11.クリスさんは決意したようです。

 遅い、とスヴィは息を吐いた。

 まさか、また道に迷ってしまっているのだろうか。家の住所を教えておくべきだったと思いながら、スヴィはクリストフを待った。

 日が暮れるのが早くなっているので、大丈夫だろうかとドキドキしてしまう。

 帝都はランディスの街に比べて治安が悪いのだ。夜に一人歩きするのは、男性でも推奨できない。


「ごめん、遅くなった」


 心配していると、ようやくクリストフが戻ってくる。安堵したスヴィは、もうどこかに行かないようにとすぐにその手を繋いだ。


「どこに行ってたんですか?」

「後でちゃんと言うよ」

「あの、もう暗くなってきちゃうので、帰るのは明日にしますよね?」

「そうだね」

「じゃあ……う、うちに泊まって行ってください……っ」


 下心丸出しでそう伝えると、クリストフは真剣な顔で頷いた。


「ちゃんと話したいことがあるんだ。スヴィの家に行かせてもらうよ」


 嬉しいのに、なぜか喜べなかった。

 かわりにスヴィは、繋いだ手をギュッと強く握る。するとクリストフに、強く握り返されていた。


 スヴィは自分の家にクリストフを連れてきた。そして夕食を作ると、二人で食べて片付けた。

 まだ〝話したいこと〟とやらは切り出されていない。スヴィも聞きづらくて言えないまま。

 時間は過ぎて、夜はだんだんと更けてくる。ランプの灯だけでは部屋の全てを照らしきれず、魅惑の闇がスヴィたちを誘っている。

 スヴィは今しかないと、クリスに声をかけた。


「あの……クリスさん。うちは狭いから、ベッドがひとつしかなくてですね……!」

「その話は置いといて」

「ちょ、大事なことですよーっ」

「わかってるけど、僕の大事な話の方を先に聞いてもらいたい」

「……はい」


 スヴィの思惑はするりと躱され、二人はテーブルを挟むと向かい合って座った。甘い顔立ちのクリストフは、これ以上ない真剣な顔をしている。


「さっき僕は、無理を言って劇団エルモライの座長に会わせてもらってた」

「そう……ですか。なんのために?」

「僕をこの劇団に入れて欲しいと、頼み込んだんだ」

「……え?」


 スヴィの唇は、変な形の笑みに変わる。なにを言っているのかと笑い出しそうになり、しかしその真剣な顔を見ては笑うこともできない。


「た、タントールは……」

「辞めるよ。エルモライに採用してもらえればね」


 頭がぐらつく。息がうまくできない。

 クリストフは真っ直ぐにスヴィを見つめていて、その顔を見るだけで胸が詰まってしまう。


「明後日から、また太陽組の公演が始まる。そのときに座長が観に来てくれる約束をしてくれた。エルモライに採用されるかどうかは、僕の演技を見た後で下されることになる」

「採用、されたら……」

「次の太陽組の公演は最後までやるよ。そして辞めて、エルモライの劇団に入って、世界中をまわることになる。僕の、諦めきれない夢だったんだ。こんなチャンス、もう二度とない」


 クリストフにそんな夢があったなんて知らなかった。

 実家の仕事をしながら、セミプロとしてタントールで役者をしているだけで、十分満足しているものだと思い込んでいた。

 彼の演劇に賭ける情熱を知っていたなら、気づけたはずだったのに。


「じゃあもし、クリスさんが採用されなかった時は……」

「エルモライに入ることはキッパリ諦める。諦めて、今まで通り働きながらタントールで役者をして……」


 そこで一度クリストフは言葉を切ると、スヴィの目を射抜くように彼は言った。


「スヴィに結婚を前提とした付き合いを申し込みたいと思ってる」


 ビュンッと矢が顔の真横を通過して行くような感覚に、どくんと心臓が跳ね上がる。

 嬉しい。そうなってほしい。けれどもスヴィと結婚するということは、クリストフの夢が叶わないということ。

 逆にクリストフの夢が叶えば、彼はこの国を出て行き、もうスヴィとの接点はなくなってしまうのだろう。

 スヴィは前にクリスが言っていたことを、ようやく理解できた。


「……結婚を選ぶと諦めなきゃいけないことって……そういうことだったんですね……」

「ああ。実をいうと、もうほとんどエルモライに入ることは諦めかけてたんだ。僕の年が年だったし、入団するチャンスなんてまずない。諦めて、スヴィと一緒になることも、真剣に考えてた」


