第3話 再会

 冬が深まっていく。


 アリツェも一応子爵令嬢だ。しかも去年十八歳になった。そろそろ父の都合のいい相手と結婚しなければならない頃だ。


 父が言うには、まだ結婚相手が決まらないのは王都の政変のせいらしい。王都ではとうとう兄王派が弟を征伐するために兵をあげ、実質的な内戦状態になっているという。さすがにここまでくると王都からこの地まで逃れてくる者もあり、父も無関係ではいられなくなってしまった。父は優しい人だ。そんな混乱のさなかに愛娘を放り出す真似はしたくない、ということなのだろう。


 複雑な心境だ。


 この年まで大事に育ててくれた、嫁ぎ先まで細心の注意を払って選ぼうとしてくれる父に報いたい。そのために一番いいのは黙っていずれ父が決めてくれるであろう相手に嫁ぐことだ。


 けれど、アリツェは、日に日にハヴェルへの想いが募っていくのを感じていた。知らない人のもとへは嫁ぎたくないと、ハヴェルとこの田舎の屋敷で平和に暮らしたいと思ってしまう。


 酷い女だ。

 王都の混乱に助けられていると思ってしまう自分がいる。

 なんと残酷な女だろう。内乱に巻き込まれて命さえ落とす者があるという中、自分は混迷が深まれば深まるほど猶予ができると思ってしまっている。


 ハヴェルがこんな自分を断罪してくれたらどんなにいいことか、と思うことがある。


 だがハヴェルは相変わらず優しくて、世間知らずでとんちんかんなアリツェの話に根気強く付き合ってくれて、それから、時折、触れるだけの優しい口づけをしてくれる。




 雪が降り始めた。


 アリツェはさまよい出るように自分の寝室を出て温室に向かった。


 それでも、それでも、ハヴェルに会いたかった。

 ハヴェルもそう思ってくれていると信じたかった。


 空が雪雲に覆われている今日はさすがに温室の中も多少冷える。庭師たちが――ハヴェルが寒い思いをしていないといい。


 階段をおり、サロンの扉を開ける。温室に通じるドアのほうを見る。


 次の時、アリツェは目を大きく見開いた。


 温室のほうからサロンに、人がばらばらと出てきた。

 庭師たちではなかった。他の使用人たちでもなかった。

 アリツェの目には、彼らが兵士であるように見えた。揃いの赤い制服を着て、胸に徽章をつけ、頭に黒い帽子をかぶり、腰にサーベルを帯びている。


 驚きと恐怖で何歩か下がった。そのうち壁に背中を打ちつけた。


 男たちの間から、背の高い青年が出てきた。


 いつもの野良着のような作業着の上に高価そうなマントを羽織っているのは、ハヴェルだった。


 彼はいつになく険しい顔をしていたが、声は落ち着いていた。


「彼女がブラフタ子爵の娘のアリツェ嬢だ。最大限の礼を払え」


 兵士たちはハヴェルに敬礼した後、アリツェに向かって深く頭を下げた。


 アリツェは心臓が爆発するのではないかと思うほどの緊張を覚えた。


 いつもの恰好、いつもの髪形、見慣れた顔なのに、いつものハヴェルではない。

 冷たい表情、それから、命令し慣れた者の口調だ。


 硬直しているアリツェに気づいたらしい。ハヴェルがこちらを向いて苦笑した。その表情は優しく、今度こそアリツェの見慣れたハヴェルの表情だった。


「驚かせてしまいましたね」


 声が震える。


「これは、どういうこと?」


 ハヴェルは何も答えてくれなかった。


「今説明するのは早い。すべては事がってからにしましょう」

「ことがなってから? どう……?」

「これ以上子爵に迷惑をかけられません。僕はもといたところに戻ります」


 密かに拳を握り締める。

 自分の憶測が現実味を帯びてくる。


「王都に……帰るの……?」


 その問いかけにも、ハヴェルは緩く首を横に振るだけで回答してくれなかった。


「必ず迎えに来ます」


 アリツェを怖がらせないよう、ゆっくりした足取りで歩み寄ってくる。


 手を伸ばす。

 土いじりに慣れた、かさついて黒ずんだ手だった。


「……この手は、汚れすぎているので」


 大きな手が、アリツェの顎をとらえた。


 顔を上げさせられる。


 唇と唇が触れる。


 ほんのそれだけだった。


「絶対に、すべてを片づけてきますから。あなたのために」


 それが最後だ。


「もう一度子爵に挨拶をする。行くぞ」


 ハヴェルが言うと、兵士たちがまた敬礼した。

 男たちがサロンを出ていく。

 アリツェはその背中を呆然と見送るしかできなかった。


 ややしてから、自分の唇に触れた。


 これが最後の口づけだったのだろうか。


 ハヴェルは迎えに来てくれると言った。信じよう。信じたい。


