災厄の時、迫る 第6話

 麻仁の神社からほどなく山を下った中腹にある、避難場所となった集会所。


「いま、マニちゃんの悲鳴が聞こえたような気がしたけど……だいじょうぶかしら」

 巫女の藤谷が周囲を見渡す。

 右源太を探しに別れたきり戻らず、麻仁の姿は無い。

 それだけではない。異質な気配が周囲を覆っている。

 畏怖に全身を震わせた藤谷は左右の手を組むと、静かに目を瞑った。


 彼女が二人の無事を願って祈りを捧げていると、集落のまだ幼い子供たちはどうしたのかと、周りに寄り問い掛ける。

「なにしてるの?」

「龍の神様にお願いしているのよ。早くこの雨がやみますようにって。みんなも一緒にお祈りしましょうね」

 小さな子らは素直に手を合わせると一緒に目を閉じる。無心に祈るとは程遠いものであるが口々に、雨が早くやみますように、と言葉にしていた。

 その時、突如として足元に揺れを感じた。

 避難した住人は最初は地震かと不安げに、不規則に揺れる天井の照明のひもを見つめる。

 ところがそれだけではない、大気も激しく振動し始めた。

 子供たちは泣きだして、藤谷や親にしがみつく。

 大人たちは何が起きたのかと我が子を抱き、互いに身を寄せ合いながら、不安そうにあたりを見渡していた。




 仲良しのクラスメイトである斉藤と小池は、三本足の鳥居の神社に居た。

 長く雨が降っているのにも関わらず、鳥居の立つ池は相変わらず干上がっている。

 二人とも本殿の前で、両目を強く瞑り必死に祈った。

「マニには連絡がぜんぜん取れないし、いったいどうなっちゃったの!」

「ホントにヤバいんだよ! きっと龍のイケニエにされちゃったんだってば!」

 この日は文化祭でのオカ研の発表のため、市内の追加取材をする約束になっていたが、ここ最近の雨である。

 念のため外出したものの雨足は強くなる一方で、もう中止にしようかと逡巡しているうちに、こうして三本足の鳥居の神社にやって来たのだった。

「神様、マジでこの街を救ってください!」

「オカルトを面白おかしくイジるのは、もう辞めます……あっ、でも文化祭までにします!」

 斉藤と小池は、せーので呼吸を合わせ二拍、柏手を打つ。

 それから勢いよく拝殿に向かって頭を下げた。

「ビラビラが倒れてたし、小石の山は崩れてるし、これ絶対ヤバいよね?」

「やっぱりダビデの神社って本当だったね。これノアの箱舟で言う大洪水になるよ」

 すると足元が突然に揺らぎ、境内の樹々は激しくしなり出す。

 すわ地震かと思わず抱き合う二人だったが、三本足の鳥居の足元が輝くのを発見すると、慌てて池のほとりに駆け寄る。

 轟音と共に鳥居の足元から激しく水が噴き出していた。

 大量の水が地面の底から溢れ続け、干上がっていた池はあっという間に満々と水を湛えた。

「なにこれ!」

「ちょっ……地下水脈が溢れるくらいの大水が迫ってるって意味なのかな……?」

 斉藤と小池は抱き合ったまま呆然と池の水を見続けていた。



  

 料亭の庭に降り注ぐ外の雨の様子を、生徒会の副会長、畑中は物憂げに見ていた。

 市内北部の山間部に土砂災害の警報が入り、麻仁に安否のメッセージを送ったが、彼女の既読はつかない。

 不安に駆られつつも、ただ待つしかない自分に焦れていた。

 すると庭に一匹の黒猫がやってきた。

 彼女がマニと名付けた近所の通い猫だ。

「おっ、どうしたんだ、マニ。こんな天気の時に」

 黒猫は畑中に金色の瞳を向けながら、にゃあと鳴き声を上げる。

「待ってな、なんか食べ物もってくるから」

 畑中は冷蔵庫から魚肉ソーセージを取り出すと、玄関から自分の靴を持ってくる。

 素足に靴を履いて庭園に降り立つと、ソーセージの包装を剥いて庭の飛び石の上に置いたが、黒猫は一向に口を付けようとしない。

「どうしたんだよ、他の料亭でご飯もらって腹いっぱいなのか?」

 その時、わずかに枝葉や置き石を打つ雨粒が減った。

 途端に雨雲の隙間から陽光が差し込む。

「おっ、もしかしてようやく晴れてきたのか?」

 上空を見上げると、すぐにその違和感に気づいた。

 それまでずっと旧都の付近に張りついていた黒雲は、稲光と豪雨を収束させながら一点に収束し出した。そして、それらは麻仁の神社付近とおぼしき、はるか北の空で大きな渦を巻く。

 その光景に畑中は唖然と空を仰ぎ見る。

「なんだよ、ありゃ……」

 それを見ていた黒猫は再び鳴き声を上げ、なにかを訴えると畑中の靴に爪を立て、靴紐をくわえて引っ張る。

「どうしたんだよ? 一緒に来いってのか?」

 畑中は誘われるように自宅を出た。

 黒猫はたまに後ろを振り返り、ちゃんと付いて来ているかを確認しながら、歩みを進める。自宅のすぐ近くには沙羅の神社があり、御所を向いた正門とは異なる南側の楼門があった。

