第4話 『未知との遭遇』

 初めに瞳の中に入って来たのは、青々とした枝葉。そして、その隙間から覗く陽の光だった。眩しくて、思わず視界を手で遮る。そこで僕は、自分が仰向けに倒れていることに気づいた。朦朧とする頭を押さえて半身を起こすと、胸の上に乗っていた何かが地面の上に落ちる。


 見れば、それは一冊の本だった。

 かなり分厚く古い洋書で、サイズは敢えて言うならB5が一番近いだろう。手に取って開いてみると、そこには何も書かれていなかった。


 不思議に思って紙の表面に触れると、


「――っ」


 指先に、鋭い痛みが走った。

 どうやら、人差し指を切ってしまったらしい。


 まっさらな紙に赤い血が滴る。すると、それは紙上を這いずり回り、見たことのない記号のような物を描き出した。その記号は、強いて言えばアルファベットに形状が似ている。けれど、その意味を理解するには至らない。


 いや、待て。これは――



 佐柄 蓮 Lv.1

 種族:人間ヒューマン

 職業ジョブ剣士フェンサー 魔導師メイジ

 技能スキル:〈品物箱アイテムボックス〉Lv.1 〈剣術〉Lv.1 〈魔法〉Lv.1 〈能力看破アビリティディテクト〉Lv.1 〈翻訳〉

 称号:【異端児】【 ? 】

 スロット:1/3



 まるで最初から知っていたかのように、乾いて紙に定着したそれを読むことができた。それに伴って、ぼんやりとしていた意識が完全に回帰する。

 そうだ。僕は三葉に誘われてDRAGONS FAIRY TALEをプレイすることになり、この仮想現実にやって来た。つまり、ゲームはもう始まっているのか?


 しかし、だとしたらおかしい。


 僕はキャラクターメイクを済ませた覚えがない。それなのに、名前や職業ジョブが既に決まっている。それに加えて引っかかるのが、場所だ。

 辺りを見渡せば、背の高い木が群生している。人の気配は一切ない。その代わりに聞こえてくるのは鳥の羽音や、種類の判別すらできない不気味な生き物の声。


 此処は森だ。それも、かなり深い。


 三葉は、このゲームの開始地点はそこそこ大きな街だと言っていた。発売前から情報をリサーチしていた彼女が言うのだから、間違いはないだろう。


 けれど、僕は今森の中にいる。それは何故だ?


