災厄の時、迫る 第3話
神社を中心とした小さな山間部の町に警報が鳴り響く中。
貴船家では、靴も揃えず脱ぎ捨てられた玄関から、パタパタと元気の良い足音が響いた。
他に忘れ物はないだろうかと一旦、自宅に戻ってきた右源太はせわしなく家じゅうの部屋を出入りする。
野球グローブやポータブルゲームを持っていくか一瞬躊躇したが、まずは父に頼まれた物だけを玄関先に集めたので、倉庫や集会所から戻って来る余裕があれば来ようと室内を改めて見回していた。
するとインターホンが鳴った。
この忙しい時にいったい誰かと渋る右源太。
もしかしたら父を探して訪問した近所や町内会の人かもしれないため、応対しないわけにはいかず、玄関に向かう。
「はーい」
自分で放り脱いだ左右の靴を慌てて拾い、とんとんと爪先まで足を入れながら戸を開ける。
玄関の先には、以前も会った良く知る女性が立っていた。
なんで今こんな大変な時に、姉に用事だろうか――怪訝そうに目を合わせる右源太に、相手はにっこりと笑顔を向けた。
その頃、父と廣矢は神社の付近を回りながら一軒ずつ声を掛けてまわっていた。
「こちらはあらかた、だいじょうぶそうだね」
周囲にある民家を直接確認できた父は、今度は雨に負けまいと大声で問い掛ける。
「廣矢さーん! そっちはどうだい?」
少し離れた家の軒先から腕を頭上に掲げ、大きな丸を作っている廣矢の姿を確認した。神社の近所は住人の避難が無事に済んだようであった。
町内会の青年団は足腰の悪い老人を背負って、少し山を下った先の開けた広場にある集会所へ向かっていた。元々はこの集落で使われていた廃校だ。
母と麻仁、藤谷が備蓄庫から見繕った食料や防災用具は、左源太や町内会の残った男手の面々で運び出されると、集会所には避難に充分な当座のしのぎが出来た。
境内にも参拝客や関係者が既にいないことを確認した父は、本宮の山門を閉める。
「さあ、みんな。我々も逃げよう」
母と左源太は荷物をまとめて先に集会所へ向かった。
廣矢と藤谷も山道を下っていった。
父は右源太が集めたものを防災リュックに仕舞い、玄関で待っている。
だが麻仁が屋内をいくら探しても、肝心の右源太の姿は見当たらない。
「うげんたぁー! 早く逃げるわよ!」
娘の呼び掛けにも姿を見せない息子に、父はレインコート越しに頭を掻く。
「しょうがないな。あとは倉庫か奥宮だけだな。僕が探しに行くからマニは先に集会所へ行って右源太がいるか見て来なさい」
しかし麻仁は父の声に反応することなく、ある音に集中して微動だにしなくなった。
ここ一週間は聞こえていなかった、水たちの声がする。
山道の遥か先、奥宮に来いと呼んでいるようだった。
「お父さん、あたしが奥宮を見てくるよ。そのあとすぐ集会所に行くから」
言うが早いか、麻仁はさっと白いビニールのレインコートを着込んだ。
「ダメだ。危ないから僕が行く。お前は早く集会所へ行きなさい」
「お願い、お父さん」
弟がこの状況で、自分の判断で危ない場所に行くはずがない。
もちろん右源太も心配ではあるが、水たちの呼びかけが気になる。何か起きたという確信があるわけではないが、彼らの声に従い、奥宮に向かって自身の目で確かめたかった。
父はその後に続く言葉も無く麻仁の顔を見ていた。
長い時間を共にした親子同士、何故そこまでという娘の想いは理解できずにいたが、彼女の覚悟は充分にわかった。
若くて体力はあるので脚は娘の方が早い。危険ではあるが、ここで議論している時間も惜しい状況なのは重々承知していた。
「……わかった。そのかわり右源太がいなければ、すぐ戻るんだ」
麻仁は奥宮へ続く山道を急ぎ歩を進めた。横殴りの雨が叩きつけ、レインコートのフードを付けていても前髪や顎先から雨水が滴る。
奥宮の山門をくぐって境内に入るなり、弟の姿を必死に探した。
「うげんたーっ! どこ行ったのよ!」
駆け回るたびに、境内に出来た水たまりに踏み入れた靴が激しく飛沫を散らせる。
山門から真正面に見える、拝殿とその左手に鎮座する船形石。
そこにひとつの人影。
だが、その姿は小学生の弟とは全く違う。
なぜ今この人がこんな危険なところにいるのか理解できず、麻仁は一瞬だけ足を止めた。
それでも避難をさせなければ、と反射的に大声を上げた。
「危ないですから! はやく……」
麻仁の声を受けて、傘も雨具もなく学校と同じ黒のスーツを濡らした人物が振り向いた。
「待ってたわよ。<水の巫女>、いえ……偉大なる<グランマザー>のシャーマンの片割れと呼ぶべきかしら?」
ステーシーは雨の中、表情も変えずに淡々と語りかけてきた。
激しく降る雨と川を下る濁流の轟音。吸いきれない雨水は、山肌のあちこちから噴き出す。
この奥宮も危険であるのには変わりなく、麻仁はふたたび声を張る。