「うげっ、あたしはいいよ。ここん中は」

 思わず脚を止め、境内に入るのを躊躇する畑中。

 だが黒猫は催促するように再び靴に爪を立てる。

「いててっ、わかったよ……」

 黒猫は雨に打たれた玉砂利の中を駆けていくと、拝殿の正面にちょこんと座った。

 そしてまた振り返り、鳴き声で畑中を呼びつける。猫のくせに毛が濡れるのを厭わず、そのまま拝殿前に座している。

 まるで祈っているかのように。

「なんだよ、こういうとこはあのマニっぽいよな。まったく……」

 渋々、ポケットから小銭を取り出した畑中は賽銭箱に放り入れると、黒猫のマニと共に人間の麻仁の無事を祈った。



 

 麻仁の神社の奥宮では、土砂崩れによって倒壊した本殿があった場所が強く光り輝いた。

 地面の裂け目から鋭い光の刃が上空に向かい、旧都を覆っていた黒雲の渦に突き刺さる。

 直後、厚く垂れこめた雲は黒い竜巻となって一点に集中し、大地の亀裂に高速で吸い込まれていく。周囲は地面に衝突した雲によって激しい風が巻き上がり、境内にある玉砂利や土砂を巻き込んでいった。


 いったい、どれほどの時間だったであろう。

 あれだけ長く降り続いた雨はあっという間に止み、雲の隙間からは薄日が差すほどに天候は急回復した。

 これまで世界を支配していた降りしきる豪雨の音は収まり、耳が痛むほどの静寂が辺りを包んでいた。

 青々とした葉から滴る雨が、水たまりに落ちる音だけが聞こえる。

 集会所に避難していた近所の住人たちも、互いに顔を見合わせて呆然とするばかりであった。




 天空の祭壇から見える雲間の下界にいったい何が起きたのか。

 手で上体を支えながら眼下の様子を見ていた麻仁だったが、交信する神々の声とは違う音を聞いて、そちらに視線を向ける。

「うぅ……」

 祭壇の真下で床に倒れていた沙羅が小さく呻く。

 彼女の顔は徐々に血色が戻り、胸も呼吸で上下するようになっていった。

「会長!」

 麻仁が片膝を立てて沙羅に近寄ろうとした時、龍の声が響く。

『荒ぶる地底の神と、水の神に仕える巫女たちよ。我の声を伝え続けるが良い』

 龍の声を受けて麻仁は祭壇に向かい深く一礼する。頭を上げるが、相変わらず龍の姿は見えないので、麻仁は行き場なくアメノトリフネや、その周辺に視線を配った。

 それきり、祭壇の部屋に漂う威圧感は消えていった。

 途端に麻仁の手足の震えも収まり、額に浮かぶ脂汗も引いていく。



 次に祭壇に立つアメノトリフネが言葉を続けた。

『貴船麻仁よ、これからも皆をよく助け、巫女としての勤めを果たしなさい』

 すると沙羅の全身が黄金色に輝きだし、次第にその姿形が薄らいでいく。

「あっ、会長っ!」

『八坂沙羅は下界に戻りました。そなたも家族のもとに戻りなさい』

 アメノトリフネは五本の指を麻仁に向けた。

 今度は麻仁の全身が黄金色に輝きだし、次第にその姿形が薄らいでいく。

 視界が眩い光に包まれ、自分がその場から消え失せるとまさに認識した直後、麻仁は慌てて祭壇上の巫女神に向かって深々と頭を下げた。

 それを最後に淡い光の粒と化して、まるっきり消えてしまった。



 それきり麻仁の姿が見えなくなった舟の中では、アメノトリフネが小さな溜息を吐き、少し呆れたような口調で龍を諫める。

『今回ばかりは自堕落なあなたも多少はやる気を出したというところですが……もう少し下界の民や巫女たちを救おうという気概はないものですかね? それこそ異教の術に好き勝手に蹂躙されてばかりでは、龍どのの評判を落とすというものですよ?』

 だが龍は意にも介さず、その問いには答えずに自分語りを続けた。

『恐怖すればすがり、実りあれば興にふけり感謝を忘れる。それが人間どもの信仰なのだ。我らが放置した異国の技に翻弄されようが、それが真の神の怒りであろうが、いずれにせよ我らの下知である事に変わりはあるまい。ゆえにあの娘たちが無知蒙昧な民が蠢く下界を如何に変えられるか、愉しみではないか?』

