第3話 『御伽噺の始まり』

 午後の部の授業がすべて終わると、三葉から放課後も引き続き美化委員の仕事をすることになったという旨のメールが届いた。僕にゴーグルとカセットを返す機会を与えないつもりらしい。


 仕方なく、僕は帰り支度を整えて下駄箱へ向かった。靴箱を開けて中を確認すると、高級感のあるダークグレーのボディが僕の安っぽい――実際に安い(定価千五百円)――スニーカーの上に鎮座していた。……もう少し、良い入れ方があったのではなかろうか。こう、袋に入れるとか、紙や布で包むとか。普通、直接靴の上に置こうとは思わない。僕のスニーカーが、三十万の重圧に負けてぺしゃんこになってしまうではないか。


 心なしか苦しそうに見えるスニーカーの上からゴーグルを退かし、誰にも見られていないことを確認してからスクールバックの中に仕舞った。


 そして、いつも通りの帰路に就く。


 校門を出て暫く道なりに進み、最初に見えて来た歩道橋を渡って、多くの人が行き交う商店街に入る。様々な店舗が建ち並ぶこの場所は、決まって何処か懐かしい匂いがしている。果物屋からは果実の甘い香りが、八百屋からは青々とした野菜の香りが、書店からは真新しいインクと紙の香りが、そして良く立ち寄る精肉店からは、芳ばしい揚げ物の香りがする。

 夕ご飯のおかずに牛肉コロッケを買おうか迷ったけれど、結局真っ直ぐ家に帰ることにした。


 商店街を出て、大小様々な家屋が密集している住宅地に入り、さらに少し歩く。すると、狭い敷地に立つ比較的綺麗な家が見えて来る。僕が生まれ育った、愛しの我が家だ。一応二階建てだけれど、庭は無い。そのかわり、車の駐車スペースが二台分ある。しかし、どちらにも車は止まっていない。僕の両親は共働きの上に、帰りがとても遅いのである。


 鍵を開けて扉をくぐり、二階にある自室に入る。


 僕はブレザーとネクタイをハンガーにかけてから、部屋の隅に設置されている勉強机にバックを置き、椅子に座った。バックを開くと、そこには授業で使うノートパソコンやタブレットに混じり、フルダイブゴーグルが確かに存在している。


 思わず、溜め息が漏れた。


「本当に、どうすればいいんだ? これ……」


 娯楽であるべき筈のゲームに、嘗てこんなに悩まされたことがあっただろうか? いや、無い。

 今やフルダイブゴーグルは、私的突然渡されたら困る物ランキング堂々の第一位に輝いている。


「取り敢えず、三葉の委員会活動が終わるのを待つか」


 うちの学校は基本的に十八時までに下校しなければならない。それは部活動や委員会活動があっても同じで、追加で活動する場合は事前に申請書を提出することになっている。けれど、委員会で活動を延長することはかなり稀だ。部活動でも、申請書を出すのは大会間近の運動部くらいである。


 だから、十八時を過ぎたら三葉に電話をかけよう。

 そう決めて、僕はその後いつも通りの生活を送った。


 まず、シャワーを浴びてから私服に着替える。夕ご飯は昨日余った白米で炒飯を作り済ませて、残った時間は自室で椅子に座り小説を読む。休日はリビングでバラエティ番組を見ることもあるけれど、大抵の場合はページを捲ることに時間を割いている。


 読んでいる本が中盤に差し掛かったところで、机の上に置いていた携帯がカタカタと音を立てて震えた。発信元を確認すれば、三葉からの着信だった。


 時計を見ると、既に十八時を二十分程過ぎている。どうやら、物語に集中しすぎてしまったらしい。

 しかし、まさか三葉から掛けてくるとは……少し意外に思いながら、僕は通話ボタンを押した。


『やあ、ボクからの贈り物は気に入ってくれたかな?』


 開口一番、芝居がかった口調で三葉は話し始めた。


「絶賛、扱いに困ってるよ。……というか、そっちから連絡がくるとは思わなかった」


『何も言わないままだと、休み明けに突き返されそうだから』


「……」


 何の音沙汰もなく、僕から電話を掛けても出ないようであれば、確かにそうしていたかもしれない。


『ごめんね。たぶん、ボクが急にこんなことをして驚いてると思う。だけど――』


 どこか思い詰めたような声で、三葉は言った。


『お願い、蓮。何も訊かないでボクと一緒にこのゲームの、DRAGONS FAIRY TALEの世界へ来てくれないかな? 今回限りでも、良いから……』


 その言葉を聞いた瞬間、狡いと思った。

 三葉は僕に質問の機会すら与えずに、ただ自分の願いを叶えてくれという。それは余りにも自分勝手で、我儘過ぎやしないか。


 けれど、同時に分かってしまう。

 相手を重んじる人間性と優しさを兼ね備えている三葉が道理に反する行動を執るということは、彼女にとってそれだけ重要な事情があるということなのだ。そのことを知っているが故に、僕は断ることができない。そして、恐らくそれ見越した上で三葉はこの状況を作り出している。


