災厄の時、迫る 第4話

「うげんたぁっ!」

 麻仁は探していた弟の、その姿を見るや悲痛な叫びを上げた。


 ステーシーは抱えていた右源太を肩から降ろし、すとんと両足で立たせた。

 そして、鈍い銀色に輝くナイフの切先が彼の小さな喉元に向けられる。

 暴行を受けたわけでは無さそうだが、逃走を試みたのだろうか、頬や額には擦り傷がある。姉に何かを伝えたいが、猿ぐつわのようにタオルで口を塞がれているため、言葉にならない声で必死に呻く。

「ボーイ、あまり動くとナイフが当たるわよ」

 鋭利な刃物の、先端の冷えた感触が首につんと触れたところで、右源太は静かになった。


「ステーシー先生、右源太を……弟を返して!」

 駆け寄ろうとした麻仁に対し、右源太の首元に当てていた刃物を今度は彼女に向けて警告する。

「これ以上、ワタシに近寄らないほうがいいわね。神に仕える巫女のくせに可愛い弟すら守れないのは嫌でしょ?」

「どうしてこんなことを……」

「どうもこうも関係ないわ。さっき言ったでしょ。いま為すべきことが優先よ」

 麻仁はステーシーとその胸元に居る右源太を交互に見つめた。

 幼い弟は恐怖で瞳いっぱいに涙を溜めているが、強い視線で姉に訴える。

 捕縛されている間に二人の会話の一部始終は聞いていたのだろう。捕らわれている自身を顧みず、数奇な運命など信じるべくもない。ただ姉が信念を貫くことだけを彼は願っていた。


「物静かだけど、少し分かり過ぎて勘の良すぎる弟さんね。明らかにワタシを警戒してたわ。こういう子こそ計画の邪魔になるからお勉強が必要なのよ」

 すると麻仁は胸元に手を添え瞳を揺らしながらも、懇願するような姿勢のまま淡々と語った。

「それは……たぶん違う方の弟です」

「……えっ?」

 麻仁の指摘に驚き、ステーシーは自身が捕縛した少年を見返す。

 互いの目が合うと捕らえられた弟も咄嗟に首を振る。

 どうやら、こちらは西瓜を勧めてきた方だった。

「ボーイズは本っ当に良く似てるわね。まぁいいわ、どっちでも。人質は人質よ」

 こんな場面でも相も変わらず呑気で穏やかな雰囲気を放つ貴船家の空気に、思わず苦笑するステーシーであった。

 この姉弟と行動を共にしたのはわずかであったが、支族の鍵守りとしての役目を忘れる瞬間もあった。

 だからこそ、気を引き締めていかねば、と改めて刃物を右源太の首元に据える。


「あなたは偉大な聖母<グランマザー>の巫女として、ワタシ達の血族からは伝説として語り継がれるわ。そして、マニの神社に祀られてるドラゴンは本物だったと評判になるのよ。素晴らしいことじゃない?」

「そんなことをしたら、街のみんなが……」

「マニ、いずれにしてもこの雨よ。悩んでいる時間はないわ? 人々に気づきを与えるのに、神様や自然がやることは荒御魂ってことで納得するくせに、他の誰かがしたら悪だなんて言えるのかしら? むしろ自然の神様を怒らせる人間の方が悪であるとはいえない? この街的に言うと『鬼』って呼ぶべきかしらね?」


