。



 リビングで高校の選択科目、部活などの話をしていたら1時間が経っていた。


「長居しました、帰ります」と切り出すと、


「また遊びに来てください。夫には出てもらいますから大丈夫なので」と言って彼女は素敵に微笑んだ。彼も玄関まで来て、


「妻が喜ぶので遠慮なく」としれっと言った。絶対二度と金輪際来ないけどね、と私は思いながら、


「はい、是非」と社交辞令で微笑んだ。


 彼女が二階の子供部屋に呼びに上がっていくなり、彼が私の手に触れたので私は無言で振り払った。


「何、さっきの笑い方」といかにも寂しそうに言う彼はずるそうに見える。そういえばずるいところがある人だった。


「今度触ったら大声出します」と言うと、


「わかったよ。さやは頑固だからな」とバカにするように笑った。


 わかってるならなぜするのかわからない。嫌がらせだろうか。嫌がらせをされるようなことをしてない、と思っていたら奥さんと娘たちが降りて来た。

 私は外に出てきた皆に見送りされ車を出した。



 帰ったら家には猫しかいない。

 中学生の息子、ユウは朝から陸上の部活だ。

 今はいいタイムが出て楽しくて仕方ないらしい。

 学校は楽しいのが一番だ。

 勉強しろとは言わない。夫が子供に勉強しろと口うるさくするのを見てげんなりしたからだ。


「俺みたいなクソになるな」「勉強しないと俺みたいになる」


 あんな父親にあんな風に言われ続けたら勉強が嫌いになるのは間違いなかった。


 ユウはお弁当を持って行ったので帰宅は夕方だ。実家に寄って夕飯を食べてくるかもしれない。

 私はそんなことを考えながらぶさいくな愛猫にエサをやり、水を替えた。今日読む本に合う音楽をチョイスしてかけ、葉っぱで紅茶を淹れる。


 夫の収集癖で大量のCD・DVDと本が棚にあった。

 買い物依存症の彼は欲しいものをすぐ買ってくれた。買い物をしている時だけが安心するそうだ。誰かの許しを得ようとするかのように消費する彼を、家族は恐怖の目で見ていた。毎日のようにネット注文で届く段ボールに部屋が占領されてどんどん狭くなっていく家。

 開封していない段ボールは崩壊寸前の家庭のシンボル的存在だった。


 私はソファーに座り、読みかけの本『めくらやなぎと眠る女』を開いてしおりを取り出した。この瞬間が一番好きだ。

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