最終章 神のまにまに

 暦は九月。夏休みも終わり麗明学園は二学期となった。



 異変が収束して以来、天候は安定し、失われた夏の遅れを取り戻すかのように澄んだ高く青い空の下を、蒸した熱気が旧都を包みこむ。

 校舎の前にある噴水も生徒達の登校を待ちわびていたように、きらきらと太陽の光を受けて輝いている。

 教室では久しぶりのクラスメイトとの再会であった。



 やがて授業も始まったが、麻仁にはどうしても腑に落ちないことがあった。

 F組の英会話を担当する、産休に入ったマリアの後任は、見覚えのない背が小さく冴えない冗談ばかり言う英国人男性のブライアンになっていた。

 級友たちに聞いても、春から赴任してきたステーシーを誰も憶えておらず、そんな先生は居なかったと一様に返される始末であった。

 また、ブライアンがオカ研の顧問も担当しており、斉藤と小池の記憶も改竄されたようだった。だが、折に触れてはメモ書きや音声データに残る、謎のステーシーという人物の記録があり、斉藤たちも首を傾げていた。

 これも日本の神々が示した御心のひとつなのだろうか。

 ステーシーの一族が残した異教の呪術のひとつだったのだろうか。

 ブライアンもステーシーと同じ異教の者なのかどうかは、未だ知れない。


 だが、麻仁のおかげで都市伝説に傾倒し過ぎていたオカ研レポートは、神仏に祈り感謝をしながら、日本人らしい美徳や価値観を訴える立派なものとなり、『文化祭の展示賞はあたしたちがいただいた』と息巻いていた。

 ステーシーといえば、もうひとつ不思議なのは船形石が光り輝き、天空の祭壇へといざなわれた後のことだ。

 奥宮の本殿や境内から彼女の存在を示すものは何も見つからなかった。

 忽然と姿を消してしまい、その行方の痕跡を追うことは出来なかった。麻仁や右源太の証言で土石流に飲まれたであろう彼女を、消防団や警察によって捜索も行われたが、やがてそれも打ち切られた。