「ステーシー先生、はやく避難しましょう! ここは危ないですから!」
それでもステーシーは一向に動じることなく、さらに話し続けた。
「どこへ? かえって街の方が危ないわ。これから大水が街を襲うというのに」
麻仁にはステーシーの発言の意味が理解できず動きを止める。
「大水?」
「マニ、ワタシがあげた首飾りは大切に着けてくれてるのね。嬉しいわ」
レインコートの下では、知らずのうちに赤い石が自ずと輝きを放ち出す。
胸元からほのかに石の温もりが伝わって来るのを感じた麻仁も、驚いて紐を手繰り寄せると石を握る。
「まずはワタシの大事な話をしてあげるわ。大昔のことよ」
唐突に彼女の大切な思い出話が始まる、という様子でもない。今は身の安全を確保し、一緒に避難を促すべきであるのだが、麻仁はその話を聞かずにはいられなかった。
しかし、レインコートに雨の打ちつける乾いた音が邪魔で良く聞こえない。麻仁はフードをはずし相手の声に耳を傾けると、途端に大量の雨で髪が濡れる。
ステーシーはたっぷり雨を吸った髪を掻き上げた。癖毛のせいか麻仁のようにぺったりと張り付くこともなく、波打った毛先から雨粒を滴らせる。
「今から二千七百年くらい前のことよ。ワタシたちのご先祖様が治める国が攻め込まれ、みんな捕虜となるか逃げてバラバラになったわ。いつの日か祖国に還るという夢を見ながら、各地を転々として流浪の果てに死んだ者だけでなく、周辺の住民に取り込まれたり、庇護を受けたりしながらも、しぶとく生き延びた同胞もいたわ」
ステーシーいわく、彼女の一族を含む祖先は遥か昔<神の落とし子ら>と呼ばれる始祖を中心に、支族どうしで国家を運営しており、その国は栄華を極めていた。
彼らは神から賜った人智を超越した能力や、不思議な神器を用いることができた。
だが、それに目を付けた数多の国から幾度となく狙われてしまう。
その度に、各地の神話に残るような奇跡を起こして敵を蹴散らしてきたものの多勢に無勢、国家はやがて崩壊して民は虜囚となり、逃げのびた者たちは世界に散らばりながら、帰還の時期を窺っていた。落ち延びた先の各地に、国を再興させるための証たる神器を、神から賜った能力を遺して時を待った。
しかし長く時間が経ち過ぎた。
一部の能力者は純血が途絶えその力を失い、または異端者であると処刑をされてしまった。奇跡を起こす神器も同様に破壊されたり、大切に封印したものの伝承が次第に曖昧となり、行方を追うのが難しくなっていった物もあった。
「ワタシや仲間の祖先はヨーロッパに辿り着いたけど、一部の支族は早くに洋外へ出たようね。東方の小さな島国に向かい、そこで渡来系の移民として定着していったようだわ」
島国のほぼ中心で南北が湾に囲まれ、東に広大な湖、西に山々が連なる要害となる盆地。
そこに先祖が追われた黄金郷を再興しようとした。
「ある者たちは時の王朝の中枢に入り、以前と同じような政治手法を取り入れたわ。またある者たちは文化や風習を、お祭りや民間信仰に残していったわ。祖国に伝わる伝承や神話こそが世界唯一で崇高なものであるとね」
日本各地に伝わる渡来系民族の話。
宗教は形を変え、日本の風土や、日本人の性格に適合した形に変化をしていった。
加えて、再び黄金郷をここに、という世界中に散った同胞へのヒントとしたわずかな記録は、都市伝説のたぐいとして語られていく。
「サラのおうちとマニのおうちだけじゃないわ。この街の宗教や政治そのものをワタシたちが作ったとも言えるわ。もちろん、日本人が独自に改良したり、大陸から伝わったものも多くあるけどね。その裏で糸を引いていたのは<神の落とし子ら>であるワタシたちの始祖の血族だったのよ」
ステーシーはポケットから交互に編み込まれた紐を取り出した。
それは沙羅が持っていた首飾りのものだった。
雨を吸った紐は主人を失って力無くだらりと垂れ下がる。
「サラの遠い先祖にあたる一族、そしてワタシの支族……ふたりの巫女に託す宝玉を大切に残したわ。『その時』が来たら巫女を用意して、神々に祈るのよ。そうすることで、ワタシたちの先祖が作ったこの街をバージョンアップさせてきたわ」
「バージョンアップ?」
「街の人達の古くて凝り固まった価値観に、少しだけ刺激を与えることね。地球に暮らす人類が次のステップへ行くための大きな変革を起こすのよ。他の国だって戦争や内紛やクーデターだってあるでしょ?」
「それじゃ、この街のみんなが……あたしたちが信じていた龍神様って……」
「そうね、あなたたちはドラゴンって呼んでいる存在ね。だからドラゴンを怒らせたらマズいぞって噂や信仰というカタチで残っていったのかもしれないわね」
麻仁は次第に全身を震わせていく。
すべてが虚構であり、自身が信奉してきたものも、日本人の手によって作られたものでは無いのだろうか。
