第5話 『初陣』

 暫く走っていると、すぐに呼吸が乱れ始めた。

 木や岩を避けたり飛び越えたりしながら走っているのだから、あたりまえだ。森は障害物が多い。それに加えて、僕はあまり運動が得意ではない。中学の頃から現在に至るまで、体育の評定は五段階中の三。とても平凡な成績を残してきている。

 それでも、持久力には多少の自信があったのだ。瞬発力が必要な短距離走や、正確なコントロールが必要になる球技などは苦手だけれど、シャトルランやマラソン大会ではそこそこの結果を出していた。だから、僕は逃げることを選んだのだ――戦うという選択肢を捨てて。


 洋書に記されていた僕の情報と、仔犬鬼コボルトと向かい合った時に流れ込んできた情報。その両方に共通しているレベルという概念。これが一般的に知られている、キャラクターの強さを表す数値のことだとすれば、僕に勝ち目は無い。

 しかし、それは現状も同じことだ。

 背後から聞こえて来る仔犬鬼コボルトの荒々しい息遣いと足音は、時間が経つに連れて大きくなっている。

 このまま距離を縮められれば、捕まるのも時間の問題だろう。そうなる前に、何か策を講じなければならない。


 息切れの原因は分かりきっていた。


 腰にぶら下がっている剣に目を向ける。素材が銅で出来ているだけあって、当然重い。その上、地面を踏みしめる度にこれが揺れると、フォームや体重移動のバランスが崩れて思うように走ることができないのである。


 幸いなことに、これを解決する力を僕は持っていた。

 〈品物箱アイテムボックス〉。触れた物体を目に見えない空間に仕舞うことができるこの異能を使えば、一瞬で片が付く。それをしなかった理由は、ひとえに反撃の術を失うことが怖かったからだ。

 望めばいつでも取り出すことができるのだから、本来なら失うという表現は正しくない。しかし、いざという時に武器が手元にないという不安は、そう表現しても差し支えないぐらいに、僕の精神に影響を及ぼすだろう。


 こうして思考を巡らせている間にも、仔犬鬼コボルトの気配は迫って来る。


 もう迷っている暇はない。


 銅剣の柄を掴み、僕はそれを〈品物箱〉に仕舞った。

 さっきよりも断然体が軽い。これでもう暫くは走っていられる。

 けれど、それもそう長くは続かないだろう。

 完全にスタミナ切れになる前に、仔犬鬼コボルトから逃げ切る方法を探さなければならない。

 そんなふうに次なる一手を模索している中、異変は起きた。


 仔犬鬼の足音が途絶えたのである。


 疑問に思って足を止めることなく振り返ると、視界が灰に染まった。それと同時に、何かに足を取られて体が宙に投げ出される。一瞬頬に鋭い痛みが走った後、僕は柔らかい腐葉土の上を数回転がった。


 いったい、何が起こったんだ?

 地面から起き上がり顔を上げると、そこには倒木があった。どうやら、これに躓いて転んでしまったらしい。

 そこからさらに十メートルほど先にいる仔犬鬼は、やはり動きを止めていた。


 しかし……なんだ、この違和感は。


 ただその場に立っているだけではない。

 前傾姿勢なのは初めからだけれど、仔犬鬼の右腕はぶらりと垂れ下がり、右脚が少し地面から浮いている。

 それはまるで、何かを投擲する人間の姿とよく似ていて――さっき一瞬見えた灰色が、僕の頭を支配した。


 まさかと思って振り返ると、そこには一本の木が生えていた。その幹には、バスケットボールほどのサイズの岩がめり込んでいる。


 僅かに漂う鉄の匂い。


 頬を伝う雫を掌で拭えば、それは赤かった。

 思い起こすのは、羊皮紙で指を切った時の事。次いで、腹を喰い千切られた獲物の姿と、手と口元を血で汚した狩人の姿。

 何故あの時、気づかなかった。

 いや、違う。気づいてはいたのだ。――無意識下で、否定していただけで。


 仮想現実を用いたゲームの開発には、幾つかの制約がある。その中でも有名なのが、流血描写についてだった。


 完全フルダイブ型ゲームと普通のテレビゲームの決定的な違いは、やはりそのリアルさにある。完全フルダイブ型ゲームは現実に近い世界を体感できることを売りにしているのだから、当たり前のことではあるのだけれど、そこには一つ大きな問題があった。――どこまで現実に近づけるか、という問題が。