 日を戻して始業式の放課後。

 麻仁は生徒会室へと向かう。


 間もなくに迫る文化祭の準備で、生徒会は定例会議を控えていた。

 夏休みの後半も文化祭に向けての作業に追われていた同級生や後輩たちとも、久しぶりの再開だ。

「マニさぁ、もう平気なのか? 神社のほう大変だったんだろ?」

「お手伝いできることがあればと思ってたんだけど、あたしたちがマニんちに行っても邪魔になるだけかなと思って……」

 三年間の苦楽を共にした、畑中と京極が心配そうに尋ねる。

 そして二人の手には、小さな貯金箱があった。

「これね、マニと会長のおうちのために生徒会のみんなで集めた募金だから。ちょっとしかないけど、復旧工事で役立ててよ」

 麻仁の神社は長雨のせいであちこちで山肌の崩落や倒木があり、土砂を除けたり傾いた木を伐り出したりといった作業が絶えず行われていた。

 さらに奥宮の拝殿や本殿だけでなく山道、飲食店の川座敷が広がっていた河川にも大量の土砂が流入してしまい、門前町全体で復旧に取り掛かっている。

 そのため麻仁は、残りの夏休みのほとんどを神社での時間に費やしてしまい、生徒会の業務にも出席できずにいた。

「ごめんね……みんなに迷惑かけたのに、逆に気を遣わせちゃったね」

 麻仁は仲間のやさしさに触れ、わずかに瞳を潤ませる。やはり、この人たちと共に在り、皆のために祈り続けると決断したのは間違いではなかったと確信した。


 その時、生徒会室の扉が開く。

 そこにやって来たのは、生徒会長の沙羅だった。

 会議の前に無言で自席にカバンを置くと、麻仁の元に歩み寄ってくる。

 すると沙羅は突如、麻仁に向かって深々と頭を下げた。

「きっ、貴船さんっ……そ、その節はご迷惑をお掛けしましたわっ!」

 神社の格の優劣や上下、参拝客の多寡とも取れる、普段の二人の微妙な関係を見ていた生徒会メンバーにとって沙羅の態度は意外に映り、唖然と見ていた。

 麻仁は無事を祈っていた人物の帰還は何よりも嬉しく、やがてにっこりと微笑んで穏やかに語り掛けた。それは二人だけが知る夏休みの秘密だから――。


「こちらこそ」

 他の生徒達の刺さるような視線に顔を紅潮させながら、沙羅はゆっくりと右手を差し出した。それは無言の握手の仕草であった。

 それを受けて麻仁もまた、静かに右手を伸ばす。

 手を握り合いながら妙に可笑しくなってしまい、互いに笑みを並べた。




 定例会議も平穏に終わり、皆が帰宅の途につく。


 沙羅は教員室に鍵を返却しにいったが、麻仁のほか畑中と京極の三年生全員が、彼女と共に下校するために待っていた。

 学校を出て程なく、公園の茂みから現れた黒猫が横切り、四人の前でにゃおと鳴き声を上げた。


 光沢のある黒い被毛に金色の瞳。

 以前出会った沙羅の神社まではまだ多少の距離があるが、すぐにそれがあの黒猫のマニだと気づいた。

「あなた、こんな所までうろうろしてるのね」

 麻仁はしゃがみ込んで胸元に抱き上げると、黒猫は慣れたように眼を細めて喉を鳴らす。

「すっかり懐いてるじゃん」

「マニんちの飼い猫が逃げちゃったの?」

「ううん、違うんだけど……」

 麻仁は首を横に振りつつも、抱きかかえた黒猫を畑中たちに寄せた。

 畑中や京極も猫の頭や背中を撫でてやる。

「でもあなたには何度も助けられたわね。もしかしたら本当に神様のお遣いなのかもね……ありがとね」

 麻仁は、胸元の黒猫を撫でてみるよう沙羅にも促す。

 だが沙羅は苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ触ろうともしない。

 もしかして猫が苦手なのだろうか、と麻仁は首を傾げる。


 途端に沙羅は両方の拳を握り、声を震わせる。

「……こ、この子は、どこかご近所のお宅が餌付けをするせいで居ついてしまい、おかげで境内でフンをするわ、神楽殿で爪を研ぐわ、本殿のお供え物にまで手を出すんですわ!」

「ええっ、この子が!?」

 麻仁はちらと畑中を見た。

 彼女の自宅でもある料亭の使用人が餌を与えてから、周囲を散歩するようになったと聞いていたからだ。

 肝心の本人は視線を反らして不自然に笑いを浮かべ、その場を取り繕う。


「あなた、神聖な境内でそんな無礼な事して一体どこのお宅の子なんですのっ!」

 麻仁にはこの三年間、よく聞き慣れた沙羅の雷が落ちる。

 まだ龍の力が残っているのだろうか。

 黒猫のマニは人間に怒鳴られているのを気にも留めず、抱かれたままそっぽを向きあくびをしている。

「あっ、そうだ! あたし用事があったんだわ! みんなそれじゃ、また明日!」

 畑中は唐突に別れの挨拶をして駆け出していく。

「じゃああたしもここで。八坂さんとマニは一緒にゆっくり帰ったら?」

 京極も気遣うように二人を残して去っていった。

 それまで抱かれていた黒猫も、麻仁の腕の中から飛び降りると飄々と街の中を歩き出した。




 突如、二人きりになってしまったため、しばらくは先程の生徒会室でのやり取りによる照れもあって、しばらくは互いに無言のまま歩みを進めた。


 やがて、沙羅は小さな溜息をひとつ吐いて、麻仁に向けて語り始める。

「結局、お母様の家系の遺した伝承は異教の呪術で、街の皆様にご迷惑を掛けるものだったのですね」

 沙羅の持っていた首飾り、その編み込まれた繊維の真ん中で丁重に護られていた宝玉はあの晩、術の封印を破壊したと同時に粉々に砕け散った。

「あの石が応えてくれたことこそ、わたくしが<鳥の巫女>の正統な後継者である証と信じていたのに、石を受け取った者が人柱に選ばれた印だっただなんて……きっと貴船さんの石も同様でしょう。いわば二人の巫女と称する娘は呪術を解放するためのトリガー……あんな罪深い石なんて壊れて正解でしたわ」

