卯の花腐し

「多分ね、中村はあたしのことを好きにはならない」


 しとどに濡れそぼつ袖から、絶え間なくしずくがしたたっていた。

 私は小さな折り畳み傘のなかに彼女を無理やり引き入れると、「そっか」と小さく返事をした。

 わずかに肩と肩が触れ、肌の冷たさが薄い布ごしに伝わってくる。

 そんなことないよ、の一言が気休めになるのであれば、そうしていたかもしれない。軽率な慰めを求めるほど彼女は弱くない。でも、ひとりでいられるほど、強くもなかった。


 彼女に傘を持たせた。

 スカートのポケットからハンカチを取り出し、濡れた髪を拭いてやった。教室だったら抗っていただろうが、誰もいない公園で、彼女は素直に甘えた。背後から肩や髪も拭いた。

 雨の向こうのぼやける遠景を眺めると、青鈍色の紫陽花が咲いていた。酸性の土。暗い。冷たい。

 という言葉を教えてくれたのは君だっただろうか。梅雨頃にの花をくさらせる長雨のことを、そう呼ぶ。


 散った花があれば、咲いた花もある。

 

「ありがと」


 と斎藤が言った。

 傘に入れたことへの、あるいは「そっか」の一言で済ませたことへの感謝の言葉なのか、私にはわからなかった。

 さらになにか続けようとしたが、彼女の呼吸も鼓動もぜんぶ、不規則に打つ雨の音に飲み込まれた。



 中村が告白されたという一大ニュースは、瞬く間に学校中に広がった。

 となれば、私が中村に相談されたことを知っていたのは、斎藤だけだと思う。でなければ私は今頃、クラスでうとままれる存在になっていたはずだ。

 フラれた張本人であるAさんは、清々しいほどに声をあげて泣いたそうだ。私は号泣という言葉を辞書で引き、正確な意味を確かめた。


『大声をあげて泣き叫ぶこと』


 翌日、泣き腫らした赤い目が、くっきりとした二重瞼のもとで潤んでいた。その上には綺麗な弓形ゆみなりの薄い眉、下には白い肌にほのかに差す頬の赤、そして少し生意気そうに尖る顎、ピンク色の厚い唇。

 ——Aさんだって綺麗だ。

 Aさんは実際に傷ついたのかもしれなかったが、自分は傷ついたのだ、と声をあげることで同情を誘い、自分を守った。

 Aさんは中村を責めなかった。責めれば自分に負のベクトルが向くと思ったのか、力の均衡が保てる妥協案をあらかじめ心得ていたかのような、終始見事な振る舞いだった。

 禁忌を犯したAさんが完璧な防衛線を築いたことで、事態は落ち着くべきところに落ち着いたのだろう。色恋沙汰には付き物の嫉妬や愛憎、おまけに幼さや拙さまで加わった、混沌に満ちた惨めな喜劇に陥るのを、彼女の知略によってまぬかれたのだ。