 思わず、溜め息が漏れた。


「理由は後で説明してもらえるのかな?」


『うん。それは仮想現実向こうで必ず』


 その声音からは、揺るがない誠実さを感じることができた。


『ごめん。そして、ありがとう』


「気にしなくて良いよ」


 一方的な交渉が成立すると、三葉は悪戯っぽい声で、


『明日からゴールデンウィークだし、ゲーム三昧ですねぇ?』


 そんな惚けたことを言い出した。


「さっき、今回限りでも良いって言ってなかった?」


 変わり身の速さを指摘すると、三葉はクスクスと笑う。それに釣られるように、僕も笑った。

 その後、僕らは途中で終わった昼休みの時間を取り戻すように、たわいのない話に花を咲かせた。


 そして最後に、


 ――十九時に仮想現実で会おう


 そう約束をして、電話を切る。

 正直、疑念や不安がすべて解消された訳ではない。

 それでも、いつも通りの明るい三葉の声が聞けて、僕は安心していた。


「さて」


 声を出して、意識を切り替える。

 そして、机の隅に置いていたゴーグルを手に取り、ボディに印刷されているQRコードを携帯のカメラで読み取った。すると、画面に取扱説明書が映し出される。とりあえず、使用上の注意事項の欄だけ読んで、僕はゴーグル本体の設定に取り掛かった。パスワードなどの情報入力、網膜認証の設定、そしてネットへの接続を済ませると、時刻は十八時五十分を過ぎていた。


 ……まだ、キャラクターメイクすら済ませていないのだけれど。


 慣れないことに、少し手間取ってしまったらしい。

 しかし、事前にゴーグルには携帯から僕の顔写真を転送しているから、ベースとなるアバターは既にできている。後は身バレ防止のために髪や目の色を変えたり、種族や職業ジョブを決めたりするだけだろうから、まだギリギリ間に合う筈だ。


 僕はゴーグルのカートリッジにカセットを差し込んで、それを装着した。注意事項曰く、ゴーグルを起動する際の身体の体制は、椅子に座った状態だと腰を痛める可能性があるということなので、僕は取扱説明書が推奨している通りに、仰向けの状態でベットに身体を預ける。


 これで、準備は整った。


「よしっ」


 一抹の不安と、未知への期待を抱いて、僕はゴーグルの電源ボタンを押した。



 ――Start the connection.



 そして、接続開始の文字が映し出された直後。

 眼前に火花が散って、世界は暗転した。




 ◇




「……ぇ」


 吹き荒ぶ風の音に混じり、人の声が聞こえる。

 とても美しい声だ。その響きだけが、僕の存在を確かな者に昇華させる。


「……おぇ……ぁい。だ、ぇぁ……」


 再び声が響いた。

 先程よりも幾分か鮮明に聞こえたその言葉を、しかし僕は理解することができない。けれど、声の主は必死に何かを訴えている。それだけは分かった。


 それに加えて、ぽたぽたと水が滴り落ちる音が響く。


 茫洋とした領域に波紋が生じて、僕は自分の形を知った。……いや、違う。思い出したのだ。

 徐々に意識は浮上し、それに合わせるように霧散していた形が回帰する。唸るような風はもう止んでいた。聞こえてくるのは涙が地を打つ音と、誰かの啜り泣く声。


 その誰かを、ずっと探していた。


「……助けてっ!」


 はっきりと聞こえた悲嘆の声に、僕は目覚めた。


 しかし、そこには誰もいない。

 目に入るのは、延々と続く罅割れた灰色の大地と、星一つ存在しない黒々とした空。

 そして、その地平線の遥か彼方に巨大な物体が一つ。


 それは、壺だった。


 大きさは、恐らく今まで僕が見てきたどの建物や山よりも高い。飾り気のない膨れた胴とは対照的に、狭まった口の部分には自身の尾を噛んだ蛇の装飾がされていて、中からは白く眩い光りが漏れ出している。

 それは余りにも異様な光景だった。その圧倒的な存在感に恐怖すら覚える。


「…………ァ」


 背後から呻き声が聞こえて、僕は振り返った。

 そこに立っているのは、鈍く輝く兜と鎧を身に着けた白銀の騎士。しかし、剣を持っていない。紅い宝玉が嵌め込まれた、煌びやかな鞘を腰に携えてはいるものの、肝心の剣がそこには収められていなかった。


「……どぉ……ァ」


 騎士はこちらに手を伸ばし、足を引き摺るようにして近づいて来る。けれど、僕は動かなかった。それが無害であると、知っていたからだ。――そう、知っている。それは何故だ?

 生じた疑問の答えを探している内に、騎士は僕の真横を通り過ぎる。

 遠のいて行くその背中を見詰めていると、


 ――あれは、輪廻から外れた魂の残滓。ルーソズレク最後の亡霊だ。


 いつからそこにいたのか。

 僕の隣りには、襤褸切れのような黒いローブを身に纏った骸骨が立っていた。


「貴方は?」


 ――私は帰還して来た旅人達の穢れを祓い、再びトスパーディへと送り出すことを任された、輪廻そのものだよ。


 骸骨は僕の方に顔を向ける。

 フードを目深に被っていたため気付かなかったが、その頭蓋骨は人間の物ではなかった。一見すると鹿に似ているけれど、頭から生えている二本の角は鹿の物よりも短く、そして捻れている。それは、壺の装飾である尾を噛む蛇と良く似ていた。


 ――君が此処に来るのは早すぎる。


 言って、骸骨は僕の額に手をかざす。

 すると、空虚な眼窩に青白い炎が灯った。


「いったい、何を……」


 ――心配することはない。君はただ、引き寄せられてこちら側に迷い込んだ。今ならまだ向こうに戻れる。


 眼窩に続き、掌にも炎が灯る。

 妖しく光る三つの揺らぎは、見えている物すべてを歪め、僕の世界を曖昧な物へと変えた。


「待ってください。僕は、まだ……」


 ――今は眠れ、世界に愛された異端児よ。


 その言葉と共に炎は消えて、僕の意識は闇に飲まれた。



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