災厄の時、迫る 第5話

 麻仁は対面する祭壇の上の巫女装束の女神、アメノトリフネの言葉を聞き、地面に上体を伏せた姿勢のまま言葉も無く座していた。


 力無くぬかづく顔の先にある床が冷たく感じる。

 両手の指の震えが止まらず強く握りしめた。

『顔をお上げなさい』

 アメノトリフネに促されたが、その表情を窺うのも恐ろしかった。

 麻仁は息を呑むとゆっくりと視線を向ける。


『貴船麻仁よ、よくお聞きなさい』

 長い睫毛を蓄えた巫女神の澄んだ瞳がわずかに開くと、麻仁に向けられる。

『そなたは巫女の本懐をなんと心得ますか?』

「えっ……それは、敬い信奉する神々に祈り、人々の多幸を祈り、実りある自然に祈ることかと……」

『憐れな八坂沙羅は、異教徒によって創られた一族に伝わる歴史を真実と信じておりました。彼女がそれを遂行することこそが巫女の本懐だと信じていたのなら、あまりに気の毒であると私は思います』

「でしたら巫女神様! 是非とも会長を助けてあげてください!」

 麻仁は額が床に付くほどにさらに深く頭を下げた。


 女神はまたも言葉を止めて、ひざまづく民の巫女をじっと見守った。

『さて、貴船麻仁。清き水に仕える巫女よ。か弱きそなたがそこまで望むのであれば、そなたが選択をするのです』

 突然の神の申し出に瞳を輝かせた麻仁は、上半身を伸ばして巫女神と向き合う。

「本当ですか! なんなりと!」

 隠し切れない喜びをあげる麻仁に対し、アメノトリフネは淡々と続けた。


『そなたの残る命を八坂沙羅に託し、そなたは私の代わりにタマヨリ様のそばに仕える<水の巫女神>に生まれ変わるのです。この舟にとどまり、全てを神々に捧げ、街の民をとこしえに見守るのです』

「会長に命を……ですか? それを選んだとしたら……」

『そなたはもう二度と現世に戻ることはないでしょう』


 にわかに麻仁の心拍が上がり呼吸が乱れる。

 胸が苦しくなり、両手を祈るような形に合わせて押さえた。

 あわよくば神の加護によってこの雨雲を封じてくれるのではないか、と願っていた麻仁はその浅はかな考えが容易く打ち砕かれ、狼狽した。

「それにもし、あたしがその選択をしなければ会長は……」

『先程も申しましたが、大きな力や民の信仰が無いと、八坂沙羅の魂を戻すのは困難かもしれません』


 家族や友人らに会えないのでは、やはり死んだも同じ。だがその力で災厄を除くことはできる。家族や街の皆を、沙羅を救いたい気持ちはあるが葛藤に決断を躊躇してしまう。

 そんな逡巡をする彼女にはお構いなくアメノトリフネは言葉を続ける。


『神の末席に加わることで、そなたは時間も寿命も超越した存在となります。そなたが知る者も、その子孫も、末代まで守ることができるのですよ』

 麻仁は震える指先から、徐々に自分の体温が奪われていくような錯覚をおぼえた。

 これだけ暖かい慈愛の光に満ち満ちた天空の祭壇が、凍てつくように感じる。

「あたしは……正直、もうみんなに会えなくなるのは……嫌です」

 祭壇の部屋には麻仁の不安げな、か細い声が残響する。

「出来るのならみんなを救いたい。もし、あたしが巫女神様のお力を得られたら……でも、手の届かない遠いところからみんなを救いたいのではないんです。困ってる人がいたら寄り添って、かたわらで一緒にお祈りしたいし、神社に来てくれた人が少しでも心穏やかになれるようお手伝いをしたいんです」


 アメノトリフネは祭壇上から微動だにせず見下ろし、麻仁の言葉を聞き続ける。

 心情を吐露した彼女の発言を受けてさらに問う。


『地上で共に祈り、寄り添うだけでは助けられないこともあります。今回のような災厄によってそなたを知る者が、或いは、そなた自身が命を落とすかもしれませんよ』

 もっともな女神の正論に対し、麻仁は言葉をつぐむ。

 神々の力を得られるのは名誉だが、自分だけが俗世との時を分かつ永き命を与えられるのは麻仁にとっては不本意であった。また、自分が知る者たちが全て去った後の地上の国でも、人々に慈悲の心を持ち続けていられるか率直なところ不安でもある。

 なればこそ、常に皆と共に在りたいとの一心であるのは間違いない。

「そうなった時は、あたしが無力だっただけなのかもしれません……いえ、あたしは無力です。永遠の命で、全ての人を平等に助けられるか不安もあります……だからこそ、地上でみんなのそばにいて互いに痛みを分かち合うから、気づくこともあるはずです」


