第2話 口づけ
ハヴェルはやはりアリツェより二歳年上の二十歳らしい。職人に弟子入りするには少し遅い気もするが、ヤーヒムがわざと訳ありの青少年を引き取って養いながら技術を教えることがあるのを知っていたので、アリツェは深く追及しないことにした。彼もきっと何か理由があってヤーヒムの世話になっているのだろう。ヤーヒムは口は悪く態度もけしていいとは言えないが、根は優しくて面倒見のよい男だ。
立ち居振る舞いから察するに、ハヴェルは本当は高貴な身分の人間だ。けれど何か事情があって家にいられなくなったに違いない。田舎で穏やかに育てられたアリツェには想像もつかない恐ろしいことがあったのだ。もしかしたらハヴェルという名も本名ではないかもしれなかった。
父の子爵からふんわり概要を聞いただけだが、どうやら今、王都は荒れているらしい。兄王と王弟が反目し、貴族たちは兄派と弟派に分裂しているという。しかも廷臣だけではない。一般市民までがやれ兄のほうが勇敢だ弟のほうが聡明だなどと言って揉めており、時折決闘沙汰にまで発展して治安が悪くなっているとのことだ。
想像を巡らせる。
ハヴェルの親もそういう闘争に巻き込まれているのではないだろうか。ハヴェルの親がどちら派かはわからないが、とにかくもう息子の身の危険を感じるほどひどい立場に立たされていて、何かが起こる前に脱走させたのではないか。
すべてはアリツェの憶測だ。
都会が荒れ果てていても田舎の領地は平穏で、多少交易品が滞るようになったようだがそれでも基本的には自給自足だし、アリツェが王都の騒ぎに接することはない。
「アリツェ様」
今日、ハヴェルは温室で春に花を咲かせる草の世話をしていた。といっても、土から生えてきた雑草を引っこ抜くだけの仕事だ。まだ弟子入りして一ヵ月のハヴェルに枝の剪定のような大仕事は回ってこない。
春に、とはいうが、温室は暖かいので、きっと冬の間、この一ヵ月か二ヵ月で咲いてしまうに違いない。その花をしっかり咲かせるためには、周りの雑草には下がってもらうしかない。しかし根を断つのは命を絶つのと同義だ。アリツェはいつも悲しい。
ハヴェルが引っこ抜いた雑草を眺める。
この子たちも、温室の外で生まれていれば花を咲かせるまで生きられたのだろうか。それを人間であるブラフタ子爵家の者たちの娯楽と庭師たちのプライドのために手折られてしまうのか。自分たちは罪深い存在だ。
「なに難しい顔をしているんですか」
はっとして顔を上げると、ハヴェルがアリツェを見つめて微笑んでいた。
微笑むハヴェルは美しい。つくりは彫像のようでいて、冷たさがない。
基本的に、彼は優しい。いつも笑顔だ。庭師という重労働に従事していながらも、眺めているだけのアリツェを邪険にしたりはしない。アリツェを見つけるといつもこんな顔で迎えてくれた。
たまに、都会はこんな人ばかりなのだろうか、と考えてしまうことがある。ハヴェル自身が都会から来たと言ったことは一度もないのに、だ。
「温室の外で生きるって、どういうことかしら、と思ったの」
アリツェは息を吐いた。
「この雑草も、温室の外で生まれ育てば、花を咲かせたかもしれない」
「花をつけない品種ですよ」
「……ま、まあ、それはおいておいて。なんというか、ここで人間の勝手で根っこごと引き抜かれてしまうのは可哀想な気がしたの」
ハヴェルが苦笑する。
「アリツェ様がそんな優しい気持ちで見つめている雑草を引っこ抜く僕は嫌な奴ですね」
慌てて首を横に振った。
「ですが、残念ながら、共存はできないのです。庭の花を守るためには彼らに撤退してもらわなければ」
「悲しいわ」
「まあ、でも、抜いた草を捨てるわけでもありませんからね。裏庭で焼いて肥料にするんです」
つまりこの温室に形を変えて戻ってくるということだ。アリツェはちょっとほっとした。
「そうだったの。わたし、十年以上ここに通っているのに何にも知らないわ」
「いくつになっても新しい発見はありますよ」
ハヴェルが手を止め、立ち上がる。
「僕もここに来てから知らないことをたくさん知ることができました。園芸のことはもちろん、世の中のことをたくさん勉強しています。ヤーヒムはもちろん、子爵――ご領主様にもたいへん深く感謝しています」
「そう……」
アリツェはポシェットからハンカチを取り出した。
手を伸ばし、ハヴェルの額に浮かぶ汗をそっと拭う。
そんなアリツェの行動に驚いたらしく、ハヴェルが目を真ん丸にした。
「お疲れ様」
ハヴェルが目を細めた。
「アリツェ様は、他の庭師たちにもこんなことをなさっているんですか?」
問われて、アリツェは頬が赤らむのを感じた。
そんなわけがない。どの庭師にも親しく接しているつもりではあるが、こんな至近距離まで来るのはハヴェルただひとりだ。
いつの間にか、アリツェはハヴェルに惹かれているのを感じていた。
彼の役に立ちたい。彼に癒されてほしい。
彼の前ではいい女の子でいたい。
そんな自分はあさましいだろうか。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。ハヴェルが美しいからだろうか。ハヴェルが上品だからだろうか。自分が世間知らずで、年が近くて見慣れない男性への緊張を恋慕と勘違いしているだけだろうか。
恥ずかしくなってうつむいた。
「……アリツェ様」
ただ名前を呼ばれているだけなのに、心臓が胸の中で弾む。
「顔を上げて」
言われるがままおそるおそる顔を上げた。
次の時だった。
アリツェは目を真ん丸にした。
ハヴェルの顔がすぐそこにあった。
何も言えなかった。
気がついたら、唇と唇が触れ合っていた。
生まれて初めての感触だった。
柔らかかった。
「……すみません、手が汚れているので、これくらいしか」
ハヴェルが土と草の汁にまみれた手の平を見せる。
左の人差し指と中指に濃い傷跡がのこっていた。しかし何か後遺症があるわけでもなく、普通に動くらしい。それに安心する。
彼が少しでも安楽のうちに暮らせますように。
「……あ、あの」
「お嫌でしたか?」
慌てて首を横に振る。
「で、でも、恥ずかしいので、出直してきます」
「そうですか」
「勘違いなさらないでね、嫌だったわけじゃないの、本当に、とても照れてしまって――」
「本当に?」
ハヴェルの金の瞳がいたずらそうに覗き込んでくる。
「信じてもいい?」
耳まで熱くなった。
「……お父様やヤーヒムには、内緒で」
「当然ですよ。僕が殺されてしまいます」
そう言って笑うハヴェルから目を逸らした。
「ま。またしてね。といったら、ハヴェルはわたしのこと、はしたない女だと思う?」
彼は少しのあいだ何も言わなかった。少々時間を置いてから、呟くようにこう言った。
「あなたが望んでくださるのなら、何度でも」
あまりの照れ臭さに、アリツェは「またね」と言いながら逃げ出した。
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