 世界初のフルダイブゴーグルが世に出回った時に売り出されていたゲームソフトは、たったの三作品。その中でも戦闘をテーマに作られたのは『Overkill』というFPSゲームだけだったらしい。

 事件はその『Overkill』というゲーム内で起こった。

 実際にゲームをプレイした人間が相次いで体調を崩したため、苦情が殺到したのである。幸いな事に、原因はすぐに分かった。というのも、運営に苦情を入れたプレイヤーの殆どが、皆一様に同じことを口にしていたからだ。それが、「血の表現があまりにもリアル過ぎる」だった。


 それ以降、ゲーム内での血の色をショッキングピンクに変えるなどの対策が行われたものの、それでも苦情の電話が鳴り止まなかったため、最終的には仮想現実内での流血描写は一切禁止とするという取り決めができた。


 今では大抵の場合、ダメージを受けた箇所がリラックス効果のある青色、もしくは赤色の反対色である緑色に淡く光るように設定されるのが通例となっている。それはプレイヤーだけでなく、ゲームに登場するすべてのキャラクターにも適応されている事だ。


 だから、絶対に有り得ないのである。


 羊皮紙で指を切った時に血が流れる事も、

 喰い千切られた腹部から臓物が溢れ出る事も、

 仔犬鬼コボルトが投げた岩が僕の頬を掠めた結果出血する事も、

 ましてや、痛覚を遮断されている筈の仮想現実内で痛みを感じるなんて事が、有り得ていい筈がない。


 だって、これらの事象が示す答えは――



 ドンッ!!



 大地を強く踏み締める音が聞こえて振り返ると、目と鼻の先に仔犬鬼がいた。


「――っ!」


 馬鹿か、僕は。追われている身で、何を悠長に足を止めて考え込んでいるんだ。

 首元を目掛けてやって来る仔犬鬼の鋭い爪を、間一髪頭を下げる事で回避する。しかし、それを確認した仔犬鬼は、立て続けに僕の頭へ蹴りを放ってきた。これは避けられない。けれど、かろうじて左腕で頭を庇うことができた。


 風を切る音が耳に届く。


 仔犬鬼の毛に覆われた足と僕の左腕がぶつかった瞬間――グキリッと鈍い音がして、視界が白く染まった。


 浮遊感が体を支配する。

 何も見えない。聞こえない。感じない。

 まるで、すべての感覚を奪われてから時間を止められてしまったかのような、空白。

 しかし、それは長く続かなかった。

 背中に強い衝撃が走って、失われていた五感が回帰する。


「――ァッ!」


 肺の空気が外に漏れ出す。

 僕は今まで、どうやって息を吸っていたっけ。


 意識がはっきりとしない。


 霧が掛かったように視界がぼやける。

 金属を打ち合わせたような耳鳴りが気持ち悪い。

 背中に感じた焼け付くような痛みは、次第にまた鈍っていった。しかし、左腕の引き裂かれるような痛みと違和感は消えてくれない。

 そんな状態でも、とるべき行動だけはしっかりと分かっていた。――とにかく、走らなければ。


 足を止めてはいけない。

 止めて仕舞えば最後、辿る運命は悲惨な末路。

 だから、僕はすぐに起き上がって足を動かし続けた。濁りきった意識の中。抗うように前へ、前へと。

 その度に痛む左腕が、無意識に否定していた答えを突きつけてくる。


 これは仮想などではない――紛れもない、現実なのだと。


「――――――――――ォンッ!!」


 背後から仔犬鬼の咆哮が響いた。

 それから少しして、仔犬鬼の咆哮に呼応するように四方八方から犬の遠吠えが響き始める。

 一匹や二匹じゃない。正確な数は分からないけれど、恐らく十匹以上はいるだろう。

 血の混じった嫌な汗が頬を伝った。

 ドタドタと、幾つもの足音がこちらに近づいて来る。

 その一端が、僕の前に姿を現した。


 ――[ 仔犬鬼 Lv.13 ][ 仔犬鬼 Lv.5 ][ 仔犬鬼 Lv.8 ]