 麻仁は巫女神に向けて奏上しているうちに、次第に落ち着きを取り戻していた。


 自宅が神社だから渋々、あたしは巫女をしているわけじゃない。

 高校一年生になったあの日、自分で選んで進んだ道だ。

 自分にとっての巫女の本懐とは――。


 今こそ改めて自身に問い直した。


「あたしはみんなが祈ることで、それぞれが自分と向き合い、前を向いて道を拓く力を得られると信じています。神様のご託宣はまさに、その人が内面に秘めたものを引き出すキッカケ。そうやって自分を見つめて、自分の強さを引き出せることがお社の奇跡だと信じています」

 ステーシーから聞き、目の当たりにした異教徒の呪術。

 知っていた旧都の歴史も、信じていた龍神も異国の者によって故意に創られたものなのかもしれない。


 日本の神々にも荒御魂と和御魂の二面性がある。

 麻仁の神社が祀る水であっても、多すぎても足りなくても自然は機能しない。

 いずれも備える二律背反の世界。

 歴史の裏もまた闇。光が当たればそれが真実の側面になる。

 だが、光が強ければ闇も深くなる。

 決して闇がこの世から消え去る事は無い。

 前を向くも背を向けるも、光も闇も自らが選択すること。

 目に見えるものだけが正解でもないし、敢えて暗部を見ないのもまた個人の選択。


 以前、沙羅と一緒に下校した時も彼女は言っていた。

 ご神体が神鏡なのは、まさに参拝する自身の在りようを映す鏡だと。

 だからこそ麻仁は自身が感じる神道の在り方、日本人が神々に祈る理由を探る。


 それは、自分の弱さを認め、弱点を克服するための努力を誓うこと。

 神前で高らかに宣言をすること。

 それをもって神々は、か弱き民に下知をする。最適解の託宣をする。

 未知の苦難に備え、果てなき努力を続ける人生の旅路を切り拓くのは、全て個人。

 そのために自分は巫女として、神社を詣でて神前で誓う人々の助けとなるべく、そばで寄り添い、勤めを果たすこと――。



『わかりました。それでは貴船麻仁よ。八坂沙羅の扱いはどうされますか?』

 麻仁はその問いにはわずかな間、黙ってしまった。

 彼女を助けたいのはもちろんだが、命の交換というのも悩ましい限りだった。

 それでも生徒会の仲間として、同じ巫女として助けたいのは間違いない。

「やり直しできるなら、そうさせてあげたいと思います……でも、あたしの命を託すとか寿命を半分こにする……なんてことは、怖くてできないのが正直なところです。会長も一生懸命に信じていた自分のお社の神様や言い伝えに寄り添ったのであれば、それは純粋な神様への信仰として、お察しいただきたいと思います。神様の荒御魂が熱心に信仰する民の命までを失わないと願うしかありません」

 麻仁は上体を先程よりも少しばかり深く折って、伏した。

『でしたら、神に祈る民草をそなたは如何に救いたいと願いますか?』


 麻仁はその問いには迷いなく言葉を出した。

 それは今までも、これからも、彼女自身が望むこと。


「確かに人間はか弱いし、神様から見たら愚かなことをすることもたくさんありますけど……心は強いです。今までも多くの災厄に見舞われましたが、お互いに助け合って、支え合って、生きていくことができます。一緒に泣いたり一緒に笑ったりできるから、苦しい時も一緒に頑張れるんです。それを励みにどんどん強くなっていったのが人間だから……そういう人達の力になりたいし、お社はそういう場所であるという風にしたいです」

 そこまで言い終えると、麻仁はしばし言葉を呑んだ。


 人間の弱さも強さも自らが招くもの。

 自分ひとりじゃなくて、みんなで頑張れば、もっと強くなれるはずだから。


「あたしが神社にお勤めをしていて一番好きなのは……参拝に来た人達の顔が穏やかになって帰っていくのを見た時です。神様のお姿が見えなくても、お声が聞こえなくても、いつでもおそばにいられるように……いえ、いつもおそばに感じられるように祈るのは、巫女も神職も信奉する人達も一緒です。だから、その人達のためにこれからもご奉仕したいです」

 そこまで聞き終えたアメノトリフネは静かに右手を差し出した。

『これからそなたを、どんな苦難が襲うかわかりません。異教の技と言わず、自然神の怒りは幾度となく大地を襲うでしょう。多くの者たちの痛みや苦しみによって涙するかもしれないし、平穏な日常を享受する中で神への信仰が薄らぎ、怠慢で利己的な生活を送る民に怒りを覚え、悲嘆に暮れるかもしれませんよ?』

「あたしは……ただの人間の巫女です。全ての人を救える器ではないし、自分自身が弱い存在だと言うのも承知しております」

 麻仁はゆっくり顔を上げ、改めて正面の相手を見据える。

「それでも、すべてはこの世の在りようのままに。そして、すべては神の御心のままに従うだけです」


 麻仁の視線を一身に受け、沈黙する祭壇上のアメノトリフネ。

 しばらく思案したのち、鷹揚にうなずいた。

『人間の民は我ら神々からしたら、はかなく脆い存在です。だが、個々が持つその心の強さや姿の在りようは、間違いなく神々の血肉の根源と言えるでしょう。それは決して信仰心の有無や、心根の素直さだけではありません。自らが正しいと信じて、真っすぐに動くその姿勢こそが民の強さとも言えます』