 考えられる理由は主に二つ。


 一つ目は、ゲームのプログラムそのものに何らかの不具合がある場合。所謂、バグの所為でこの状況に陥った、という説だ。


 しかし、この可能性は限りなく低い。


 キャラクターメイクができない上に、開始地点が見知らぬ森。これは、余りにも致命的過ぎる。こんな大規模なバグを、制作会社が見落とすとは思えない。

 それに、DRAGONS FAIRY TALEが世に出て既に数日が経過している。本当にこんなバグが存在しているなら、サービス開始直後から大問題になっている筈だ。


 二つ目は、ゲームのプログラム自体に不具合はなく、ゴーグル本体に問題がある場合。


 フルダイブゴーグルを使った時、稀に起こる現象として記憶の喪失がある。これはフルダイブゴーグル第一世代の初期ロットで実際に発生した初期不良だ。


 その確率はおよそ一万分の一。


 当時、世界初の完全フルダイブ型ゴーグルとして大々的に宣伝され注目を集めていたため、この不祥事が発覚した際はニュースなどにも取り上げられて大問題になった。


 しかし、この可能性にも穴がある。


 そもそも、どの事例も記憶の喪失が確認されたのは現実世界に戻って来た後のこと。つまり、仮想現実での記憶が脳に定着しない、という現象なのである。

 僕はまだゲームの中にいるのだから、これは当てはまらない。


「……拙いな」


 心を落ち着かせるために、思いついた可能性をすべて上げてみたけれど、それで浮き彫りになったのは原因不明という事実のみ。逆に不安の種が大きくなってしまった。

 ふと、自分の服装に視線を向けると、かなり滑稽な装いをしていた。

 ファンタジー世界にありがちな、胸元に紐が通してある灰色の襟無しシャツに、生地の厚いベージュのズボン。そして、その上から革鎧レザーアーマーを身に付けている。

 同じく革製のベルトには、一振りの剣がぶら下がっていた。抜いてみると、赤褐色のブレイドが顔を出す。


「銅の剣か……」


 鋼なんて贅沢は言わないから、せめて鉄であってほしかった。まあ、無いよりは遥かにましなのだけれど。

 剣を鞘に収めて、再び森へと目を向ける。

 考えても分からないのなら、とりあえず移動して情報を探るしかない。

 思い立ったが吉日。さっそく、僕は道無き道への第一歩を踏み出そとうとした。


 けれど、


「これ、邪魔だな」


 手の中にある洋書の扱いに困り、立ち止まった。

 この洋書は案外重く、持ち歩くには不便すぎる。

 その上、此処は森だ。ゲームなのだから、いつモンスターが出てきてもおかしくない。万が一戦闘になった時、片手が塞がっているのはかなり危険だ。


 しかし、目に見えない自分の情報を可視化できるということから、重要なアイテムであることは間違いないため、捨てて行くこともできない。


 剣の鞘と同じように、ベルトにこの本を入れておくホルダーが付いていれば良かったのに。



 そう思った瞬間――空気に溶け込むように、洋書が消えた。



「……は?」


 思わず、間抜けな声が漏れた。

 突飛な展開に理解が追いつかない。

 洋書が消えた手を開閉しても、やはりそこには何もなかった。ただ、空を切る虚しさが指先に残るだけである。


 いったい、何なんだ? これは。


 冷静に、洋書の見てくれを思い出す。

 赤茶色の革表紙に、しっかりとした固い紙――恐らく、羊皮紙だろう。厚さは広辞苑並みで、重さもたぶん同じぐらい。全体的にかなり年季が入っていて、表紙は所々傷が付いていた。


 そこまで想起したところで、変化が訪れる。


 気づけば、眼前に砂金のような幾つもの光の粒子が発生していた。それらはやがて一つに纏まると、一冊の本の形を成して弾ける。光が散ったその後に残されたのは、先程まで僕が握っていた洋書だった。


 重力に従って落下するそれを、両手で掴み取る。

 この時、僕は洋書に記されていた〈品物箱アイテムボックス〉という技能スキルが、この現象を引き起こしているであろうことを理解した。ゲーム用語でい言う、インベントリという物の類だろう。


 試しに消えろと心の中で念じてみれば、洋書は再び空気に溶け込むように消えて無くなる。反対に、手元に戻って来るように望めば、再び光が弾けて目の前に顕現した。


「これは、凄いな」


 感極まって、何度か洋書の出し入れを繰り返す。

 現実ではあり得ない魔法のような力に、僕は柄にもなくはしゃいでいた。


 魔法のような、力。


 そう、これは厳密には魔法ではない。

 それは、技能スキルの欄に〈品物箱アイテムボックス〉とは別に〈魔法〉という表記があることから明らかだ。


 記されているということは、つまり。


「使えるのか?」


 期待に胸が高鳴る。

 僕はアニメや漫画を好む三葉ほど、魔法が登場する作品に触れている訳ではない。それでも、僕が今まで読んできた小説にもファンタジー要素を含む物語はいくつもあった。それらに登場する特別な現象や力に、憧れを抱かなかったといえば、嘘になる。

 けれど、肝心の使い方が分からない。

 〈品物箱アイテムボックス〉のように、ただ望むだけで良いのだろうか?

 試しに、掌に炎が灯るイメージをしてみる。ゆらゆらと、妖しく踊る炎を――しかし、何も起こらなかった。


 海外の映画や小説に於いて、杖や箒、指輪などの道具を用いて魔法を行使する設定は、テンプレートとして今も色濃く残っている。もしかすると、このゲームでも魔法を使用する際に、そういった特殊な道具が必要なのかもしれない。