 Aさんの打算は賞賛に値する。


 中村にフラれたとしても、Aさんの格が落ちることはないどころか、失恋の影が落ち、一層とコントラストが深まった。

 Aさんはたった一日で、可愛いだけではない、美しさを備えたひとりの女になったのだ。

 恋、とりわけ失恋というものは、どうやら人を魅力的にしていくらしい。



 私たちは薄暗い教室で、テニスの試合を見ていた。

 テニスのことなどよく知らない。

 だが、教卓にでんと腰掛ける少女がわざわざテニスを見せるために連れ出したのではないことくらい、私にだってわかる。

 ちらと彼女の横顔を盗み見た。

 それに気づいた斎藤はこちらを振りかえり、梅雨の晴れ間のような爽やかな笑みを浮かべた。

 まるで昨日の涙なんてなかったかのように、精一杯に明朗な声で言った。


「昨日はごめんね。ありがと」


 彼女の言葉に、私は胸がすく思いがした。


「なんだ、元気じゃん」


 と、私もいつもより一段と高い声で答えた。


 放課後の教室を占拠するには、それなりの理由が必要となる。

 教室でテニスの試合の映像を検証したいと担任に頼んでみたところ、あっさりと許可がおりた。

 パンッ、とテレビから乾いた音が聞こえた。画面奥の選手がサーブを打ったらしい。手前の選手が打ち返した。コートの奥の中央あたりから、もう一度その球を跳ね返した。

 しばらくラリーが続いた。


「あの時さ、中村になに相談されたの?」


「告られた、どうすれば良いかって。馬鹿だよ、あいつ」


「げ、馬鹿だね、あいつ。……で、なんて言ったの」


 パンッと乾いた音が胸をつく。歓声があがる。どうやら走り回っていた手前の選手が得点したらしかった。


「Aさんのこと好きなのかって。それだけだよ」


 再び画面奥の選手が球を宙に放る。一番高い位置からラケットの中心でとらえられた球はゆったりとした軌道で手前のコートに落ちた。

 手前の選手はそれを強く弾き返した。球は直線的に、コートの縁ぎりぎりを走り、ワンバウンドして奥の緑色の壁にぶつかった。


「そっか。……それで?」


「好きじゃない、サッカーに集中したい。だってさ」


「ふーん、そっか……」


 斉藤の長いまつ毛の下の瞳に、テレビ画面の光が反射していた。泣いていないのに、つややかに潤んでいる。

 総毛立つような感覚が全身に走った。彼女から目が離せなかった。張りのある焼けた肌、短い黒髪、筋肉質な手足。


 馬鹿だ。中村は馬鹿だ。


 美しさとは、性別とは無関係に人を強く惹きつける。

 斎藤もAさんも疑う余地なく魅力的だ。そんな二人を差し置いて球蹴りに夢中になる気持ちなど、逆立ちしたって私にはわかり得ない。


「……サッカーだなんて馬鹿みたい。こんな良い女、私が男だったら絶対にほっとかないのに」


「アハハハ。なにそれ、告白のつもりかよ」


 静寂を打ち破り、観客の拍手と歓声が教室中にとどろいた。と同時に、二人は声をあげて笑った。

 テレビからひときわ大きな歓声があがり、カメラが切り替わると、二人の選手がネット越しに握手しているシーンが映し出された。

 斎藤はもう、画面を見てはいなかった。



 斎藤は大人だ。同い年だけど、私よりもずっと大人だ。

 君もいつもとても子供なのに、ふしぎと大人に見える瞬間がある。中村も、Aさんだって。他のクラスメイトだってきっと、なにかを持っている。


 私は君が好きだ。


 君が好きだけど、君が好きだということ以外、今はまだなにも持っていない。



 笑いすぎた斎藤の目尻から、ぽろんとひとつぶ涙が落ちた。私の目にも、涙がたまっていた。

 スカートが締め付けるのか、笑ったせいか、呼吸が苦しかった。


「……ホント、サッカーだなんて馬鹿みたい」


 そう言ってから斎藤は跳ねるように教卓からおりると、プレーヤーからブルーレイディスクを取り出した。

 黒い画面には椅子や机が映っている。

 窓の外の遠くの山の稜線に、太陽が隠れようとしていた。バッグにブルーレイディスクのケースを戻し、チャックをしめる。そうしたよどみのない彼女の動作のひとつひとつが、今日の終わりを告げる。

 唐突にけたたましいチャイムが鳴り響くと、沈黙が訪れた。夕暮れの教室には長い影が伸びていた。


「あたしもテニスに集中するよ。大会も近いし」


 バッグを持ち上げた。ほとんど空っぽのはずなのに、重たい気がする。なにか置いておこうかと考えてみてから、筆箱と弁当箱しかないことを思い出した。


 まだ少し、呼吸が苦しかった。


「そっか」


 斎藤の声から、少女のような甘い響きが消えていた。卯の花は散り、紫陽花は咲いている。それもいずれ散る。そして来年も美しく花開く。



 私は嫉妬する。Aさんに。斉藤に。二人を一日で変えてしまった中村に。サッカーに、テニスに。


 そしてまた、君のことを思い出す。

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