第6話 『接触』

 ――逃げろ。


 朦朧とした意識の中、耳に入り込んできたその声が誰の物であったのか。僕には分からなかった。

 ただ薄暗い森の中を歩いて、歩いて、歩き続けて、いったい何処に向かっているのか? 目的地すら知らずに、僕は進む。

 この先に望む何かがあると、そう信じて。


 ――逃げろ。


 歩いた分だけ、警告の声は大きくなる。

 逃げろと言われても、いったい何から?

 付近に生き物の姿はない。あるのは青々と生い茂った、物言わぬ木々のみだ。

 疑問の答えが見つからないまま、暫くの間ぼんやりと歩いていると、僕は何かに躓き地面に手をついた。


「ッ!」


 ズキリと、左腕に痛みが走る。

 どうやら捻ってしまったらしい。

 立ち上がって振り返ると、そこには倒木があった。

 自らの不注意が招いた結果とはいえ、これに躓いて腕を痛めるとは、何とも付いていない。

 溜息を一つ零して、僕は再び歩き出した。


 ――逃げろ。


 幹に岩がめり込んだ大樹の横を通り抜けて、道なき道をさらに進んで行く。

 何かがおかしい。漠然とそう思った。

 しかし、その違和感が何処から来ている物なのかが分からない。けれど、このままでは拙いことが起きる。そんな予感があった。

 それなのに、足は止まってくれない。

 時間の経過と共に、腕の痛みは悪化していった。

 患部は腫れ上がり、少し動かすだけでも激痛が走る。

 軽く捻っただけの筈なのに、これではまるで――


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 湿り気のある不気味な音が響く。

 気付けば、いつの間にか木の生えていない開けた空間に出ていた。

 言うことを聞かなかった足が止まる。


 ぐちゃり、ばき、ばきり。


 曇り空の下、開けた空間の中央にそれはいた。

 全身が濃紺の毛に覆われた、犬によく似た頭を持つ怪物。

 幸い、怪物はこちらに背を向けて食事をしている。だから、気付かれる前にこの場所から離れよう。そう思って一歩後退した時、パキッと乾いた音が辺りに響いて、左足に激痛が走った。見れば、そこには獣に咬みつかれたかのような傷があり、赤い血が流れ出している。


 なんだ、これ。


 さっきまでは何の異常もなかった。

 なんなんだ、これは……

 いや、僕は知っている。この傷を負った理由を――

 怪物の方を見れば、禍々しい紫色の瞳が僕を捉えていた。


 今すぐに逃げ出さなければ死ぬ。


 そう分かっていても、僕は動くことができなかった。

 目の前に広がっている光景を、理解することができなかった。

 腹を喰い千切られ、露出した血と臓物。所々跳ねている焦茶色の髪に、生気のない琥珀色の瞳。怪物がこちらに振り返った際に見えてしまった、彼の獲物。



 それは、僕だった。



 言い知れない恐怖が押し寄せて来る。

 分からない、分からない。

 いったい、何が起こっている?


「……、………ぁ」


 感情のままに悲鳴を上げようと口を開けば、出てきたのは力のない掠れた声だった。


 ――逃げろ。


 地面に横たわる僕の目玉がギョロリと動き、こちらを見詰める。そして、血の伝う青白い唇が言葉を紡いだ。


 ――早く、逃げろ


「――っ!!」


 虚な瞳に呑み込まれそうになった直後。

 場面は切り替わり、僕は石造りの天井を見上げていた。

 此処は、いったい……


「目が覚めたか」


 近くから聞こえて来た声に驚き首を動かすと、そこには見覚えのある人物がいた。

 短く切られたブラウンの髪に、こちらを見下ろす灰色の瞳が一つ。右目にはナイフで切り裂かれたかのような痛々しい傷があり、今はもう機能していないことが分かった。屈強な体には鈍色の鎧が装備されており、窓から差し込む茜色の光りを受けて鈍く輝いている。