 アメノトリフネは身体の一切を動かさず、視線は最後に麻仁が跪いていた先をずっと見据えていたが、龍の発言を受けてわずかに眉を動かす。

『私や他の神が龍どのの後始末をする羽目にならないように、くれぐれもお願いしますよ。龍どのがあの娘たちのことをちゃんと面倒を見ていただかないと』

 二柱の神は人間の巫女が去った後もしばらく、雨雲が霧散し太陽に明るく照らされている、足元に広がる大地を眺めていた。




 雨が止み、樹々の合間から陽が差し込む奥宮の境内。

 本殿は建屋が全壊し、山から押し寄せた土砂は境内の大半を覆っていた。

 だが船形石は何事もなかったかのように以前の姿のまま元の位置に鎮まっている。


 すると折り重なった倒木と岩石がわずかに動き、人の手が見えた。

 土砂や木枝の間から身を出したのは、全身のスーツを土で汚し、髪や手指の先まで泥を纏ったステーシーだった。

「ペッペッ。土が口の中に……まったく、エライ目に遭ったわ」

 ふと足元を見ると、麻仁が着けていた宝玉の首飾りだけが落ちていた。

 紐の先端は欠損しており、呪術を秘めた宝玉が無事かは一目では知れないが周囲を捜索せずとも、結果はステーシーには良く分かっていた。

 それを拾うと、指先に通してくるくると振り回す。

「宝玉を両方とも失ったわね……これで作戦は失敗。<方舟>どころか、よもや本物の神様が邪魔してくるなんて思わなかったわ。だから日本って嫌いよ。まぁいいわ。秘術を張っているのはこの街だけじゃないし、他にやり方はいくらでも……」

 その時、はるか後方の山道から人の気配と声が近づくのに気づいた。

「せいぜい巫女として日本人のために祈りなさい、マニ。それじゃバイバイ」

 ステーシーはまだ土色に濁り水量が増した渓流に掛かる橋を渡ると、山の中へと姿を消した。




「ねえちゃーんっ!」

 右源太が集会所に居る家族に緊急事態を告げると、皆で麻仁を探しに来た。

 身軽な小学生の双子が先行し、麻仁の両親と廣矢、藤谷がその後を追って駆けてくる。


「なんてことだい……」

 斜面から流れ落ちた山肌や倒木は、奥宮の拝殿や神楽殿を倒壊させ、周囲は濁った土色で染め上げられていた。

 父はその惨状を見て、声を詰まらせた。

 だが、見える範囲には娘の姿がない。


 にわかに左源太は、緊張の面持ちであたりをくまなく見回した。

 つい先程、右源太から聞いた船形石に助けられたという状況と、以前夢で見た沈痛な表情で光る舟に乗り去っていく姉の姿がよぎる。

 左源太が堆積した土砂や倒木の山をそろそろと昇ると、小学生の彼の背丈でも船形石の上部がよく見えるくらいの高さになっていた。

「あっ! 父ちゃん、あそこっ!」

 左源太の声に皆が慌てて駆け寄る。


 麻仁は船形石の上に倒れていた。

 だが、家族の声にも彼女は反応しない。

「父ちゃん、おれ船形石の上に登るよ!」

 左源太は言うが早いか、右源太と共に樹々や岩を含んだ土の斜面を駆け上がる。

 父は神聖な船形石を足蹴にするという行為に一瞬だけ躊躇したが、娘の安否を確認するための緊急事態なので、やむなく船形石に深く一礼してから、よじ登り始めた。


 双子が麻仁のそばへと近づく。

 その顔は血の気を失い微動だにしない。

「……ねえちゃん?」

 恐る恐る近づく左源太。

 ほんとうに夢で見た光景の通り、右源太の言う光り輝く船形石に乗って、姉の魂は遠い所にいってしまったのかと、震える指先で麻仁の肩に触れた。

 あたたかい。

 かすかに上下する胸。

 呼吸をしている。

 雨に濡れてすっかりと身体は冷え、顔色は蒼白であったが、姉は間違いなく生きていた。


「しっかりしろ、マニ!」

 父が頬を軽く叩いた。

 やがて麻仁の瞼がゆっくりと開き、瞳が左右に振れる。

 視点が定まってくると、彼女の眼前には心配そうに囲む家族の顔があった。

 麻仁はあまり力が入らない腕で必死に上体を少しずつ起こす。

 途端に母は娘の頭を両腕で包み、胸元で強く抱きしめて涙を流して叫んだ。

「マニっ! 心配したのよ!」

 全身を濡らした麻仁の身体を、とても優しい温もりが伝わる。

 先程、舟の巫女神と別れた天空の祭壇のあの光のように――。


 こんなに母の存在は偉大なものだったのかと実感した。

 麻仁も母の身体をぎゅっと抱き返した。

 不思議と、とめどなく涙が溢れてくる。

「お母さん……ごめんなさい」

 右源太も左源太も姉にしがみついてきて、泣いていた。

 父は全身の力を失ったかのように、膝を折ると呆然と娘を見ていた。

 藤谷と廣矢も安堵から目を潤ませて、麻仁の無事を喜んだ。

 それから、家族らに抱きかかえられながら麻仁は自宅へと戻っていった。



 後日、麻仁の家には、ある知らせが届けられた。

 それは、雨雲が消えて麻仁が奥宮で家族と再会した時をほぼ同じくして、沙羅もまた自宅に隣接する神社の拝殿で倒れているところを発見されたとのことだった。

 彼女も行方を眩ませたままの姿で、怪我もなく無事であった。


 こうして災厄は封じられた。

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