 それでも不安が込み上げてきて、耐え切れなくなったアリツェは床に座り込んだ。


 とにかく今確かに言えるのはひとつだけ――ハヴェルはもうあの温室にはいないということだ。


 もう、温室では会えない。


 信じるしかない。

 今の自分にできることは、信じて待つことだけなのだ。






 アリツェは領地の屋敷でただひたすらハヴェルを待ち続けた。


 父にハヴェルは本当はいったいどこの誰なのか聞いてみたが、絶対に答えてくれなかった。

 ヤーヒムも教えてくれなかった。というより、彼も正確なところはわかっていないようだった。ぶっきらぼうに「あいつは俺の弟子だった。だが辞めた。それで十分だ」と言った彼の様子は力強く、ともかく送り出したことは彼の正義に適うことだったのだというのだけは察した。


 そうこうしているうちに冬は終わり、温室に花が咲き出した。ハヴェルが世話をしていた花だ。その美しい花々を彼と一緒に見られないのが悲しかった。

 やがて夏が来た。南洋の草木が実をつけた。けれどそれをハヴェルが見ることはない。

 秋が来る。秋の花が咲く。そして次の春の準備が始まる。それから冬、春、夏――


 いつの間にか三年の月日が流れていた。


 アリツェはただただ、待ち続けた。


 王都の様子は父伝いで聞いていた。


 最初の頃こそ兄王派と王弟派の泥沼の争いが血を血で争う内戦に発展したことを恐ろしく思い、また王都に帰ったであろうハヴェルが心配で胸が潰れそうだったが、やがて兄王が退位し、王弟が王位に就くと、国には少しずつ平和が戻ってきた。


 まだときどき小競り合いがあるらしく、父はアリツェを王都に連れていきたがらない。けれど平和であればハヴェルが生きている可能性も上がる。


 生きていてほしい。

 どんな形でもいいから、この混乱の中を生き延びてほしい。


 もしも彼が兄王派の人間だったら――

 処刑台で首を刎ねられた人々の中に彼がいたら――


 考えないようにしていた。


 なるようになる。大丈夫だ。


 万が一そうであれば自分は一生喪服を着て生きればいい。


 父はアリツェを無理に結婚させようとはしなかった。建前上はまだ内乱の後始末が完全に終わったわけではないからというが、ひょっとしたら、彼はアリツェがハヴェルに想いを寄せていたのを知っていたのかもしれなかった。




 アリツェに客が訪れたのは、三度目の冬が始まろうとしている頃のことだった。


 侍女に玄関へ来るよう促され、アリツェは少し混乱した。自分を訪ねてくる客というのが思いつかなかったからだ。


「どなた?」

「いいから、こちらにおいでになって」


 侍女が楽しそうに笑う。


「きっと驚かれますよ。それが私たちの楽しみなのです」

「どういうこと? ちょっと性格が悪いんじゃないかしら」

「早く、早く」


 私室を出る。長い廊下の絨毯を踏み締める。玄関ホールの大階段にたどり着く。


 玄関に立っていたのは数人の男性だった。


 アリツェは目を丸くした。


 彼らの着ている揃いの服に、見覚えがあった。


 あの時、ハヴェルを連れに来た人々だ。


 鼓動が高鳴る。


 一歩ずつ、階段をおりていく。


 兵士たちの間から、ひとりの青年が出てくる。


 月光を紡いだような金の髪、日光を凝縮したような金の瞳、優しく穏やかな笑顔――金の肩章とボタンのついた赤い服はあの時の作業着ではなく高価で上品なものだが、見間違えようもない。


「アリツェ様――アリツェ」


 三年間、落ち着いたこの声を待ちわびていた。


 アリツェが玄関ホールで彼の目の前に立つと、彼は大仰にひざまずいて言った。


「挨拶が遅れてすみませんでした」

「あの、あなたは――」

「エドムント王長男、王太子ハヴェルと申します」


 ハヴェルは、少しいたずらそうに目を細めて、にっこり笑った。


「伯父を倒して、三年。長かった。ずっとあなたにもう一度会いたかった」


 立ち上がり、アリツェの手を取る。

 その手は厚く硬く、剪定ばさみや鎌ではなく剣を握り続けてきたことを連想させられた。


「絶対に迎えに来ると言った」


 信じてずっと、待っていた。


「今度は、あなたを王都に連れて帰るからね。そして城の庭に温室をつくろう、あなたのために」


 アリツェは興奮を抑えて頷いた。



<完>


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

口づけ、むせかえる緑の中にて 日崎アユム/丹羽夏子 @shahexorshid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