災厄の時、迫る 第2話

 昼夜を違わず家の外では鬱陶しい程に雨が続いている。


 麻仁が寝つけずにいるのは、屋外で延々と続く雨音のせいでもあるし、沙羅がその姿を消した瞬間の衝撃が頭を離れず、悶々と思考が流れ続けるせいでもあった。

 それ故か、ここ数日はすんなり眠れなかった。


 電気の消えた室内では、麻仁は時刻を確認しようと普段の癖でベッド脇に置かれたスマートフォンを眺めたものの、またしてもそれが役立たないことを思い出して嘆息した。


 詳細はよく憶えていないものの、三本足の鳥居の神社で、大量の水に飲まれてから

故障してしまったようだ。

 生徒会やオカ研のメンバーもそうだし、肝心のステーシーとの連絡方法も断たれてしまっていた。

 しかし、麓の街に繰り出して修理や交換をする気力にもなれない。

「いったい、どうしたらいいんだろ、あたし……」



 沙羅が龍神を復活させたとしたら、自分がそれを封印することができる。

 それこそが<鳥の巫女>と<水の巫女>。対になった二人の巫女の役目であるはずだとステーシーから聞いたはずだったのに、自分は何故か失敗してしまったようだ。

 逆に龍の逆鱗に触れたのか、水に襲われてこの身も危なかった。

 ならば、自分に為す術などあるのだろうか。

 そして、本当に自分は選ばれた巫女だと言うのか。

 ただ、沙羅が自らの肉体を失った瞬間を目の当たりにしたことで、ステーシーから聞いた伝承や、その伝説のシャーマンは本当に民を救う存在となれるのか。

 果たして、自分達はこの豪雨を降らせて街に破壊と絶望をもたらし、畏怖によってその存在を顕現化させる龍の荒御魂の遣いだったのではないか――。


 大洪水が街を洗い流すがごとく、麻仁自身の日々の勤め、彼女の巫女としての本懐や価値観の全てが覆されたようであり、ひどく混乱していた。


 深い溜息とも深呼吸ともつかない重い気吹を繰り返し、枕を耳に押し当てて布団を頭まで被る。

 必死に眠ろうとして目を閉じたまま寝返りを繰り返し、時計を見なければ体感的にはさらに小一時間は経ってしまったかもしれないという状態だった。

 決まって丑三つ時を過ぎた頃に、ようやく疲れから微睡んでくる。



 だが、その晩は夢か現か、想像と現実の世界が頭の中をぐるぐる回り出した。

 無声映画のワンシーンのような音のない世界。

 漆黒に埋もれる部屋の小さな窓から溢れる、逆光の淡く輝いた景色の中に立つ人影。

 沙羅だ。

 泣いている。

 捕まっているらしい。

 何者かの影が忍び寄る。

 突如、鋭利な刃物が沙羅の腹部に突き立てられる。

 口から鮮血をほとばしらせながら、声にならない声でこちらに語り掛ける。

『た・す・け・て』

 やがて沙羅の瞳は輝きを失い、その場に力無く崩れ落ちた。



 その瞬間、麻仁ははっと目を醒ました。

 室内はおろかカーテンの向こう側もまだ暗然としている。時計を見ると日の出にはまだまだ遠い、真夜中だ。

 ひどく寝汗をかいた顔を手で押さえると、自己嫌悪に陥った。

「よりによって会長のこんな夢をみるなんて……」

 改めて布団に頭まで潜ったが、もはや気持ちが落ち着かずにすんなりと眠れる状態に無かった。

 麻仁は寝室を出て、家族を起こさぬよう静かに戸を閉める。

 同じ二階には双子の部屋もあるが、寝静まっているようだった。階段を降りて台所に向かい、部屋の照明も点けずに冷蔵庫を開ける。暗闇を照らす庫内灯が一瞬、室内に広がると飲料水を取りコップに注いで一気に飲み干した。


