うちしめり

「俺、告白された」


 唐突に現れた中村の額から汗が滴っていた。

 今にも雨が降り出しそうな鈍色の空がうすく垂れている。近くの地面からかすかに土のにおいが立ちのぼるものの、梅雨入りが発表されてからまだ一度も雨は降ってはいなかった。


「げ、まじか」


 珍しく中村からメッセージがあり、部室棟の前に呼び出されたときにはすでに嫌な予感はしていた。

 それにしても最悪のタイミングだ。どうして今なのだ。


「げ、ってなんだよ。まじめに聞けよ」


 真剣な眼差しの彼のこめかみに光るしずくは、清涼飲料水のコマーシャル顔負けの爽やかさだった。

 私は思わず苦笑した。

 掃除の時間に抜けていなくなっていたと思えば、そういうことだったのだ。確かにあのとき、中村を呼びにきた女子がいた。

 肌がべたべたする。スカートがいやに太腿にはりつくような気がして、ぱたぱたとはたきながら内側へと風を誘う。

 特に気温が高いわけでもないのになんとなく下っ腹に熱を感じ、私は不意に君を思った。



 中村はクラス内で群を抜いて人気であるがゆえに、告白されることは少ない。彼はいわばサンクチュアリで、告白するということは、クラスというコミュニティにおいて禁忌を犯すことを意味する。

 斎藤についても同じことが言える。それゆえに、中村も斎藤も、自分たちがカーストの頂点に君臨していることに気づいてすらいない。というより、カーストの存在すら感じていない。

 そして例外的に君も。君だけはなぜか、階層の外にいる。


 小学校から中村、斉藤とは同じクラスが続いているせいで、私もはじめは二人と同じ感覚だった。

 中学に入ると、中村がクラスの女子の注目の的になっていることを知り、男子からは斎藤のことを頻繁に尋ねられるようになり、おや、と思った。

 なにかが違った。

 小学校の高学年からうっすらと感じていたのようなものが、中学入学とともに雲のように色づいてきた。


 雨が近い。傘が必要だ。



「ねえ、中村とどういう関係なの」


 Aさんに尋ねられたときに察した。私はまず、まっさきに私を守らなければならないと思った。


「ああ、あいつ、小学校からずっと同じクラスなんだ。もしかしてAさん、中村のこと好きなの」


 先手を打った。彼女は牽制に驚き口をつぐんだ。私は息つく暇を与えなかった。


「めっちゃ人気だよね。長い付き合いだから良いやつだってのはわかるけど、私的には恋愛対象にはならないな。っていうか私、【きみくんの方がいいと思うし」


「え、【君】君のことが好きなの?」


「好きっていうか……」


 私は君が好きだ。でも、告白するつもりもないし、する必要も感じない。

 君はいつもいくらか近くにいたし、私はそれが心地よかった。君のことを知りたいと望む以上に、君は常に君自身をさらけ出している。


「なんだ、それなら応援するよ!」


 Aさんは私の腕を無理やり握ると、上下に揺すぶった。肩が外れるかと思った。クラスで爪弾きにされるよりはましだ。

 私は私の守り方を学んだ。私の大切な人たちを、上手に利用して。



「へえ、告白ね。よかったじゃん」


 私は適当な相槌を打つ以外に、述べるべき言葉が見つからなかった。

 昨日斎藤の気持ちを知らされた。

 私は私を守るべきか、斉藤の意志を守るべきか、あるいは目の前の好青年に誠実に答えるべきか。


「よくねえよ。なあ、どうしたらいい?」


 私、斉藤、中村。三者が入り組んでいる。

 具体策を立てねば、確実に一番弱い私が矢面に立つことになる。かといって、二人を傷付けたいわけでもなければ、中村に対して勇気を振り絞って伝えたの心を踏み躙るわけにもいかない気がした。

 わずかでも責任を負うことになれば、中学生女子の嫉妬の渦に飲み込まれる。斉藤と中村、君と親しいことだけが、私を守り続けた。一番人気の男女と一番変人の君、そして平凡な、色のない私。


 誰も入り込めなかったはずの要塞が、崩れようとしていた。


「中村はさあ、相手の女子のこと、好きなの?」


 自然と口をついて出たのは、なんの打算もない言葉だった。


「好きっていうか、嫌いではない。つうか俺、嫌いなやつとかいないし」


「私が訊いたのは、相手の女子のことをなのかってことだよ」


 私は私を守りたい。中村に、そして中村に告白した女子に、そして斎藤に、誠実に向き合うことでしか、私は私を守れないような気がした。言い訳なしで正当化せず、正直さだけを信じて。だからこそ、尋ねなければならないことだった。


 そしてなぜかふと、君の顔が浮かんだ。


「好き、ではないかな。今はサッカーに集中したいし」


「ならさ、そのままを伝えれば良いよ。最初から答えがわかってたんなら、私に聞くことじゃないじゃん」


 中村は半袖の肩口の部分で、頬の汗を拭った。しばらく考え込むように低い声で唸っていた。


『あたしはさ、【きみくんのことが好きなんだよね。ちゃんと好き。だから中村もさ、そう思える相手なら、付き合えば良いと思うよ』


 と、私は心の中で叫んだ。

 目の前の少年に、その声は届かない。彼は俯いたまま両腕で頭を抱えていた。ちょっとかわいそうだ。

 鈍色の雲が覆う空からは、まだ雨は落ちてこない。


『はやく降れば良いのに』


 解放されたかった。

 遠くに斎藤の姿を見つけた。制服姿の私と、体操着姿の中村の並ぶ様子が向こうからは見えているはずだった。


『はやく、雨が降れば良いのに』


 中村が顔をあげると、やはり額は汗に濡れていた。


「そうだよな。なに悩んでたんだろ、馬鹿みたいだわ。ありがとな!」


 私が返事をする隙すら与えず、中村はグラウンドの方へと走っていった。テニスコートで斎藤が、走る中村を目で追いかけていた。



 いずれ菖蒲あやめ杜若かきつばた。国語の授業で習ったばかりの言葉。


『うちしめりあやめぞかをるほととぎす鳴くや五月の雨の夕暮れ』


 あやめ、菖蒲しょうぶ、杜若。私には見分けがつかない。ほととぎすの赤い口のようになるまで、私はこの苦境を嘆かなければならないのだろうか。

 鮮烈な紫が一瞬だけ私の網膜に幻影として映し出された。あやめ。菖蒲。杜若。私のよく知らない花々が、水辺で美しく咲き誇っている。


『郭公鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな』


 斎藤の恋愛のあやめは、私には読めそうにない。

 中村と斉藤。甲乙つけがたい友人のいずれかを選ばなければならぬわけでもないというのに、私は何を思い悩んでいるのだろうか。


 遠く離れていても、体操着のズボンの鮮やかな紫色は、鈍色の雲のしたでよく映えていた。濃い紫は、私たちの学年色だ。

 どうしてあの二人だけが、雲のしたできらきらと光って、くっきりとした色を持っているのだろう。

 背が高いからか。よく笑うからか。勉強ができるから。スポーツが得意だから。クラスの人気者だから。

 いや、違う。二人は——。



 部室棟の扉のガラスに、ほんのり私の姿が反射していた。曇っていて、ほとんど見えなかった。


 ああ、雨が降る。空を見上げてそう思った瞬間、私の頬をしずくが濡らしていた。

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