 僕の隣で椅子に座っているこの人は、仔犬鬼から僕を救ってくれた恩人の一人だった。

 たしか名前は……ギデオンと、そう呼ばれていた。

 助けてもらったお礼を言わなければ――そう思い姿勢を正そうすると、背中と右腕に激痛が走った。


「無理に動かなくていい。うちの魔術師メイジが治療したとはいえ、完全に治せた訳ではないからな」


 言われて、中途半端に浮かせた体を再びベッドに預ける。

 右腕は、やはり折れていたらしい。

 見れば、二本の木の枝と包帯を使いガッチリと固定されていた。しかし痛みはあれど、関節が一つ増えたかのような違和感はすっかり消えて無くなっている。


「あの……助けて頂き、ありがとうございます」


「気にするな」


 そう短く呟いたきり、ギデオンさんが口を開くことはなかった。

 居心地の悪い沈黙が場を支配する。

 けれど、僕にはもう一つ訊かなければならないことがあった。


「すみません、三葉は無事ですか?」


「あの子ならさっきまで此処にいたよ」


 出入り口である木製のドアに目をやって、ギデオンさんは続ける。


「君の有様を見てだいぶ疲弊しているようだったから、少し前に俺の仲間と一緒に食堂へ行かせた。君みたいに大怪我をしていたりはしないから、心配しなくていい」


「そうですか……」


 思わず、安堵の溜息が漏れる。


「君達が仔犬鬼に襲われるまでの経緯も聞いている。今回は災難だったな」


 経緯。

 その言葉を聞いて、思考が切り替わる。

 三葉はいったい、何処まで話したのだろうか。


 明らかに、此処は僕たちの住む世界ではない。文字、言葉、技能、魔法、生息する生物に至るまで、何もかもが違いすぎる。

 それなのに僕は文字と言葉、そして魔法に関する一部の知識を既に得ていた。その中でも言葉は、まるで息をするように自然に操ることができている。こうやって意識するまで、自分が別の言語を使っていることに気付きもしなかった。これも〈品物箱〉と同じ、技能の欄に書かれていた〈翻訳〉の影響なのだろうか。

 いや、そんなことを考察している場合じゃない。


 今最も重要なのは、この世界に於ける僕たちの扱いだ。


 歓迎される客人なのか、それとも招かれざる厄介者なのか。

 情報が無さ過ぎてまったく判断がつかない。


 そもそも、僕たちを呼び出したのはいったい誰なのか、そしてその目的は? いや、この前提が間違っている可能性もある。僕たちを呼び出した何者かなんて存在せず、ただ僕と三葉がこの世界に迷い込んだだけだとしたら? それは最悪の事態だ。

 こちら側から意図があって招かれたのならば、まだ希望が持てる。呼び出せたのだから、元の世界に帰すこともできる筈だという希望が。


 しかし、これが僕たちが認知しない所で、様々な要素が奇跡的に噛み合った結果生じた偶然の産物なのだとしたら、帰還の可能性は絶望的だ。

 もしこの世界で生きていくことになったら、いったいどうなるのだろう?

 現状、僕たちは無一文で、この世界の文化や一般常識さえも満足に知らない。分かっているのは剣や弓矢、魔法を用いて怪物を狩る人間がいるということぐらいだ。この状況はかなり拙い。


 そもそも、何故ギデオンさん達は仔犬鬼から僕を助けてくれたのだろう?


 僕はあの時、数十匹に及ぶの仔犬鬼群れに襲われていた。普通に考えて、その群れの中に飛び込み僕を助けるのは、ギデオンさん達にとってリスクでしかない。何一つメリットは無い筈なのである。まったく釣り合いが取れていない。


 ――何か裏があるのではないだろうか。


「大丈夫か?」


 向けられた眼差しには心配の色が見て取れたけれど、それ以上に僕はギデオンさん――異界の住人が何かとても恐ろしい存在に思えてならなかった。

 生まれた疑念を直ぐに払拭することはできない。それを足掛かりに、ネガティブな思考は増殖する。その不安の渦に完全に飲まれそうになった時、ガチャリと音を立てて扉が開いた。



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アンコネクテッド・ワールド ー異端児の楽園ー 奔剛郁瑠 @s474t747

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