 激しい雨に加えて、山間部に鳴り渡る警報のサイレンの音に負けじと、二人の声も大きくなっていった。

 こうして人質を用意しても未だに覚悟を決めない麻仁に対し、ステーシーも次第に焦れていく。

 素直に彼女を騙して、再度、人柱にさせておけば良かったのではないか。

 やはり沙羅の顛末を見てしまったことで、臆しているのであろうか――。

 ステーシーは、やや回りくどい説明をしてしまった自身を悔いた。

「マニ! 早くしなさい! ここもじきに鉄砲水が襲うわよ! そしたらあなたも弟もワタシも、みんな無駄死にになるわ!」

 麻仁は目をぎゅっと瞑ると、両手を胸元で組んで祈り出した。


――神様。

 あたしが信じていた神様。

 日本人が祈り続けていた神様。

 どうかあたしたちをお救いください。


「なにしてんのよ、マニ! そうじゃないわ、宝玉を抱えて祈りなさいっ!」

 ステーシーはナイフを右源太の首元から離すと、麻仁を威嚇するように振り回した。


 その隙を右源太は逃さなかった。


 自分の肩を抱えるステーシーの左腕に、猿ぐつわの隙間から前歯で思い切り噛みつく。

「痛っ! なにすんのよ、このガキっ!」

 ステーシーの左腕が離れると、右源太は両手両足を縛られたままでも、器用に膝を一気に伸ばして相手の胴体めがけて体当たりした。

 バランスを崩したステーシーは、その衝撃で玉砂利の上に背中から倒れる。


 それに乗じて右源太は、小刻みにぴょんぴょん飛び跳ねながら、姉に向かって必死に逃げた。

「右源太っ!」

 麻仁も弟の元へと駆けだした。

 転倒したステーシーは片膝を立てると、手から放り出された足元のナイフを拾う。

「しょうがないボーイね! お姉ちゃんの前に、あんたが先に逝きなさい!」

 必死に飛び跳ねて間合いを取る右源太の背中めがけて刃を構えた。

 そのまま怒りの形相で猛然と駆けてくる。


「ダメっ! やめてぇっ!」

 麻仁が悲鳴をあげた途端に眼前が激しく明滅する。

 ちょうどステーシーと向き合っていた麻仁と右源太の背後。

 船形石が黄金色に輝きだした。


 突然の光に視界を奪われ、ステーシーは足を止めた。

 麻仁と右源太の姿が眩むほどに、強烈な光が船形石から溢れ出ている。

「なんなのよっ、これは! 聞いてないわよ!」

 自らの支族が遺した呪術とは異なる奇跡に、ステーシーも狼狽していた。


 麻仁は弟を抱き寄せると、猿ぐつわと手足のロープをほどいていく。

「ちょっ! ねえちゃん、あれ!」

 今度は船形石が動き出した。

 地表からわずかに浮き上がると、一気に麻仁たちに向かって突進してきた。

「うわわっ!」

「きゃああっ!」

 船形石は激突することなく、麻仁と右源太の身体は輝く舟の中に吸い込まれていった。そして辺りからはその姿を消していた。



 ステーシーは何が起きたのかと、呆然となりゆきを見守る。

 その刹那、大きな地響きが起こった。

 拝殿の西側の斜面で地滑りが発生し、なぎ倒された樹々や土砂が、泥色の波となって奥宮の境内に押し寄せてきた。


 ステーシーは咄嗟に川側へと走り出す。

 ところが川からは溢れた濁流が築堤を越えて、道路へと向かってくる。

「ちっ、マズいわね」

 踵を返して、ステーシーは山門へと向かった。

 だが、大地の怒りは彼女が駆ける速度を凌駕していた。

「ホントになんだっていうのよ、いったいドラゴンはどうなったの!」

 ほんの一瞬の出来事だった。

 龍の怒りの如く、猛り狂う山の咆哮が一気に覆い被さる。

 上空に浮かんだ船形石の真下を土砂が走り、境内の玉砂利を土の雪崩が洗い尽くす。

 しばらくは、土石流が縦横に境内の中を走り続けた。



 やがて土砂の動きは止まり、けたたましい音も消え去った。

「うわっ!」

 右源太は、頭の少し上あたりの中空から地面に放り出された。

 そのまま尻もちの姿勢で下半身を痛打してしまい、呻きながらおしりを撫でる。

「なんだよ、これ……」