 そこでアメノトリフネは初めて笑みを浮かべた。

 ほんのわずかに口角を上げて頬を緩めただけだったが、麻仁にはその慈愛の笑みがはっきりと見えた。

『以前、私は別の所用で下界の青年を観察しておりました。彼はまるで神を神とも思わぬ居丈高いたけだかな振る舞いでしたが、彼もまた素直な心の持ち主で、損得勘定なく、神と触れ合い、自身の信仰を貫いたのです。そういう面白さを持ち合わせているのが人間であると、私はその時に知りました。それはそなたも……』


 するとアメノトリフネは、手を大きく二度叩く。

 それはまるで神前で奉する柏手のようであった。


『さて……このように人間の巫女は申しておりますが、はたして龍どのは、どうされるのでしょう?』

「でも、龍神様ってステーシーさんの言ってた外国の嘘なのではないですか……」

 麻仁が言葉を発した途端。

 天空の祭壇は、突然に大きく揺らぎだす。

 地震ではない。

 大気を揺るがすような、強大な威圧感が周囲を支配しだした。

 麻仁も両手を床にしっかりとつけたまま、辺りを見回した。


 やがて、天空の祭壇には低い声が響く。

 単に音量の大きさや、音波の低さだけではない。その声が放つ神威によって、麻仁の肌や毛先がぶるぶると振るえるかのようだ。

『……どうした、アメノトリフネよ。もう小芝居は終えたのか?』

 龍とおぼしき声を聞くと畏怖を覚えたのか、麻仁の指先や肩も小さく震え出した。

 祭壇の部屋に姿はないものの、『それ』は声だけで圧倒的な存在感を放っている。


『私たちに仕える人間の巫女が、この雨雲を退けて欲しいと訴えております。異教の術で不名誉な噂ばかりになっていますので、たまには龍神らしいことでもしたらどうですか?』

 麻仁は反射的に上半身をふたたび倒して地面にひれ伏す。

 その刹那、背中から頭にかけて鋭い視線を感じた。

 龍がまるで自分を値踏みしているようで、まさにこれから供物にされる前の生娘の心持ちであった。


『人間の巫女よ』

 大地の底から轟くような龍の声がするたびに、麻仁の心を激しく掻き乱す。

 緊張と恐怖のあまり声を出そうにも、唇も顎も細かく震えて制御できない。

 麻仁は振り絞るように、必死に言葉を出した。

「……はい」

 やはり自分はこのまま龍の人柱になるのではないだろうか――。

 麻仁は遠のく意識を保つために、小刻みに震える顎を抑えようと、歯を必死に食いしばる。


『我は信仰をしない民がどうなろうと知らぬ。異教の術を放置していたのもそのためだ。我の力であろうが異教の技であろうが、死にゆく民には関係ないことだ。だが、民が新たな歴史を歩むのであれば、そなたらが新たな龍の伝承を皆に伝えよ。これは命令だ』

 麻仁はまだ床に額突ぬかづけたまま震えている。


 今度は慈母のような優しい巫女神の声が、彼女の全身を慰撫する。

『口は悪いですが、龍どのはやることをやるので、その信仰を伝える役目をそなたたちに託すと申してますよ』

「かっ、かしこまりました……えっ、あたし『たち』って?」

 麻仁が視線を上げて巫女神の顔を窺おうとしたのも、束の間。


 龍の咆哮が天空の祭壇に響き渡る。

「きゃあっ!」

 驚いた麻仁は、反射的に背中を大きく反らせた。

 まるで上体を強く押されたかのように、長い黒髪を大きく揺らすと、半透明の床にぱたりと倒れる。

 人智を越えた神の雄叫びは、舟の中の空間をも激しく揺らし、外界に広がる天空には強烈な音波が瞬く間に駆け巡る。

 そして麻仁が耳をふさいでも、龍の声は鼓膜ではなく脳の中へ直接に届いてくるようで、激しい眩暈をおぼえた。

 まるで全身が攪拌されていくようで祭壇の部屋の床にうずくまる。

「いやああぁっ!」

 麻仁が胸元に着けていた異国の紅い宝玉は、振動とともにひび割れ、やがて粉々に崩れ落ちた。


 今度は突風が祭壇の部屋を吹き荒れ、女神と麻仁の髪が掻き乱れる。

 そして一陣の風が渦となって通路を吹き抜け、舟の外へと向かっていった。

 壁面に映る眼下の雲間は、再び龍の猛り声が轟くと共に、景色が白む程に眩く輝いた。

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