 歯痒くはあるけれど、今は諦めよう。


 現状、優先すべきは情報の収集だ。此処から移動して、誰でもいいから他のプレイヤーにコンタクトを取ることができれば、この状況を打開できるだろう。


 一度大きく伸びをして、僕は今度こそ歩き出した。


 木と木の間を縫うように進む。

 どの方角へ歩けば人に会えるのかなんて分からない。けれど、闇雲に進むのも躊躇われる。ならばせめて、と。僕は歩き出した方角へ、できる限り真っ直ぐ進むように努めた。

 その途中で見つけた木の実や花などは、〈品物箱アイテムボックス〉の中に保管した。ゲームに於いて、アイテムの収集は戦闘に匹敵するくらいに楽しいと三葉が言っていた理由が、少し分かった気がする。これは、地味に楽しい。


 この時、僕は浮かれていた。初めての仮想現実で、擬似的な物とはいえ現実ではあり得ないような力を使い、気分が高揚していた。

 だから、気付くのが遅れた。


 ぐちゃり、ぐちゃり。


 耳障りな音が聞こえ始めたのは、一際大きな木を横切ろうとした時だった。

 その音は水気を含んでおり、泥濘ぬかるみの上を歩く時のような不快さと危うさを僕に与えた。けれど、それだけではなくて。もっと悍ましい何かが、奥深くに根付いていて。その何かに、僕は怯えていた。


 しかし、踏み出した足は止まってくれない。

 地面に靴底が触れて、完全に木の横を通り抜けた直後――視界の端に、動く物が映った。


 息が乱れて、鼓動が速くなる。シャツの下は汗でぐっしょりと濡れているのに、口の中は砂が吐けそうなくらいに渇ききっていた。


 ぐちゃり、ばき、ばきり。


 先程よりもはっきりと聞こえる耳障りな音に、固い何かが砕ける鈍い音が混じる。

 音の元凶である、未だ視界の端で動き続ける何か。それを確かな物とするために、僕はゆっくりと首を動かす。そして、その姿を捉えた瞬間――呼吸が止まった。


 そこにいたのは、犬によく似た頭を持つ怪物。

 犬種で言うなら、シベリアンハスキーが一番近いだろうか。しかし、その顔に愛らしさは一切ない。大きな体は全身が濃紺の毛に覆われていて、腰には長い尻尾が生えている。

 その怪物は猪のような生き物を両手で掴み、その肉を貪っていた。鋭い牙で喰い千切られた腹部から臓物が溢れ出し、足元に赤い血溜まりができる。猪はまだ薄っすらと意識があるのか、足がビクビクと痙攣していた。


 弱肉強食。

 それは、何処までも残酷な自然の摂理そのものだった。


 頭の中で警鐘が鳴り響く。

 逃げろ、逃げろと、本能が叫ぶ。

 僕が怪物の咀嚼音に感じていた、悍ましい何か。

 その正体は、昂っていた気持ちを一瞬で押し殺すほどに圧倒的で濃密な、死の予感。


 怪物はまだ、僕の存在に気付いていない。


 だから、怪物に悟られぬよう慎重に、僕は踏み出した足を元の位置に戻そうと動かした。その直後、パキッと乾いた音が辺りに響く。靴底の感触から、枝を踏んでしまったのだと理解した。

 そして、訪れる静寂。

 顔を上げると、そこには食事の手を止めた怪物がいる。そいつは何度か鼻をひくつかせると、素早くこちらに振り返った。

 紫色の双眸が、僕を捉える。


 瞬間――



 ――[ 仔犬鬼コボルト Lv.43 ]



 脳裏に情報が走った。


 しかし、それに驚いている暇はない。

 木陰にしゃがんでいた怪物――仔犬鬼コボルトは、今や無残な肉塊へと成り果てた獲物を投げ捨てる。そして、唸り声を上げながら立ち上がった。

 レベルの差がありすぎる。

 全くもって、冗談じゃない。

 何が仔犬こいぬだよ。どう見ても、僕よりも大きいじゃないか。

 牙を剥き出しにしてこちらを威嚇する仔犬鬼コボルトは、姿勢を低くして臨戦態勢に入る。血走ったその眼が言っていた。――次の獲物はお前だと。

 考えがまとまらない。いったい、どうすればいい。

 そんな思考はとうになかった。


 僕にできることは、ただ一つ。


 ――走れっ!


 防衛本能の叫びに従い、僕は脱兎の如くその場からの逃亡を謀った。



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