伊代さんは、俺の母親になってくれるかもしれない
秋乃晃
Redivider
第一に、喜びが剥がれた。
喜びは意志を持ち、自由を追い求めてどこかに消える。
第二に、怒りが剥がれた。
怒りは意志を持ち、当たり散らしながら彷徨う。
第三に、哀しみが剥がれた。
哀しみは意志を持ち、おいおいと泣きながら逃げ惑う。
第四に、――喜怒哀楽が剥がれ落ちて〝無〟と成り果てた本体の右手を握った。
楽しさは意志を持ち、本体を連れて脱走する。
その先で、彼女に出会った。
* * *
目を覚ましたら、手枷をつけられた状態で見知らぬ部屋に転がっていた。
「ェ?」
右を見ても左を見ても、同じような状態で転がされている女性が、……見たところ5人ぐらいいる。
人が詰め込まれているからか部屋の中は暑い。
窓は閉め切られていて、扉は一箇所。
……こんな場所にきた覚えはない。
覚えはないが、頑張って思い出そう。
昨日は確か、酒を飲んで、それで?
飲みすぎて終電を逃し、公園のベンチで寝てしまうことなんて大学時代からわりとよくあることだ。
ただ、見知らぬ部屋に転がっているのは初めてである。
ここはどこだろう。
しかも着ていたはずのお気に入りのワンピースがなくなっていて、ブラジャーとパンツの状態だ。
薄暗くてよくわからないが、時計のようなものは見当たらない。
財布やらスマホやらが入っているのに、バーキンのバックもない。
周りの女性も大なり小なり似たような格好で、みな俯いて押し黙っている。
「あ、あの」
わたしは一番近くにいた茶髪の女性に声をかけた。
どうしてこうなったのか、その手がかりだけでも知りたくて声をかけたのに、彼女は血相を変えて「黙れ!」と怒鳴ってくる。
怒鳴られて、改めて彼女を見た。
左目のあたりに大きな青あざがあり、身体もあちこちに殴られた痕もある。
「どうして、そんなケガを?」
「どうしぃてだろねぇ?」
左腕を力任せに掴まれて、ぐるりと後ろに反転させられた。
そこには、ついさっきまでいなかった、男性がその場に現れている。
扉が開いた様子はなかった。
床から生えてきたようなものだ。
隠れるような場所もない。
そんなマジシャンのようなことをしてみせた男性の見た目は、別にマジシャンの要素はひとつもなくて、喩えるなら、売れないホストのような。
部屋の中の誰かが「ヒッ」と怯える。
「だ」
誰、という質問を投げかけようとした矢先に腹部を蹴り飛ばされた。
ぐぇ、と口から音が漏れる。
「なぁんかぁ、お隣さんかぁら苦情が来ちゃったりしちゃったもんで、この家は引っ越ししちゃわないといけなくなっちゃった」
「きゃっ!」
「ひゃ!」
わたしの身体はぶん投げられて、ぶん投げられた先の他の女性を押しつぶす。
「だから、みぃんな殺したほうが運びやすくてよくなぁい?」
――へ?
わたしが頭で理解するよりも先に、答えは提示された。
背中から刃渡り20センチメートルほどのナイフを取り出したかと思えば、さっきわたしが話しかけた茶髪の女性の首に突き刺す。
「え、え?」
困惑するわたし、扉に向かって床を這い出す一人、それに続くもう一人、悲鳴を上げる人、吐き出す人。
「住むところはぶちょーが用意してくれちゃうし、お金はみぃんなからもらっちゃったからぜんぜぇん足りちゃうし。また吸音材とか遮音材とか買ったり貼ったりしなきゃ!」
ナイフを引き抜いて、腕やら足やらを解体しながら喋っている。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ……!
とんでもなくやばい状況だってことは他の女性を見て理解できた。
死にたくない。
死にたくない!
「その扉、外から鍵がかかっちゃったりしてるから開かなかったり開けられなかったりしちゃうんじゃなぁい?」
「壊す!」
一番扉の近くにいた黒髪の女性が、扉に体当たりする。
ミシッという音はした。
しかしこれを壊せなければどう見ても出られる場所はないから、次に近くにいた女性が順番に体当たりしていく。
「お前は、どっから入ってきたんだ」
わたしが目を覚ました時にはいなかった。
見間違いでもない。
話しかけたその直後に現れたんだ。
こいつの入ってきた場所があるはず!
「俺は【分裂】の能力者でぇ、仕組みぃは俺自身よくぅわぁかってなかったりしちゃうんだけどぉ、こんぐらいの壁ならすり抜けられちゃう。すんごくなぁい?」
「能力者……??????」
「そ。氷見野博士っていうとぉってもあったまいい人が、そーゆー“能力者”がいるって言い出しちゃって、そぉれなら『人工的に能力者を作っちゃお』ってなっちゃって、いろいろやった結果が俺たちってわけでぇ……俺はあんなとこに居ちゃうのは嫌だったから、本体を連れて大☆脱☆走しぃちゃった★」
「それと、うちらを監禁するのと何が関係あんのさ。こんなことしてタダで済」
ひとしきり吐き散らした女性が口を挟んだ。
言葉の途中で、開いていたその口に向かってナイフが投擲され、後頭部までを貫く。
「そぉれから、俺と本体とで追っ手を撃退しちゃったり返り討ちにしちゃったりしてたぁんだけどぉ。疲れちゃって倒れちゃったあのとき、伊代さんが俺の手を握ってくぅれたんだぁ♪」
死体には目もくれずに、話を続けていた。
その間、交互に体当たりをかましている女性二人。
「伊代さんは、俺の母親になってくれるかもしれない」
先ほどまでのふざけた口調ではなく。
やけにはっきりと語り始める。
「俺を救い、導き、育ててくれる。俺を助け、守り、庇ってくれる。たった一人の、この世界でたった一人、無条件に愛をくれる存在。そうなってくれる。絶対に、必ず、確実に。俺を見捨てたり裏切ったりなんてしない。俺は伊代さんの言葉を信じていればいい」
濁っていた瞳が、光を灯して爛々と輝いた。
「俺は本体から【分裂】しちゃった存在だぁから、人間でぇはないって言われちゃったぁりしちゃう。それぇならぁ、人間になるために人間を食べるしかなくなぁい?」
* * *
ああ、あの子ですか?
日比谷忠弘くん。
容姿に違わずとっても真面目でいい子ですけどねぇ?
何か問題でもありました?
伊代さんは、俺の母親になってくれるかもしれない 秋乃晃 @EM_Akino
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