 落胆と悲嘆の色を瞳に湛えた沙羅は、いつも着けていた紐飾りの無くなった首元をそっと撫でる。

 麻仁は隣を歩く沙羅に向けて、精一杯の慰めのつもりで、大きく首を振った。

「あたしは会長のおうちやこの街にあるお社が、みんなが犠牲になるために創られた信仰だなんて思いませんよ。ステーシー先生も龍神様の信仰は、そういうのを見聞きした日本人のありようで残っていったって言ってましたから」

「ステーシー先生ですか……本当にこの街を創った異教徒ならば、わたくしのお母様の一族も同罪ですわ。でもお母様が早くに亡くなったせいで伝承の核心部分は曖昧でしたが、まんまとステーシー先生に騙されて、わたくしが生贄にされるなんて……」


 この一連の騒動の当事者である沙羅は他の生徒とは異なり、彼女自身やステーシーの一族にまつわる顛末の記憶も失われていなかった。


「ですから、貴船さんには改めてお詫びしなければいけませんの。わたくしが家に戻った晩、お父様も頭を下げておりましたわ」

 それまで歩み行く正面の風景を見ながら語っていた沙羅は、麻仁に顔を向けた。

「女系で続いた八坂の家は、宮司を婿に迎える。でもそれは表向きの形式的な宮司だけ。神道とは異なる謎の宝玉を女系が引き継ぐ……それに違和感を覚えたお父様は、お母様が病死されたあと、お社の過去の歴史を紐解きましたわ。良からぬ存在を知ったお父様は娘のわたくしだけでも守りたいと、巫女として奉職させながら、ご自身の目の届く神社に匿うようにしたそうですわ」


 それはすぐに<神の落とし子ら>の知るところとなったのだろうか。

 新しい鍵守りの血脈を用意させるために、沙羅は『最期の供物』として選ばれた。


「宵宮の巫女舞を交代させたのも、お父様は表舞台にわたくしを出したくないとの想いからでしたわ。ですが結果として貴船さんに巫女舞をお願いしたせいで、今回の騒動に巻き込ませてしまったと謝罪をしておりましたわ」

 一旦、歩みを止めて頭を下げる沙羅に麻仁も焦った様子で畏まる。

「そんな、むしろあたしこそ何も知らずに、会長に……」

 そこで麻仁は、はたと想いを巡らせる。

「でも、あたしはなんで今回の騒動に巻き込まれたのか……やっぱり家が神社で巫女だったから、ステーシー先生に目を付けられたんですかね?」

「貴船さんにもお力があるのですわ。他人にはない力が」

「そうなんだ、やっぱり……あたしのうちも当時の宮司の家じゃないってお父さんも言ってたし、恐ろしい異教の家系だったんですね、きっと……」

 すっかりと顔を蒼ざめさせた麻仁は天を仰いだ。


 だが、沙羅は勘違いしている彼女の様子を見ると、ほんの少し気持ちが落ち着き、笑顔を浮かべた。

「貴船さんはマイペースですのね。さすが自然に多く囲まれたお社はいいですわね」

 沙羅の言う意味が理解できず、きょとんと見つめ返す麻仁。

 すると、沙羅は指で円を作ると胸元に添えて、首飾りの宝玉を再現した。

「ステーシー先生が持っていた宝玉が反応したせいですわ。人柱ならどの女の子でもいい訳ではない、生贄になるだけのお力を貴船さんも秘めていたということですわ」

「えっ? ホントに、あたしが……ですか?」


 幼少から水の声を聞いたり、本物の神にまみえたというのに、未だ麻仁自身は納得していなかった。

 巫女の奉職がない時は自分は普通の女の子。オカルトとは今日も無縁なのだ。


「ですので、文化祭のサブテーマを決めたあの日、あなたが<鳥の巫女>様と対話をされたと聞いた時は正直、驚きましたわ。まさか貴船さんのご自宅も、うちのお社の異教の伝承とご関係があるのかと、コンペの結果よりそちらが気になりましたわ」