 進行方向にある木の陰から、三匹の仔犬鬼が飛び出して来た。いずれもレベルは低く、外見的特徴は最初に会った仔犬鬼とそんなに変わらない。一つ大きく違うのは、仔犬鬼という名前の通り、その体が小さかったことだ。

 最初に会った仔犬鬼が僕よりも大きかったのに対して、今目の前にいる仔犬鬼達はその半分もない。


 それでも、僕にとっては充分脅威だ。


 前方から迫る仔犬鬼を避けるため、僕は進路を変える。

 それから暫く走ると、再び仔犬鬼が現れた。

 僕はさっきと同じように、進路を変える事でそれを回避する。

 そんなやりとりを四度繰り返すと、急に視界が開けた。

 木々のない空間。広大な森にぽっかりと空いた陽だまり。

 その中心に辿り着いた時、僕は足を止めた。


 もう、逃げ場が無くなったからだ。


「……勘弁してくれよ」


 意図せず渇いた笑いが零れる。

 見渡せば、大勢の仔犬鬼がこの陽だまりを取り囲んでいた。レベルは平均して恐らく十前半、数は凡そ五十匹といったところだろうか。そして、こいつらをまとめているのは――やはり、こいつだ。


 ――[ 仔犬鬼 Lv.43 ]


 仔犬鬼が僕を見て口角を吊り上げる。

 足元にいる蟻を踏み潰して遊ぶ子供のような、無邪気な害意がそこにはあった。


「―――――ァンッ!!」


 仔犬鬼が何か指示を出すように一声鳴くと、三匹の小さな手下が僕へと飛び掛かって来た。

 一匹目は体を捻り何とか避けて、二匹目は鼻っ柱を蹴り飛ばす事ができた。けれど、三匹目の攻撃は避ける事も反撃する事もできず、咬みつかれる。


「――っ!」


 左足の足首に鋭い痛みが走り、バランスを崩す。

 それを待ち構えていたように、この群れのリーダーである仔犬鬼がこちらに向かって来た。

 咄嗟に〈品物箱〉から銅の剣を取り出そうとしたけれど、間に合わない。〈品物箱〉から物を出す時、顕現するまでに二、三秒のタイムラグが発生する。僕が剣を握るよりも、仔犬鬼が僕を仕留める方が早い。