これまで旧都が経験してきた疫病も飢饉も戦乱も。
そして未曽有の自然災害も――。
麻仁が学校で習った歴史も自宅の神社も、全てが夢か幻のような錯覚をおぼえた。
そんな彼女の様子を察したステーシーは笑顔を向けた。
「無知であることは罪じゃないの。マニもパパも神様の教えを伝えるために一生懸命に祈るのは無駄じゃないわ。それでも、衆愚はなかなか言うことを聞かないでしょ? ワタシたちが作った価値観を勝手に変えていったり、目指した方向とは違う風に進むことなんていつもだわ。だから定期的に『お勉強』が必要なのよ。世界を裏で操る真の統治者の考えに従って国を進めるためにね」
ステーシーの笑顔は柔らかく優しいが、どこか冷たい。
それは沙羅が自社の舞殿で姿を消したその時の表情によく似ていた。
慈しみを湛えた聖母のようでもあり、愚鈍な畜生を愛でる飼い主のようでもある。
「マニが小さい頃は未知のウィルスが流行したわよね? 大きな地震だって日本中で何度でも起きたわ。そして今回は日本人の精神的な故郷でもある、この旧都を洪水で浄化することにしたの。愚かな民は流され、生き残って悲嘆に暮れる民衆は<方舟>による救済を経て、新たな次元の価値観を得たら、次世代に向けてさらなる高みへと進む予定なのよ」
「……どうして、そんなことをするんですか!」
麻仁は必死に声を振り絞った。
こんなに雨粒が滴るのに、口の中は乾いて舌が貼りついたかというほどに緊張していた。
「どうしてって、理由なんかないわ。必要なことなのよ、ごめんなさいね」
ステーシーはひょいと肩をすくめ眉を上げて、あまり悪びれず謝罪をする。
今までも二人はこんな軽いやり取りをした仲だった。
だがその雰囲気は一変している。
「ここ日本は自然災害が多いせいかしらね、それともワタシの祖先が『お勉強』させ過ぎたせいかしら? 日本人は本当にたくましいわ。そして毅然としているし心も強いのよ。なにか困難に直面すると、団結して乗り越える。そういう意味じゃ個人主義的な欧米人よりも賢くて理知的と言えるけど、ワタシたち一族には素直に支配されない態度が理解できないし、逆にやりにくいわ。それならば少しだけ徹底的に破壊するしかないじゃない」
麻仁は相手を威嚇するでもなく、自身を鼓舞するように全身に力を込めて声を張り上げる。
「そんなのダメですっ! やめてくださいっ!」
「別に何も旧都のみんなが死んじゃうわけじゃないわ。次のステップへ進むための『おりこうさん』だけが残るから安心なさい」
しばらくは若き友人に対し微笑を浮かべていたステーシーだったが、少しの間をおいてから一切の表情を捨て、水平に挙げた腕をまっすぐ伸ばすと、麻仁の胸元の石を指差す。
「ドラゴンの封印の残りを解放しなさい。まだ不完全だわ」
ステーシーの視線を浴びると麻仁は一瞬、身を震わせた。
それでも小刻みに震える両手をしっかりと組み、相手に問う。
「あたしはそんなことできません。なんで……」
「あなたが望むか望まないかは関係ないわ。為した偉業は後から伝説になるの。歴史上に名を残す人たちも、その時はただそのままに在っただけよ」
ステーシーは麻仁自身の感情なんて、些末なことであると諭すように優しく答えた。
「マニ、もうわかるわね。言うなれば、あなたはこちら側の人間なのよ? 一生懸命、神社でお勤めして、神様の教えを真剣に伝えても必死に祈っても、信仰もしないで好き勝手してる人がいることにマニはなんとも思わない?」
麻仁は必死に首を振る。
「神様だってダメなことはダメって怒るから荒御魂があるわけでしょ? 街のドラゴンだってそう。サラのおうちの蘇民将来もそうよね。畏怖するから祈るわけよ。言い換えれば怖い目に遭わないと、愚かな人間の気持ちなんて変わらないってことよ」
また麻仁は首を振る。
相手の声に飲まれまいとするが、否応なく膝も唇も震えてしまう。
胸元で組んだ指先は体温が奪われているかのように、感覚が無くなっていく。
「さあ、マニ。街のみんなに本物の荒御魂を見せてあげましょう。いずれにしても、このままドラゴンの封印が中途半端に雨が続けば、やっぱりこの街は水に沈むのよ? それをマニは黙って見殺しにし続けるわけ?」
ステーシーは麻仁に向けて右手を差し出した。
麻仁は蒼白な顔色のまま困惑の表情を浮かべる。
駄々っ子のように小さく首を左右に振り続け、ただ相手を見据えていた。
その様子を見ていたステーシーは、肩を大きく下げて息を吐いた。
「仕方ないわね。こういう無粋なまねはしたくなかったんだけど、保険って大事ね」
そう言い終わるや彼女が巨大な幹の樹木の裏に回り、担いで持ってきたもの。
それは手足を縛られて口をタオルで塞がれた右源太だった。
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