「……? そんな話しましたっけ?」

「ご自宅の神社で、石が光ったり<鳥>とが繋がった時に思いついた、と」

「お風呂場で、おもちゃの蓄光石や繋げたアヒルのを見た話ですか?」


 それを聞くなり沙羅は、麻仁も驚く程に大きく目を見開き、やがてがっくりと頭を垂らす。だがその後はクスクスと笑い出した。

 以前ならふざけているのかと小言のひとつでも始まるであろうに。

「貴船さんは本当にマイペースですわね。ご自宅でのお勤めはだいじょうぶかしら! あなたはやはり<水の巫女>がお似合いですわ!」


 いかにも笑い過ぎたかのように指で沙羅は涙を拭っていた。

 彼女はやはり水神を祀る湧水豊かで、のどかな山深い神社の娘だ。

 同じ生徒会として、神社の娘の巫女として、ライバル視していた部分も決して無くはない。

 だが、彼女は巫女としても異質だ。

 少しとぼけてズレているが、それは見ている次元が違う、下界の価値観とは異なる神に近い感覚と言うべきかもしれない――。


 ひとしきり笑い終えた沙羅は、柔和な笑みを麻仁に向ける。

「……貴船さんと生徒会でご一緒できて、よかったですわ」

 異教の呪術である宝玉の封印を解いた後の記憶は途切れているが、沙羅はひとつだけ憶えている光景がある。

 気がつけば稲妻が暴れる暗黒の雲の中を漂っていた。

 現実か悪夢かもわからない混沌とする意識の中で、光輝く彼方から温かい手を差し伸べられ、助けられた。

 逆光でその顔は判然としないが、手を伸ばしてくれたのは同じ年頃の黒髪の巫女。




 やがて、歩む道の先には朱色の大きな楼門が見えてきた。

「八坂の家は女系であるがために、よそにお勤めされていたお兄様が権禰宜ごんねぎとして戻ってこられることになりましたわ。ですので、もう我が家はお母様の一族の異教のしがらみからは解放されて、これからは家族みなで盛り立てていきますわ。もちろん、わたくしもこれまで通り巫女としてお手伝いをしていきますの」

 沙羅は力強くも穏やかな口調で麻仁に決心を語った。まるで自分自身の覚悟を確認し、迷いを振り切るかのように。

 身体の向きを沙羅の正面に据え、麻仁は大きくうなずいた。

「会長ならきっとご立派にお勤めできると思いますよ」

「わたくしも貴船さんを見習いますわ。参拝者に信仰をお伝えして、神様に祈り、神様のおそばに在る日々に感謝する……それが、わたくしたちの責任ですから」

「そうですね。もう一度、あたしたちの手で神様や龍神様のお姿を正しく伝えていくべきですよね」

「正しい神様のお姿や歴史や信仰を伝える……それこそが巫女の本懐ですわね」


 沙羅は照れ臭そうな笑みを浮かべる。

 そしてお互いに視線を絡ませると、笑顔を向け合った。

 今度は麻仁からそっと右手を差し伸べた。

 沙羅もそこに手を重ねる。

「その前に文化祭を成功させないといけませんわ。わたくしたち三年生の最後の仕事ですわよ」

「そうですね、でもだいじょうぶです、必ず上手くいきますよ」



 堅く結ばれた両の手は、その絆の強さとなる。

 大空を羽ばたいてゆくにはあまりに拙く危うい。

 だが、不器用で幼い片翼の巫女たちは、進む道は違えど握り交わした互いの手が、もう片方の翼となると信じて疑わなかった。これから幾度となく立ち止まることがあったとしても、きっと進む先を照らしてくれる光があるから。



 麻仁は交わされた手を握りながら、柔らかな笑顔を向けた。

「すべては神様の御心のままに……『神のまにまに』ですから」

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神のまにまに 邑楽 じゅん @heinrich1077

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