 もう、打つ手がない。


 ――死ぬ。


 そう自覚した時、僕には世界がゆっくり動いているように見えた。

 地へと倒れ行く体、剣を取り出そうと中途半端に空に投げ出された右手、僕の喉元に正確に迫る仔犬鬼の爪。

 ああ、これが走馬灯というものか。映画やドラマで散々見て来たけれど、まさか自分が体験する事になるとは夢にも思わなかった。


 刻一刻と近づく終わり。


 それを前にして脳裏に過ぎるのは、ダイジェスト化された過去の記憶――などではなくて。この状況を打開することができるかもしれない可能性。その最後のピースだった。

 行き場を無くした右手を、仔犬鬼へと向ける。

 あとは、自然と口が動いていた。


「――魔法陣サークル配置コンフィグレーション


 紡いだ言葉に反応して、僕の掌を中心に直径約一メートルほどの光輪が顕現した。

 淡い緑色に輝くその輪を見て、仔犬鬼の瞳に驚愕の色が宿る。


 さあ、吹き飛べ。


 光輪から発生した強烈な風が仔犬鬼を襲い、巨大な体が宙を舞う。それが地面に激突するのと同時に、僕も地面に倒れ込んだ。

 光輪が消えて、ゆっくりだった世界に正常な時間の流れが回帰する。

 僕はすぐさま足に喰らい付いている小さな仔犬鬼を引き剥がし、投げ飛ばした。

 土の上に落ちた小さな仔犬鬼は、キャンッ! と情けない鳴き声を上げて仲間の元へと戻って行く。


 とりあえず延命はできた。

 けれど、未だピンチだという事に変わりはない。

 悲鳴を上げる足に鞭を打って立ち上がり、〈品物箱〉から銅の剣を取り出して構える。


 剣を向ける先にいるそいつは、むくりと起き上がりこちらに振り返った。

 全身の毛を逆立て唸り声を上げながら、血走った目で僕を睨みつける仔犬鬼。完全に戦闘モードのスイッチが入ってしまっている。渾身の一撃を放ったつもりだったけれど、ダメージは殆ど無い様子だ。蓄積されたのは、怒りのゲージだけらしい。


 本当に勘弁してほしい。

 こっちは満身創痍だというのに。

 一人でそんなに盛り上がらないでくれよ。

 頼みの魔法はもう使えない。使うためのエネルギーが足りないと、何故か感覚的に僕は理解していた。


 剣のグリップを握る右手が震える。


 いったいどうすればいい。どうすれば、生き延びることができる? 何処かにある筈なんだ。どう考えても絶望的なこの状況を覆すことができる何かが、きっと……


「――――――――――ォンッ!!」


 仔犬鬼の雄叫びが脳を揺らす。


 この時、僕は悟った。

 こいつをどうにかする術は何処にも無いと。

 だからこそ、僕は祈った。――奇跡よ、起きろと。

 そしてその願いは叶えられた。仔犬鬼が僕に向かって走り出そうとした、その直後に。


魔法陣配置サークルコンフィグレーション


 聞き覚えのない高い声が響く。

 すると、物凄いスピードで何かが僕の真横を通り抜けて、仔犬鬼の脇腹に突き刺さった。


「―――――ャンッ!?」


 仔犬鬼が悲鳴を上げて、数歩後退する。

 あれはなんだ? 仔犬鬼の脇腹に刺さっている物体に視線を向けると、それが氷塊であることが分かった。

 体内に侵入した異物を取り出そうと、仔犬鬼は氷塊を引き抜こうとする。けれど、血や肉が温度差で氷塊にくっついてしまったのか、手こずっているようだ。


 その隙を逃すまいと、仔犬鬼へと迫る足音が一つ。

 氷塊と同じ方向からやってきたその人物は、仔犬鬼との間合いを一気に詰めると、握りしめていた大剣を思い切り振り下した。

 赤い鮮血が宙を舞う。放たれた重い一撃は、見事に仔犬鬼の右腕を切断した。


 仔犬鬼を斬りつけたのは、鈍色の鎧を身に纏った隻眼の大男だった。

 腕を斬り飛ばされて怯む仔犬鬼に、大男は二撃目を叩き込む。横薙ぎの刃は仔犬鬼の胸部を深く抉り、再び鮮血が地面を赤く汚した。さらに続く三撃目。しかし、これは刃の当たるぎりぎりの所で仔犬鬼が飛び退いたため、空を斬る。


 攻撃を避けた仔犬鬼は、森の中へと逃げ込んだ。


 脇目も振らず走り続ける仔犬鬼の肩に、一本の矢が突き刺さる。けれど、それに反応することすらせずに、仔犬鬼は森の奥深くへと消えていった。


「どうする? ギデオン」


 木の影から、弓を持った男が現れる。


「深追いする必要はないだろう。あの傷じゃどうせ助かりはしない。今はそれよりも……」


 隻眼の大男――ギデオンと呼ばれたその人物と、目が合う。


 ――[ 人間ヒューマン Lv.68 ]


 その時、


「蓮っ!!」


 背後から、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 強く握り締めて固まっていた拳が解けて、銅の剣が地面に落ちる。

 ほんの少し前にも聞いていた筈なのに、今はその声がとても懐かしい。こちらに駆け寄る足音に振り返れば、そこには目元に涙を湛えた少女の姿があった。


「みつ、ば……」


 その記憶を最後に、僕の意識は微睡へと沈んだ。



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