雨の色を探している

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あじさいとリトマス試験紙

 赤くなったリトマス試験紙はまだ濡れたままだった。


「水溶液は素手では触らないでくださいねー」


 実験の前の注意であらかじめ言われたことではあったが、水酸化ナトリウムの水溶液を触った少年たちが声を上げて騒いでいた。私の指先にも彼らと同じように、ぬめぬめとした感触が残っている。

 タンパク質はアルカリ性の水溶液で溶けるのだという。ぬめぬめするのは、皮膚が溶けているからだ、と。

 皮膚が溶けるほどの強いアルカリ性の水溶液を学校の実験で用いるものだろうか。疑問に思っても、私は問わない。なんとなく、君がその答えを知っているような気がした。

 大きな机の斜向かいに君は座る。

 希釈した塩酸のビーカー越しに、赤いリトマス試験紙を睨む。まるで昆虫を観察する小さな子供だった。世界のあらゆる真実が、薄いリトマス試験紙に色となって浮いてくるのを待つかのように、真剣に、静かに、忍耐強く。


 ——そう、君は今日も、私以外のなにかに夢中になっているのだ。


 私はノートに書いた板書を確かめるように視線を落とし、シャーペンで赤色、青色と書き足した。

 顔を上げた。君はまだ、赤いリトマス試験紙と睨めっこしている。さて、君はそこに、何を見るのだろうか。


「ねえ、なにそんなじっと見てんの?」


 隣の斎藤が尋ねた。

 私が訊いてみる必要はなかった。斎藤か中村のどちらかがどうせ先んじるだろうと思っていたからで、案の定、斎藤は期待を裏切らない。

 中村はちらと斎藤を睨むと、斎藤はためらいもなく睨み返す。中村も同じことを尋ねようとしていたのだろう。先に斎藤が訊いたのが気に食わなかったらしい。

 無言で行われるこうしたやりとりを見るのも、何年目になるだろうか。

 ふたりは仲が良いのか悪いのか、いつもいがみあっているようにもじゃれあっているようにも見えた。

 実際には互いに深い敬意を払っている。私は知っている。ひょっとしたら斎藤は中村のことを……、と思うことすらあるが、本人の口から直接聞いたことはない。


「あじさいは土壌のペーハーによって花の色が変わるんだ」


「ん、どじょうのぺーはー?」


 君以外の三人が息ぴったりに首を傾げた。聞いたことがある気もしたが、斎藤と中村に合わせておくのが無難だ。

 リトマス試験紙を机に置くと、君は窓の外に視線をやった。そこには青いあじさいが咲き、空の青を煌々とはじきかえしていた。


 梅雨だというの、今日も快晴だ。


「植えられてる土が酸性かアルカリ性かってこと。あじさいの色はリトマス試験紙と逆なんだ。リトマス試験紙は酸性だと赤、アルカリ性だと青」


「え、じゃあ、あそこの土は酸性だってことか」


 察しの良い中村は窓の外のあじさいを見て、すぐさま君の言葉に応じた。親の注意を引こうと競う兄弟のようだ。斎藤への対抗心が剥き出しだった。


 君はしずかに頷くと、今度は水酸化ナトリウム水溶液のビーカーを手に取り、その奥に青くなったリトマス試験紙を揺らし、宙にゆらゆら咲き誇る四葩よひらのごとき色を目で追った。

 なんの目的があるのか、君は綺麗な二重まぶたの両目を細めて、色をつぶさに観察している。

 君にならって、私たち三人も同じようにそれを見た。


 青い紙は頼りない。薄く、空調の風にすら揺れるくらい軽く、濃いはずの青はあじさいに見劣りするような艶の欠けた青だった。

 君が手に持つ根元だけが、もとの赤い色を隠している。

 水溶液にひたした部分は見事に変色していた。なんてことのない、とても簡単な実験だった。


「化学って不思議。こんなことで色が変わっちゃうんだもんね」


 私の言葉に、君がわずかに反応した。


「あじさいはアルミニウムを取り込むか否かで色に違いが出る。酸性の土壌はアルミニウムが溶けやすく、アルカリ性だと溶けにくい。つまり、酸性の土壌でアルミニウムが溶けているとあじさいは青く咲き、アルカリ性の土壌でアルミニウムが溶けていないとあじさいは赤く咲く、となる」


 滔々と語る君は、いくらか誇らし気に見えた。


「赤っていうより、ピンクとか紫ってほうが近いけどね」


 斎藤は睨みをきかせるように、斜向かいの中村を盗み見た。

 小麦色に焼けた肌は運動部のそれで、長年テニスをやってきた証だ。身長は女子のなかで一番高い。威圧感のある切れ長の目からのぞく瞳は黒く、わずかに潤いを湛えている。

 同性からみても悔しいほど魅力的だが、嫌味がない。いや、私には彼女の弱さや繊細さが十分すぎるほどわかるからそう思うだけで、他のクラスメイトからすれば、容易に羨望や嫉妬の的となることもよくわかる。

 周囲とのいざこざが絶えないのは、斎藤の容姿の魅力だけが原因ではない。あまりに気が強すぎる。


「あいかわらず斎藤はそういうとここまけーな。別に、そんな違いんことを話してんじゃねえっての」


 中村は脂下やにさがりぎみにあごをつきだした。

 精悍な顔立ちの少年だった。サッカー部の学年のキャプテンで、成績優秀、明るく闊達な性格で、クラスで二番目に背が高い。粗野な言葉遣いであっても、人の区別なく気さくに話しかけるため、誰からも好かれる。本当に、誰からも。

 そんな人間いるわけがない、と思いながらも目の前にいるのだからしかたない。まるでフィクションの登場人物のようなクラスメイトだった。


 なのに不思議と彼は、君と一緒にいることが多い。


「わかってるけど、別に気になっただけじゃん」


 互いに憎まれ口をきくのは、気心がよく知れているからだ。


 斎藤がテニスで県ベストフォーという成績を収めれば、追うように中村がサッカーで県の選抜に選ばれる。競技は違えど、切磋琢磨してきた。中村がいなければ斎藤の努力はなく、斎藤がいなければ中村の努力もなかった。

 切っても切れない腐れ縁だと、どうやらふたりはまだ気づいていない。私だけが知っている。いや——。


「ったく、これだから斎藤は」


「だから、別に良いでしょ」


 君は私を見た。私も君を見た。

 痴話喧嘩のようだと思って私は笑った。そしてそのとき君も、同じように笑っていた。

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