正しくないといけない病



 とてつもなく個人的な問題を出してみる。

 私はとあるアーティストが好きだ。仮にAとする。そのアーティストが所属するレーベルにはBというAの後輩アーティストがいる。BはAが強く売り出していたのと同じ強みを持つ。AとBを両方とも応援しているファンもいるが、片方だけ推しているファンもいる。私はAと共通点が多いことからBも好きだ。

 が、中にはBをあまり良く思わないAファンがいる。Aを推す用のアカウントを持っている私だが、Bにハマっていることはそれほど頻繁に発していない。

 ある日、フォロワーがBを批判しているツイートをリツイートし、元ツイートに賛同するコメントを残した。幾人かのフォロワーもそれとなくBが好きではない旨を書き残した。

 さて、これを見た私は時間を置くにつれどう心情が変化していくか。



 1. Aが嫌いになりBにのめり込む

 2. Bが嫌いになりAにのめり込む

 3. 特に何も変わらない

 4. AともBとも距離を置く




 正解は4である。現在私はA推し用のアカウントをほぼ放置し、かといってそれまでマメにチェックしていたBの情報をスルーしている。特段どちらを嫌いになったのではなく、100好きだったのがいずれも60程度に下がったくらいだ。


 これはたぶん私がAにもBにも「誰にでも人気であってほしい」と思っており、かつAのファンには「他アーティストの悪口を言わないで欲しい」「優しい人であってほしい」、A界隈のフォロワーには「私の好きなBをひどく言わないでほしい」と望みすぎていたのだろう。他者に多くを望みすぎてはいけないというのは数多の実用書に書かれていることなのだが、あまりにも深層で思っていて気づいていなかったようだ。他人はコントロールできないと頭では理解していたものの、自分が属するコミュニティでは大丈夫だろうと思いこんでいたのかもしれない。


 ではなぜAからもBからも距離を置いたのか。単に私の理想とするAあるいはBの姿とかけ離れていたからではない。厄介なことに、今はBの振る舞いを見ては「そんなことをしたらまたAのファンに何か言われてしまうのでは」と不満がもたげるようになってしまい安心してBを見ていられない。かといってAを見ていると、Bを批判したフォロワーのツイートが頭に浮かんで離れない。どちらを見ていても不安しかなく、結果として両者から距離を置いた。

 好きな相手には常に正しくあってほしいのだとしたら至極面倒くさいファンでしかないが、どうも私は「正しくないといけない病」に罹患しているようだ。好きなものが世間の正しさから少しでもズレたとしたら途端に目を背けてしまう。挙句には好きだった過去すら抹消したくなる。(それは果たして好きと言えるのかという問いはこの際置いておく)


 有名人が何かしでしたとき、「いつかこうなると思っていた」としたり顔のコメントをする人がいるが、彼らも同じ類だと思う。最初からこうなることを分かっていたと言い残すことで、自分が最初から「正しかった」と示す。その有名人が好きだった人でも、「いやいや、みんなが思うほど好きじゃなかったよ」と一気に距離を取ろうとする人もいるだろう。そうすることで世間的な「正しさ」に自分が近づくからだ。

 これは何も有名人に限らず、なんにでも言い換えられる。批判する側は権威ある人間の方が効果は高いが、仲間内でも影響力は大きそうだ。

 好きな芸術家が美術史の先生から酷評されたあと、好きなアイドルがテレビに映っているのを見た父親あるいは母親がその容姿をこき下ろしたあと、好きな芸人がダダ滑りしているのを見た友人が彼らを鼻で笑ったあと……彼らから「そういえば、あなたは好きって言ってたよね」と言われたとき、どう答えるだろうか。

 私は自信がない。こき下ろされたあとに胸を張って言える勇気がない。「好きだけど~、めちゃくちゃ好き!ってわけじゃないかな」などと適当に濁し、一人になってからなぜああ言ってしまったのかという自己嫌悪、そして「そこまで言うことないじゃん」という相手への苛立ちを募らせて、数日あるいは長期間にわたってモヤモヤし続けるだろう。


 しかしこれも、「正しくないといけない病」なのかなとも思う。迎合した返答をしてしまうのはそうするのが「正しい」だと思っているからだ。というより、相手が思う正しさを肯定するために発している気がする。

 なぜそこでおもねってしまうのか。相手との関係性によるだろうが、関係性を維持するために自分の中の正しさを曲げて答える必要はないよなあと感じる。会話の主導権、その話題における「正しさ」の基準を相手にゆだねてしまったことへの自己嫌悪も生じるし、何より口先だけでも好きなものへの好き度合いを軽くしてしまったことへの悔しさ、申し訳なさ。そういったものが絡み合っていくうち、好きなものを見ているとあれこれと嫌な場面を想起してしまい足が遠のく。


 好きなものは世間のあらゆる人から好意的な目で見られていてほしいという理想の高さが引き起こす、生きづらく面倒くさい世界。自分と他人の価値基準が大きく違うと分かっていながらも好きなものには期待をかけてしまう気持ち。

 批判されたら言い返すような強火の心を持ちたいなと思う。好きなものは私にとっては素晴らしいものだと自信を持ちたい。その自信も、下手をすれば世間的な人気の有無によって確立されることもあるから注意が必要だ。大人気作品だから素晴らしい、みんなが良いと思っているから私の好きという気持ちは「正しい」、と、自分以外の軸にゆだねることのないようにできればと思う。それにはまず、自分自身を信用し重宝し重用する自己肯定感が必要だ。逆を言えば、「正しくないといけない病」の特効薬は自己肯定感であるとも言える。結果的には自己肯定感かい、聞き飽きたわ、と我ながら思ったけれど、自分を肯定できなければ好きなものを肯定もできまい。


 自分の好きなものは好きだと胸を張って言えるようになりたい。2000字以上あれこれ書いたが結局言いたいのはそれだけだ。

 この「好きなもの」には自分が書いた作品も含まれる。これまでは、誰か1人にでも作品を酷評されたら私はもうその作品を書き続けられないと思っていた。だがここまで書いてきた考えにのっとれば、それはそのたった1人に作品の正しさをゆだねているに過ぎないとも思った。

 私の作品の優劣は私が決めるもので、私が時間を掛けて書いたものに劣は存在しない。もちろん、それは他の方の書いた作品においてもそうだ。駄作というレッテルを読者側が貼るのは簡単だが、それが正しいかどうかは貼った人間が決めることではない。

「正しくないといけない病」は面倒くさいが、自分の創作への価値観を考えさせてくれるきっかけにもなった。その点は感謝している。好きなもの、好きなこと、好きな人には正直でありたい。そんなことを思いながら、連休最終日を過ごしていた。

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それなりに退屈で愉快なお気に入り 須永 光 @sunasunaga

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