口づけ、むせかえる緑の中にて

日崎アユム/丹羽夏子

第1話 出会い

 アリツェの住まう屋敷には温室がある。


 この屋敷は二階建てで、大小五つのサロンがあるが、うち一階南西のサロンは庭の温室とつながっていた。サロンの南側が全面ガラス張りの窓になっていて、その一部が開いてすぐそこに隣接している温室に入れるようになっているのだ。


 温室の中では年間を通してさまざまな花が咲いている。冬の今でも、だ。天井のガラスのドームは冬でも太陽の光を集めて、同じくガラスの壁は分厚く寒さを遮ってくれる。中に入ると少し蒸し暑いくらいで、フェルトのドレスを着ているアリツェは少し汗ばむのを感じた。


 アリツェはこの温室が大好きだ。美しい花々はいつもアリツェを和ませてくれる。


 生来能天気な気質のアリツェにそんな深刻な悩みはなかったが、それでも落ち込む日がまったくないわけでもない。そういう日には温室にこもってじっと耐えるに限る。


 むしろ、生来能天気だったからこそ、かもしれない。周囲の人間がアリツェにそのままでいてほしいと願っていることに気づいてしまったから、温室に引きこもる時間が必要になったのかもしれない。


 明るく元気なアリツェでい続けるためには、温室という隠れ家でこっそり泣いて自分を励ます必要がある。自分自身を保つため、アリツェがアリツェであり続けるために、この温室はなくてはならない。


 特に四年前母が亡くなった時は毎日つらかったが、この世の終わりのような顔をしていた父や弟のために、アリツェは極力明るく振る舞い続けた。そうして疲弊していく心を癒してくれたのはこの温室という空間であり、温室で育っている草花であり、また、温室の整備のために働く庭師の親方のヤーヒムとその徒弟たちだった。


 今日は出入りの商人が街で人気の焼き菓子を持ってきてくれた。ふんわりと柔らかくバターの風味たっぷりのその菓子は最近この街に入ってきたばかりのもので、王都では一般的な菓子らしい。


 王都から遠く離れたこの山間の街にはそういう流行が入ってくるのがちょっと遅い。しかし、領主一族の娘として生まれ可愛がられて育ったアリツェは、それも当たり前のこととして受け止めている。出入りの商人が教えてくれる流行りを遠くから眺めていて、そんなに特別うらやましいとは思っていなかった。


 せっかくいただいたのだから、みんなと分かち合おう。そう思い、アリツェはかごに菓子を山のように盛って屋敷中を配り歩いていた。領主のご令嬢から流行りの菓子を貰った使用人たちはみんな一様に喜んでくれて、アリツェは菓子そのものよりもそんな笑顔のほうに価値を感じた。


 庭師たちにも菓子を喜んでほしい。いかつい男たちも甘い菓子は好きに違いない。仕事の休憩にちょうどいいだろう。アリツェはそんなことを考えながら温室にやってきた。


 いざ温室に入ると、中は静かだった。ここに来れば誰かには会えると思っていたが、みんな出払っているのかもしれない。何せ田舎の余った土地に建てられているこの屋敷の庭は広大で、庭師たちは毎日忙しくあっちこっちを行ったり来たりしている。


 もしや、かえって邪魔なのでは、とアリツェは思った。庭師たちは誰ひとりとしてアリツェにそんなことを言わなかったが、誰もいない温室でひとりぽつんとたたずんでいると、ごくたまにこうして不安に駆られる。


「もしもーし」


 小さな声で問いかける。


「誰かいないかしら。お菓子をもってきたんだけど、わたし、出直したほうがいいかしら?」


 返事はないものと勝手に思い込んでいた。


 右側のほう、背の高い南洋の植物の陰から、がさり、と物音が聞こえてきた。


 文字どおり温室育ちのアリツェは何の疑問も持たずに音のほうを向いた。


「誰かいるの?」


 菓子のかごを持ったまま歩み寄る。


 返事がない。


 この温室の中に人間以外の動物が出るわけがない。誰か喋るのに支障のある人がいるのかしら――そんなことを思いながら、草花を掻き分けて木の根元を見た。


 そこに座り込んでいたのは、見慣れぬ青年だった。


 アリツェは、思わず、ほう、と息を吐いた。


 美しい青年だった。高い鼻筋に彫りの深い二重まぶたをしている。乱れた髪は月光を紡いだような金で、こちらを見る瞳は日光を凝縮したような金だった。少しくたびれた表情、汗をかいた首筋が妙に色っぽく、男性に対してそんな感想を抱く自分はおかしくないかとどきまぎしてしまった。