 右源太は境内の中を見回す。


 無残にも折れた樹木と大量の岩の塊がその場を洗い流し、景色は一変した。

 本殿や摂社、能舞台は全て崩壊し、周囲には折れた木材が散乱していた。

 もちろん付近にはステーシーの姿は見当たらない。

「うわぁ……敵の外人先生もいなくなってるじゃん……」

 ところが、彼が最も会いたい人がいなかった。

 そして上空には光り輝く船形石も消えている。

「ねえちゃん? おーい、ねえちゃんってば!」

 呼び掛けに反応も無く、付近には人影もない。

「おかしいな、一緒に船の中に逃げれたと思ってたのに……まさか……」

 よもや姉が土砂崩れに巻き込まれたのではと思った右源太は色を失い、家族が避難している集会所まで駆け出していった。





 麻仁は、閉じられた瞼の裏に感じる光で目を醒ました。


 半透明の壁や床に青い空が覆い、雲が高速で流れていく。視界の先には祭壇がある。

 ここに来るのは二度目だと記憶している。

 病院にいた時は夢の中で見たのか、実際にここに来たのかはわからないが。


 麻仁は視線を正面に向けた。

 祭壇の頂きに立つ巫女装束の女性がいる。

 夢の中では逆光でよく顔を窺い知ることはできなかったが、今はその表情まではっきりと分かる。

 凛々しくもありながら、可憐に咲き誇る花のような柔和な目鼻立ち。

 顎が細く瞳が大きいといった現代的な容姿ではないが、その澄んだ切れ長の瞳は吸い込まれるかのようで、その美しさに麻仁は息を呑んだ。

 だが、その驚嘆はすぐに別の驚きに変わる。

 巫女の女性が立つ祭壇、その下段には横たわる沙羅の姿があった。

 麻仁は慌てて沙羅のもとへ駆け出す。

「会長! だいじょうぶですか!」

 だが、呼び掛けにも沙羅の反応はなく、顔は蒼白としていた。


『よく来ましたね、貴船麻仁』

 巫女の女性が麻仁に語り掛けてきた。

 だが彼女の口は動いていない。それは声ではなく、直接に頭に届いたようだった。

「もしかして、あたしも会長も……死んじゃったんですか?」

『そなたがそう望むのであれば、そなたの望みのままに』

 まわりくどい回答ではあったが、どうやら自分たちは生きているという話を聞いて、麻仁は少し安堵する。


「あの……あなたはステーシーさんの言う外国の神様なんでしょうか?」

 女性は穏やかな笑みを浮かべた。

『私はいにしえより、葦原あしはらの中つ国を見守ってきた、わたつみの神タマヨリ……』

 それは麻仁の神社の由緒にある、<神の舟>で飛来した海神の名だ。

「えっ、ホントにタマヨリ姫様なんですかっ!」

 麻仁は歓声とも驚愕ともとれない声を上げた。

 しかし、少しの間を置いて、巫女の女性は言葉を続ける。

『……をこの地にお届けした、舟の巫女神、アメノトリフネです』


 船形石でやって来た海の姫神ではなく、その舟を操る神だと名乗った。

 先程の興奮を少しばかり消して、落胆の色を隠しきれなかった麻仁だったが、はっと我に返ると、両膝をついて床に頭をつけて平に伏した。

「すいません、大変なご無礼をいたしました……」

『そうですね。この災厄が迫ることを伝えたくて、そなたに必死に声を掛けていたのに、なかなか気づいて貰えなかったので、心配しました』

「声? ……もしかして、あの断片的な声って巫女神様が……?」

『やはり私はタマヨリ様よりは神威や信仰が低いのだと嘆き悲しんだものですよ』

 ほんのぼやき程度の軽口を叩いただけなのだろうが、まるで当て擦りや嫌味のようだったことはさして気にしていない様子のアメノトリフネだった。

「重ねて申し訳ございません……」

 だが、麻仁は身体の厚みが消えるかというほどに、上体を折って恐縮していた。

 神の託宣を鮮明に受けられる程には巫力が無い、ただの人間である自分が恥ずかしく思えた。


『仕方のないことです。私が使役する神獣に、そなたや街の様子を見張らせていたのですが、自然が減り現代的な建物が増えると、神獣の活動範囲も限定されてしまうのですから』

