虹霓
耳を澄ましてみても、窓を打つ雨の音は聞こえなかった。午後の教室を飛び交う無意味な言葉や時に奇声が分厚い膜のよう広がり、私の耳を塞いでいた。
なのに——
「雨、止まないね」
と蚊の鳴くようなよるべない私の声は、不思議と君にだけは届いた。
「もうすぐ梅雨も終わるよ」
声変わりしたばかりの、少し低い響き。
教室と雨の中間で揺れる波に打ち消されてしまいそうに静かなのに、分厚い膜を破るように耳に心地よく触れる。
幼かったころの声とは明らかに違う。でも、ざわつく心を落ち着かせるのは、いつだって君の声だった。
「そうなの?」
梅雨になるたび雨が降りやまないのではないかと、我ながらあどけない杞憂にあきれながらも、毎年のようにとらえがたい不安が生じた。
晴れた日に見えるはずの山の稜線は雲に覆われ、遠くの空を見通せない。
とにかく先が見えない。
私が何者でありたいのか、私は何者になりたいのか、なにをすれば良いのか、悪いのか、私の未来になにが待ち受けていて、これから私はなにを失うのか。
色のない雲が私を苛む。湿気でシャツが肌に張り付く。マスクの下がむれて気持ち悪い。じゃれあう生徒たちが発する無意味な熱が充満している。思春期独特の生々しい、血と汗が混淆した鼻を突く臭気が立ち込め、教室を埋める色のない雲になる。
未完成のからだには不釣り合いに横溢するエネルギーが、教室という小さな空間でひしめきあっているのだ。
窓の内側に閉じ込められた小さな虫が、最期の力を振り絞って、何度もなんども透明なガラスにぶつかっていた。
この小さな世界こそが、私にとっての全部な気がした。
「だって、ほら」
君は少し窓の方へと身を乗り出し、グラウンドを覗き込んだ。締め切られた窓は雨で濡れ、しずくに教室の光が反射していた。弱い蛍光灯の光が小さな水滴に閉じ込められている様子は、この教室そのもののようだった。
私も君をまねるように身を乗り出して見ると、スポットライトのような明るい光がグラウンドの水溜りを照らしている。
雨が終わる、夏の兆し。なんとなく、君の声が私を安心させる理由がわかった気がした。
「ほんとだ」
と私は言った。
「なにが?」
と私の声に反応したのは斎藤だった。
私が振り返ると、彼女は窓の外を見ていた。瞳に光がさした。と同時に、「あっ」と声を上げた。
斎藤の隣の席の中村が声に反応し、窓の外を見た。
ここ一週間ほど、中村は気が立っていた。サッカー部の大きな大会が控えていたことに加え、斎藤がテニスの大会で優勝し、表彰された。先を越されたと、彼なりの焦燥を抱えていたのだろう。
そんな彼が珍しく沈黙し、息を呑むのがわかった。
中村を意識したのか、斎藤の肩がかすかにこわばるのが見てとれた。
君はリトマス試験紙を見ているときと同じように、ぼうとした瞳に、裂けた空からこぼれる光が作り出す壮麗な自然現象を映し出していた。
誰が口にしたのかわからないが、「きれい」という言葉が確かに発せられた。三人の呼吸がそろった。
これほどまでに色と線の明瞭な二重の虹を見たのは初めてだった。
「反射と屈折。無数の水滴の球体を光が通って一回だけ反射するのが主虹で、二回反射するのが副虹になる。入る時と出る時に屈折して、光の波長、つまり色によって屈折する角度が違うから帯状の輪になる。色が反転するのは中で二回反射するか一回反射するかの違い。どっちも太陽の光をばらばらにしてる分解してるんだ」
私が君の流麗な語り口をどれだけ好いていたって、理解に繋がるわけではない。屈折や反射という聞き馴染みのある言葉の数々から解釈へと繋げようと試みても、君の言葉は私の耳からぽろぽろとこぼれおちていく。
後ろの二人を見やるが、どうやら彼らも同じく、理解などしていないらしかった。
「二重の虹を
君はなおも滔々と語った。
中村は「へえ」と間抜けな息を漏らしながら、ぼうとそれを聞いている。それを横目で盗み見る斉藤。再び前に視線を戻して、君を見る私。
色彩。光。反転。
窓とは逆の教室を見ると、たくさんの人がいる。声がする。毀誉褒貶があちこち飛び交い、絡まりあう。誰かが喜び、悲しみ、苦しみ、笑う。混沌。
教室の扉が開くと、先生が入ってくる。
かすかに静まり、緊張を断ち切るかのような号令とともに、ぱらぱらと立ち上がった生徒たちが、不揃いに礼をした。
再び空を振り返ると、虹はない。雨はやんでいた。
雨の色を探している testtest @testtest
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