 彼はつぎはぎのある汚れた木綿の作業着を着ていた。足元も使い古されてひび割れた革のショートブーツだ。手も頬も土で汚れている。どうも高貴なお客様ではないらしい。だが街にこんなに美しい人がいたら女性たちの間で噂になりそうなものだ。最近どこかから流れ着いた人なのだろう。


 アリツェはしばらく彼をしげしげと眺めていたが、ややして気がついた。


 怪我をしている。


 彼は左手の人差し指と中指にぼろきれを巻いていた。そしてその布の下からは真っ赤な血が滲んでいた。流れ出る血に背筋が寒くなる。


 慌てて駆け寄り、すぐそばにしゃがみ込んだ。


「その指、どうなさったの」


 青年が苦笑した。思っていたより柔らかく優しい表情だ。


「少しへまをやらかしてしまいまして。簡単な草むしりをするだけのつもりだったのですが、鎌で、ちょっと」


 いでたちに見合わない、丁寧な言葉遣いだ。


 けれど今はそんな細かいところを気にしている場合ではない。目の前に傷を負った人間がいるのだ。医療の心得など何もなかったが、それでも何かしたくて、アリツェは唾を飲んで拳を握り締めた。


「とにかく、土を落として、清潔にしたほうがいい――のよね、たぶん。そんな汚れた布、ダメ。こっちを使って」


 庭師たちに菓子を食べる前に手を拭いてもらおうと思って持参した濡れ布巾を広げる。


 左手で布巾を持ったまま、右手でおそるおそる青年の指に手を伸ばした。


 怖い。人間の血だ。それでも助けてあげたい。なんとかがんばらないといけない。


 布を引き剥がすと、思いのほか深い傷が見えてきて、アリツェはたまらず「ひっ」と悲鳴を上げて顔を背けた。


「ごっ、ごめんなさい! わたし、お役に立てそうにないかも……っ」

「気持ちが悪いですか」

「見てあげられなくて本当に申し訳ないわ。でもとにかく、そのままにしたらダメよ。こっちの布を当てて」


 青年が自らアリツェの手から濡れ布巾を取った。


「ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」


 そう言われて顔を向けると、彼が指を白い濡れ布巾で覆っているのが見えた。自分で拭いたらしく、指も四本清められている。アリツェは、はあ、と息を吐いて胸を撫で下ろした。


「お医者様にかかったほうがいいわ。ちょっと痛いかもしれないけれど……、怖いけれど、ぬ、縫ったほうがいいかもしれない」


 アリツェがそう言うと、青年が、今度はからっとした声で笑ってくれた。


「痛いのも怖いのもあなたではなくて僕だから大丈夫ですよ」


 自分が情けなくなってきてしまって、アリツェは頬が熱くなるのを感じた。


「ヤーヒムには言った?」

「それが、僕も変な意地を張ってしまって。これくらいのことでこんな傷を作って、怒鳴られるかな、と思うと、勇気が出ないんです」


 青年はアリツェより少し年上、二十歳かもうちょっとぐらいに見えるが、まるでアリツェの弟のようなことを言う。それになんだか安心して、アリツェは今度は胸を張った。我がことながら表情がころころとよく変わる娘だ。


「しょうがないわね、わたしが一緒に言いに行ってあげる」


 青年がくすりと笑う。


「ありがとうございます」


 そして立ち上がった。アリツェは彼を見上げることになった。すらりと背が高くて、立ち姿がしっかりしている。立ち上がる様子を見ていただけだが、なんとなく、気品のある人だ、と思った。


「では、お言葉に甘えて。一緒にヤーヒムに怒られていただいて、医者を呼んでくださいませんか」


 アリツェも立ち上がって「はい」と頷いた。


「いえ、ヤーヒムに怒られるのはあなただけなんですけれどね! あなたがヤーヒムにお説教されている間、わたしはお医者様を呼びに行く、というのでどう?」

「そうですね、それでお願い致します」


 ふたり連れ立って温室の西側のドア、庭師たちの通用口のほうへ向かう。


「あなたがここのアリツェお嬢様ですか」

「はい、そうです! わたしはアリツェ・ブラフタ、ブラフタ子爵の長女です。あなたは? 最近うちに来た方?」

「ええ、先週からヤーヒムの弟子としてお世話になっております、ハヴェルと申します。どうぞお見知りおきを」



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