 大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせていた時だった。

『……聞こえますか』

 頭に響く声がする。これまで何度か直接届いていた声だ。

 再び襲う強烈な痛み。脳内が攪拌されているようで平衡感覚を失い眩暈をおぼえる。

 膝から力が抜けていき、流し台のシンクに掴まりながら床にへたり込む。

 こんな状況でもコップを割るまいと振り絞った力で、かろうじて静かに置いた。

『巫女よ……ふたたび街を……そなたの命……』

 麻仁はそのまま床に倒れ込み、額に汗を浮かべたまま息を荒げて頭を押さえていたが、やがて意識は遠のいていく。


「ねえちゃん!」

 弟の声で我に返ると、麻仁は台所の天井を仰ぎ見るように床に倒れていた。

 双子と両親が心配そうに見守っている。

「ねえちゃん、たいじょうぶかよ?」

「マニ、体調が悪いのか?」

 立ち上がろうとする麻仁を、双子が揃って背中を支えた。

「あまり無理をするんじゃない。もう一度、病院に行って検査をしようか?」

「ううん、だいじょうぶだよ。ごめんなさい」

 ゆっくりと立ち上がる姉の様子を心配そうに見守る双子。

 家族に見届けられ、改めて自室のベッドに入った。




 台所で倒れてしまった、あくる日のこと。

 麻仁は変わらず奥宮で祈っていた。

 その間も拝殿から本殿へと続く屋根や柱に雨が打ちつける音が延々と続く。

 普段は清らかな水が集まる山からの渓谷には、水かさを増した濁流が轟音を立てて流れ落ち、たっぷりと雨を吸って湿った山肌は、大きく膨れ上がっていた。


「ねえちゃん」

 奥宮の山門から麻仁に向かって声を掛けたのは左源太だった。

 彼は普段の無邪気な小学生とは思えない神妙な面持ちでやってきた。

「ねえちゃんさぁ、昨日の夜はだいじょうぶなの?」

「うん、心配しなくても平気よ」

 空元気とは到底言えない力無い姉の言葉に、姉弟はしばし無言になった。枝葉から滴り落ちて左源太の傘に当たる不規則な雨粒の音だけが、互いの耳に異様に残る。

「おれ、ゆうべトイレに行った後だったからすぐ気づいたんだよ。なんか音がしたから起きてさ。そしたらねえちゃんが台所で倒れてて。びっくりして、父ちゃんたちを起こしたよ」

「そうなの……ありがとね」

「それから、右源太を起こしにいったんだよ。あいつ寝ぼけててなかなか起きなくてさ。そしたらさ、窓を見たら奥宮の方が光ってるんだよ。外灯なんかじゃなくて、山のあたりが全部ぼんやりと光ってたんだよ!」


 麻仁が頭に響く声が届いていた瞬間、奥宮が光っていたという。それは以前、本殿から光が放たれる瞬間を目撃した状況と酷似していた。

 当時の様子を興奮気味に述懐していた左源太の声は、次第に力を失っていく。

「だけど、夜だからひとりで見に行くの怖いし、ねえちゃんが起きたあとはもう奥宮の方は真っ暗になっててさ。それでそのまま部屋に戻って寝たんだけど夢みたんだよ、ねえちゃんの夢……」

 その夢の話をする段になり、さらに声を抑えてぐっと顔をうつむける。

「変な金ピカに光ってる舟だか飛行機だかに乗って、ねえちゃんがどっか行っちゃうんだよ。全然うれしそうじゃない顔してさ……父ちゃんも母ちゃんも泣いてて。そのまま消えちゃって、遠くに行っちゃって、もうずっと会えないのかと思ったんだよ」


 そこまで言うと左源太は堪えきれず、傘を離して姉に抱きついてきた。

「だからもう、ねえちゃんにはどこにも行かないで欲しいんだよ。外国の先生とどっか行ったり、よそでケガしたり台所で倒れたり、奥宮で声が聞こえるとか光ってるとか……そんなの全部無視して、おれたちのそばにずっといてくれよ……」

 初めて見たかもしれない、まだまだ幼い子供らしい弟の振る舞いに麻仁は瞳を揺らす。

 自分が巫女である以上は、他人の多幸を祈るのが奉職であると考えていた。例え小さな神社であっても、家族で運営するからにはそれが全てだと。


 だが、すぐそばにいる弟の気持ちも顧みず、彼の不安すら拭えない情けない姉であって何が巫女であるか。

 父が折に触れ、自身の相談に向き合ってくれたのに対し、姉だからと頭ごなしに指示を出して、彼らの悪いところばかりを見ていた自身を恥じた。

 先日入院していた時も、彼は家族として素直に自分を心配してくれていたのに。

「ごめんね、左源太。だいじょうぶよ……もう、どこにも行かないから」

 麻仁はぎゅっとしがみつく弟の頭をそっと包み、優しく囁いた。

 左源太の放り出した傘の姿は地面の水たまりに反射したが、しつこく降り続く雨粒がその鏡の世界を歪ませ、混沌とした模様を描いていた。




 それとはさほど日を置かずにいた、とある市内。

 あるマンションの一室。

 シャワーを終えたステーシーは、タオルで髪の毛を乾かしながら冷蔵庫に向かい、冷えた缶ビールを取り出した。

 歩きながら一口飲み、机に向かって腰掛ける。


 彼女のスマートフォンには、メッセージが入っていた。

 ステーシーはその相手に電話を折り返す。

「もしもし? ワタシだけど」

 だが、電話の相手は激しく怒っているようだ。

 ステーシーは何度か制止しようと思ったが電話先の人物は、のべつまくなしに怒鳴り散らす。

 呆れた彼女は、スマートフォンを遠ざけて耳を塞いだ。

 ようやく相手の声が途切れたところで、ステーシーは会話を再開した。


「わかってるわよ。<方舟>の準備が整ったのに、ドラゴンが目醒めてないってことでしょ。ワタシも想定外だったわ。水の巫女が失敗したようね。調べたところ無事に救出されて退院したって聞いたわ。あの状況をどうやって生き延びたのか、ワタシが聞きたいくらいよ」

