日暮れ前に話しておきたい

海野ぴゅう

第1話 浮つく団地と昔の彼氏

 今年は何だか様子がおかしい。

 私の住む団地が屋台のピンクなワタアメのごとく甘くフワフワと浮ついている。

 

 理由はわかっていた。

 自粛モードから解放された大人の間で浮気が流行っているのだ。

 再開されたPTA活動や子供会の会合、ご近所同士でのキャンプブームで、不倫カップルが春のタケノコのごとくできていた。

 毎週末どこかで親同士の飲み会が開かれ、秘密の関係が出来ては壊れているらしい。すでにこのゲームは3人目だという豪傑もいると聞く。


 というのは、私は仕事で飲み会に出られないからだ。情報通のママ友から遠い国のおとぎ話のように聞いて楽しんでいる。 

 家に夫はいないが子供が2人いる勤労主婦で浮気をする余裕もない。

 だいいち40歳だし、魅力は半減どころかハタチの頃の10分の1もないと自覚している。

 不倫できるのは、ジムに通って体型を保ち小綺麗にしている母親だ。彼女たちの年齢に抗う気迫はすごいと思う。

 私にはそんな気力はない。毎日の生活をに近づけるだけでいっぱいいっぱいだ。

 それに恋愛をゲームにするのは絶対嫌だと思っていた。



 2年前の春、夫が失踪した。

 会社での上司の連日の叱責でうつになっており、病院にかかって4年以上経っていた。

 限界が来たのだろう。治る希望が見えない彼の病気に家族が疲弊し果てたタイミングでふらりといなくなった。


 私は子供を独りで育てる不安で頭を抱えたが、実際家族3人の生活は意外となんとかなっていった。

 正社員で働いておりボーナスもあるので、慎ましく生活していれば問題なかった。家族の健康保険もある。

 子供たちは恐怖の対象である父親がいなくなり、顔を合わすたびに意味もなく怒鳴られることから解放された。私は心底安堵した。

 無慈悲だと言われても仕方ない。だって本当にそうなのだ。非難する者は実際に鬱の家族と長期生活してみるといい。

 真っ暗の井戸の底。出口がないから光はない。方向もわからない中をぐるぐるさ迷い、無感覚になっていく。そんな生活を子供に強いていたんだと彼がいなくなってやっとわかった。


 私たちは夫がいなくなって救われた。


 近所に私の両親が住んでいるので学校から実家に帰宅してご飯を食べ、私が仕事を終えて一緒に家に帰ってくる。子供のご飯が一番優先。そう割り切って暮らした。

 安全で温かいご飯。安心できる住まい、清潔な衣服。

 それで充分なのだ。


 夫がいなくなっていい感じに落ち着いた家庭に居心地の良さを感じている罪悪感もある。しかしこれが現実だ。


 夫が心配だ。でも帰ってきたら。


 そう考えると怖かった。

 2人の子供も成長したので夫に反発するだろう。


「俺が死んだらいいと思ってるんだろ」「俺はゴミ扱いか!」などと夫が怒鳴っているところを、子供たちが以前のようにびびったまま黙って見ていられるとはとても思えなかった。

 私たちは夫抜きのほうが楽しく暮らせるのだ。




 4月の初め、有休をとって娘のミナの高校の入学式に出席した。

 肌色の薄いストッキングをはいて薄グレーのパンツスーツを着る。

 久しぶりにパールのネックレスにピアスを装着し、化粧もした。ミナに恥をかかすわけにはいかない。

 バスで3区間、10分もかからない彼女の高校に一緒に向かった。

 近い、という理由で娘のミナはこの学校を選んだ。よく眠る彼女らしい選択だ。彼女は暇があるといつも寝ている。それは父親がいたときに出来なかったことの反動だ。

 新しい制服を着た彼女の横顔は希望に満ちている。夫がいたころはいつもビクビクして顔がひきつっていたが、最近は自然に笑えるようになった。ミナの笑った顔はとても可愛い。そう言うといつも娘に呆れられる。でも私は涙が出そうになる。娘がくだらないことに笑える、それだけで。