 けれど、クリストフにはそのチャンスが巡ってきた。夢に挑戦できる、最初で最後のチャンスが。

 頑張って、と言いたいのに声が出てこない。頑張って欲しいのに。夢を叶えて、エルモライの一員として輝くクリストフを応援したいのに。

 その夢に自分は不必要なのだと言われた気がして、喉が詰まったように声が出せなかった。


「エルモライに採用になるかどうかはわからない。劇団が欲しているのは、十代の将来有望な若い役者だろうし、僕はその時点でかなり不利だ。だから、ちゃんと決まってからスヴィに言うべきかとも思ったんだけど……」


 クリストフはその手を伸ばして、スヴィの手に触れた。

 テーブルの上で、二人の両手は優しく交わっている。


「僕の気持ちを、知っておいてほしかった」


 クリストフの想いに、スヴィはこくんと頷く。


「伝えてくれておいて、よかったです……私も、覚悟が、できます……っ」

「……ありがとう、スヴィ」


 まだ採用が決まったわけじゃない。

 けどクリストフのあの演技をみれば、きっとエルモライの座長は引き抜いてでも欲しいと思うだろう。

 確率は半々どころじゃない。九割以上、決まったようなものだとスヴィはわかっていた。

 涙が溢れそうになって、ぐっとそれを飲み込む。


「……まだ決まったわけじゃないよ、スヴィ」

「で、ですよねー……」


 エルモライなんて忘れて私と……などとは口が裂けても言えない。

 けれども、気持ちを胸に仕舞うと苦しくて息ができない。


「スヴィ……」


 心配そうなクリストフの声。

 採用が決まれば、もう二度とこんな時間は紡げなくなるのだと思うと、スヴィは懇願するように声を上げた。


「今日、泊まっていってください……っ」

「……うん」

「ベッドは、ひとつしかないですっ」

「スヴィが使うといい。僕は椅子でも構わないから」

「一緒に、寝たいです!」

「スヴィ、それは……」


 クリストフが困ったように、形の良い眉を下げている。

 この国を出ることになるかもしれないのに、安易に女性に手を出したりしないだろう。クリストフはそんな人ではないということは、スヴィが一番よくわかっている。


「なにもしなくていいんです……ただ、クリスさんの隣で眠りたいだけなんですー……っ」


 ヒーンと喉から情けない声が出てきて、我慢していた涙が溢れてくる。

 最後の思い出に、どうか、隣に眠るだけでも。


「わかったよ、スヴィ。僕もスヴィの隣で眠りたい」


 そういうとクリスは立ち上がり、涙を手の甲で拭ってくれる。

 スヴィはクリストフを寝室に案内すると、二人でゆっくりと羽毛布団の中に潜った。

 クリストフの体が目の前にある。彼の息づかいを、間近で感じる。

 温かくて、愛おしくて。なのに、もう二度とこんな日はないかもしれなくて。

 止まったはずの涙が、また溢れる。


「エルモライに入団したら……私なんか忘れてしまいますよね……」

「……忘れないよ、絶対に」

「夢が叶えば、なにも気にすることなく誰とでも自由に付き合えるじゃないですかぁ……」

「入団後、十年間は恋愛も結婚も禁止だそうだよ。そんな心配しなくていい」


 そんな言葉は、スヴィの癒しになどならなかった。

 目の前からクリストフがいなくなってしまうかもしれないこと……ただそれが、苦しく悲しい。

 スヴィはクリストフの服をぎゅっと掴んで、己の顔を彼の胸へと擦り付けた。


「好きです、クリスさん……っ」


 たまらず、想いが溢れてくる。


「僕も、大好きだよ」


 クリストフの手が、スヴィの背中をそっと撫でてくれた。そしてそのまま、優しく体を包んでくれる。


 この先も、ずっとこうしていたかったなぁ……


 クリストフの優しさ。温かさ。その全てを、独り占めしていたかった。

 スヴィは頬を濡らしながら、クリストフの腕に抱かれて眠った。

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