 今度は相手の話を聞きながらステーシーは缶ビールをあおる。

「鳥の巫女が持っていた宝玉のひとつは割れてしまったのよ。そんなことって今まである? それで術が上手く発動するかはわからないわ。他の方法も……はいはい。まず目指すのは大洪水と<方舟>の再来よね。とりあえず新しい捧げものを探すのも大変だし、水の巫女を探すわ。彼女の居場所はわかるし……えぇ、ぜんぶ言われなくても理解してるわよ」

 相手の通話が切れると、腐った顔でスマートフォンを乱暴に机に置いた。

「まったく、マニがこんな動きをするとは意外だったわ」


 鳥の巫女は上手くいった。

 勝気だが内心は臆病で弱い娘だったので、そこを利用して動かすことが出来た。

 しかし、水の巫女は生きている。

 素直で大人しい朴訥なだけの娘なので、容易にたぶらかすことが出来たはずなのに、なぜあの場を逃げおおせたのか。

 完全なるドラゴンの力が無ければ、二人の『人柱』が無ければ、大洪水も<方舟>の効果も薄らいでしまう。

 水の巫女の力を確実にドラゴンに捧げる方法を模索せねばならない。


「仕方ないわね。マニ、今度お見舞いにいくわ……最期のご挨拶にね」

 真っ暗な室内で、卓上灯に照らされて切り取られたように明るく浮かぶ机に向かったまま、思案を続けるステーシーであった。



 旧都は相変わらず降り続く雨の日々だった。

 田畑は排水が間に合わず、作物はすっかりと水に沈んでいる。

 麓の市街地では、幾度となく襲うゲリラ豪雨によって道路が冠水して、交通機関が麻痺する日が多発した。

 観光客の姿も通りを行き交う人影もまばらとなり、この旧都全体が漆黒の雷雲に飲まれたように陰惨としていた。


 街の皆は会えば口々に不安を語り合う。

 ところが雨足は人々の外出を億劫にさせ、神仏への祈りを減らしていた。

 ニュースはここ数日の天候の話題でもちきりとなり、天気予報では土砂災害警戒情報や大雨の警報が次々に流れた。


 それは麓の街からは遠く山深い麻仁の自宅付近も同様であった。

 市街地を流れる川は、普段の穏やかな清流とは一変して土色の味気ない大河と化していた。

 その上流にある麻仁の神社の門前町を流れる渓流は水の勢いを増し、大小の岩々が為すすべなく急流にその身を預けて下っていく。

 本宮の境内にある石段は連なる小さな滝のようだ。

 今朝も奥宮で祈りをしていた麻仁は、傘を差して本宮へ戻る山道を降りていく。いつもの夏なら観光客で賑わうはずの近所の料亭の川座敷は、すべて畳まれており閑散としていた。


 参拝客の姿もない境内を見ながら、授与所の窓口で所在なさげに椅子に座ったままの巫女の藤谷は、神職の廣矢に向けてぼやく。

「こういう時、ホントに嫌な気持ちになりますよね。水の神様なのに雨もどうにもできないのか、ちゃんとお祈りしてるのかってむちゃくちゃなクレーム来そうで。人間って身勝手なもんですよね」

 世間は夏休みだと言うのに境内に人の姿は無く、門前町も静まり返り、祈祷の予約もキャンセルになってしまった。

「それに、マニちゃん最近元気ないけど、だいじょうぶですかね? 学校のお友達が行方不明だってことを思い詰めてないといいんですけど……」

 腕を組んだまま雨粒を見続けていた廣矢も同調してうなずいた時だった。


 降り続く雨音を破るかのように山間にサイレンが鳴り響いた。

 山滑りや鉄砲水の危険性が高まった警報だ。

 麻仁の父は午前中から町内会や消防団の緊急会合に参加し、有事の際には周辺の家屋に避難を呼び掛けることとなっていた。

 それが思いのほか、突然にやって来たことに人々はにわかに焦りを感じた。

 奥宮に居た麻仁もその音を聞き、すぐに社務所へと駆け出した。


 すでに父は全身をレインコートに包み、外出の準備をしている。

「マニ、悪いけど母さんと一緒に、備蓄庫の食糧を出来るだけ集めておいてくれ。集会所に避難している皆に配らないと」


 麻仁はすぐに藤谷と共に母の待つ倉庫に向かった。倉庫には氏子や崇敬者が奉納した乾物を一定の期間保管してあるほか、神社や町内会で購入した物品が備蓄されている。

 父は廣矢と共に、町内の男衆と門前にある商店や民家を回り、高齢の住民が逃げ遅れていないか探し歩いた。

 その間も、けたたましく警報のサイレンは鳴り続けていく。

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