 入学式の受付を済ませ資料をもらった。ミナは私と別れて生徒用の並んだパイプ椅子に座る。

 丁度彼女の横顔が見える列に保護者用の席が1つ空いていた。いい位置なのに皆夫婦で来ているから誰も座らない。


「ここ、宜しいですか?」


 そう私が声をかけて振り向いたのは、まさかの昔の彼氏だった。驚いたのはあちらも同じで、平静を装っているのがわかる。

 彼の隣にはほっそりした綺麗な奥さんが座っていた。

 肌が白い。大ぶりのゴールドのイヤリングとネックレスが良く似合う。服も他の保護者より少しだけ派手でお洒落だった。

 彼が無言なので「どうぞ」と彼女がにこやかに言った。愛想がいい。


 私はなんとか動揺を隠しながら「ありがとうございます」と頭を下げて座った。隣のスーツ姿の彼も緊張しているのがわかる。彼は背が高くて細身のままだった。生活に余裕がありそうなのでジムに通っているのかもしれない。

 式が終わったらすぐに帰ろう、そう思っていたら膝上の分厚い入学案内封筒の上に乗せていたペンがかちゃりと音を立てて落ちた。

 仕事で使う武骨で使いやすい三菱の3色ボールペン。

 いつもなら恥ずかしくもないのだが、彼には見られたくなかった。奥さんは趣味のいい筆記具を使用しているだろう。

 急いで拾おうとすると、彼も同じタイミングで拾おうとして頭がぶつかった。「いたっ」というのも見事に同時だった。

 完全にシンクロした私達を見て奥さんが上品に笑った。

 私は「すいません…」と言いながら彼の顔を至近距離でまじまじ見てしまった。

 目を細めて優しく笑う彼の表情は昔の記憶のままだ。



 帰りのバスでぼんやりと汚れた自分の手を見る。仕事で植栽などするのでぼろぼろだ。

 肌はカサカサで潤いがない。土を触ると肌も爪も乾燥する。

 彼の綺麗な奥さんは家にちゃんといて、ちゃんと家の事をして彼の為に毎日身なりを整えているのだろう。彼女のピンクの爪は可愛くデコられていた。

 酷く自分が情けなくてみじめに感じる。

 そして、人と意味なく比べている自分にびっくりもした。20代の女子みたいだ。


 娘はぼんやりしている私を疲れていると勘違いした。


「マザー、午後は家でゆっくりしてて。あまり本を読み過ぎないでよね。すぐ頭が痛くなって薬使うんだから」


「ごめん、ぼーっとしてた。全然元気だよ」と私が笑って言うとほっとしたようだ。


 うつ病で行方不明の父と、仕事で忙しくて家事をおろそかにする私の間に生まれた子供にしてはかなり上出来な娘だった。最近私をマザーと呼ぶ。

 家族の洗濯物は彼女の担当だが、文句を言ったことがない。

 自分の高校時代を思い返し、彼女にも一生思い出に残る楽しい高校生活を送って欲しいと思う。人生で一番輝く時期だ。そんな子供たちがのんびりできる場所家庭を提供するのが私の役目だろう。

 そう思いながらミナと話していたらびっくりするようなことを言い出した。


「コウゲツアイちゃんって子と仲良くなったよ。私の前の席で話すようになって、一緒に部活入ろうねって…」


「コ、コウゲツ…アイちゃん?変わった苗字、だね」


 彼の苗字だ。ありえない事態にめまいがする。

 しかし考えてみれば4年間一度もケンカもなく付き合った私たちの娘同士だ、気が合うのも不思議ではない。

 家に帰って一応クラス名簿で確かめてみた。

 纐纈こうげつという苗字の生徒は一人しかいないので間違いがない。

 思わず大きなため息が出たが、娘の友達は私には直接関りがないし、もう彼と会う機会もないと願いたい。もちろん奥さんとも。



 そんな私のささやかな望みは叶わなかった。

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