 麻仁はアメノトリフネの言う意味をすぐに察知し、わずかに視線を上げた。

「それって……あの黒猫の子ですか?」

 自社の奥宮の境内で出会ったかと思えば、生徒会の畑中や沙羅の近所をねぐらにしている。やはりあの黒猫が神の使いであったのかと、合点がいった。

 だが、アメノトリフネはすぐにそれを否定する。

『猿や雉、鹿や猪ですよ。猫は自由気ままで使役に向かず神獣にはしません』

「……そうですよね」

 麻仁は神の前で早合点した恥ずかしさで、視線を床に戻した。

 ひんやりとした磨かれた石畳が、火照った顔に気持ちいい。


 しかしこれは絶好の機会だと、その姿勢のまま麻仁は眼前の神に向かって奏上する。

「巫女神様にお願いがございます。あたしたちが起こしたこの災害の不始末ですが、雨雲を除いていただくことはできませんか?」

 神の舟の女神は、ほんの少しだけ首を下げて麻仁の姿を見た。

 だが、待てども返事が無かった麻仁は焦り、無礼のないよう言葉を重ねる。

「このままでは雨で集落が危険です。麓にある街にも被害が出るかもしれません」

 そこでようやくアメノトリフネは語り出した。

『今回の騒動は確かに異国の者の企てではあります。私もタマヨリ様が水清き旧都を鎮守しておられるお手伝いをしておりましたが、後からやってきた異国の者が張り巡らせた異教の力は強大でした。私もその邪悪な技を削ぐことに注力してきましたが、千二百年以上の間、幾度となく民に危害が及んだのは神として忸怩じくじたる思いであるのは、どうか理解して欲しい』


 麻仁はその先に続く言葉に、期待を込めた。

 さすが本物の神様はわかってらっしゃる、きっとお助けくださる、と。


『そなたは水の助けを借りて、人柱となる難を逃れました。ですが、八坂沙羅は異教の呪術に取り込まれた結果、雨雲を産み落としました。それはあの異教徒の鍵守りが語った通りです。彼女が目論んだような異教の災禍ではないようですが、それでも術の半分は解放されたようです。この雨雲からは逃れる術はありません』

「そんな……どうか神様のご慈悲を賜りたいです……この通りに」

 麻仁が懇願するも、祭壇のアメノトリフネは小さく首を振る。

 床に伏せており彼女とは視線を合わせていなかった麻仁だが、その雰囲気は背中に降り注ぐ神威からも、容易に理解できた。


 日本の神と異教の神。

 それらの神威と、術の力比べ。

 だが信仰が薄らぎ人々が祈りを忘れた日本に比べ、支族や祖国を想う一念と、故郷を失った世界への復讐から強力な術を張り続けた異教徒との差は歴然であった。

 ここ日本に残る古代神道の流れを汲む祈りは、傀儡でしかない。

 神話の世界の神々は、徐々に力を失い人間と同化したように、もはや日本の神にはこの大地を守護するには手に余る状況であった。


『そなたの気持ちは充分に理解しております。ですが、この大水に関しては自然の為すがままに、今は下界に降りて家族や友と共に苦難に立ち向かうべきであると、私は思います』

「ですが、あたしがまた集落に戻って何が出来ますかっ? もっと下流の街が洪水になる様子を見届けろとおっしゃるのですかっ! 生徒会長は助けていただいたのですから、同じように下界の民もお救いくださいっ!」

 床に額がぶつかるかと思うほどの速度で、麻仁はふたたび上体を折り畳む。

 だが、間髪入れずにアメノトリフネは淡々と続けた。

『この八坂沙羅は肉体のみです。魂を捕らえることは未だできません』


 それを聞いた麻仁は恐る恐る顔を上げると、祭壇の上に立つ彼女を見た。

 瞳を揺らしながらも、その先に立つ神の言葉や表情を知らずにはいられなかった。

『異教の血を引く八坂沙羅の母系の一族は、本来は人柱を選別する鍵の役割だったようです。ですが、今回は彼女自身がその人柱となってしまった。魂を異教に捧げ、術を放つのがこの娘の定められた運命だったのです』

「それじゃ、会長はもう……?」


 その宣告は、甘んじて受け入れるにはあまりにも非情なものであった。

 神社の娘として神々と接してきたつもりではあったが、絶対的な託宣を前にして、麻仁は言葉を失くした。

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